第26話 春にはまだ早い
第四十八季塔のあるノルクは、冬の終わりを商売にする街だった。
北から鉱石と木材が入り、南から穀物や塩が運ばれてくる。普段なら雪の深い季節でも荷馬車が途切れることはなく、街の東に広がる湿原が凍りつくこの時期だけは、夏より短い道を使えるのだという。
だからこそ、冬の最中に春が来ることは、単に暖かくなるという話では済まなかった。
街へ入って最初にレイが見たのは、泥だった。
雪の残る街道の真ん中を、茶色い水が流れている。
荷馬車の車輪が沈み、男が3人がかりで押していた。その横では冬物の外套を着た女が、芽を出した街路樹を見上げている。
屋根には雪。
道には泥。
枝には若葉。
「気持ち悪いな」
馬を降りながらレイが言う。
「季節に言う言葉じゃない」
「じゃあ、居心地が悪い」
グレンは第四十八季塔を見上げた。
塔そのものは第四十一季塔より一回り大きい。交易地だけあって処理量も多いらしく、基部から街の四方へ伸びる季脈管も太かった。
外見だけなら壊れているようには見えない。
それなのに、耳を澄ませばすぐ分かる。
冬の〈季音〉に春が重なっている。
二つの音が綺麗に混じっているわけではない。狭い場所を奪い合うように、互いを押しながら鳴っていた。
そしてその奥に、十三番目の音がある。
第四十一季塔で聞いたものより高い。
「やっぱり春側だ」
「昨日から変わってないか」
「少し強くなってる」
レイは塔の上部を見る。
外から十三番目の環は見えない。
だが、いる。
隠れているくせに、街の季節を押し動かしている。
「グレン・アルディス一級環暦士ですね」
声がして振り向く。
塔の入口から、一人の女が歩いてきた。
二十代前半くらいだろうか。
青みの強い黒髪を顎のあたりで真っ直ぐに切り揃え、灰色の目をしている。北方支局の深緑の外套は泥一つなく、腰には工具ではなく三種類の測定器が整然と並んでいた。
「北方支局所属、第二級環暦士のリディア・ケイルです。昨日の夜から第四十八季塔の現地統括を任されています」
「グレンだ」
グレンが短く返す。
リディアの視線がレイへ移った。
胸元の資格章を見る。
「【第三級環暦士・実務生】?」
「ああ」
「第四十一季塔から同行してきた方ですね」
「そう」
リディアは少しだけ眉を上げた。
「報告にあった、旧環路の切離操作を担当したのは?」
「こいつだ」
グレンが答えた。
今度は明らかにレイを見る目が変わった。
「……実務生が?」
「俺もそう思う」
「お前が言うな」
リディアは2人を交互に見たが、何も聞かなかった。
「中で説明します。時間がありません」
愛想がないというより、無駄がない。
レイは少しだけ親近感を覚えた。
たぶん向こうは感じていないが。
◆
第四十八季塔の内部には、すでに6人の環暦士がいた。
壁際には臨時の測定器が並び、季素圧、季脈流量、各季環の回転値が刻々と記録されている。
「異常が始まったのは昨日の夕刻です」
リディアが机の上へ記録紙を広げた。
「塔鐘が十三回。その直後、十一月輪と十二月輪が同時に停止しました」
「破損は?」
グレンが聞く。
「ありません。歯車、軸、制動爪、月輪側の季素路まで確認済みです。物理的には動かせます」
「動かしてないのか?」
「支局からの停止操作禁止命令が出ていますから」
「正解だ」
リディアが別の記録を出す。
「その27分後から春季素が上昇。現在、平年同時期の約2.6倍です」
「冬は?」
「0.9から1.1倍の間。消えてはいません」
レイは記録を見る。
「じゃあ春だけ増えてる?」
「計器上は」
「計器上?」
リディアは塔の中央部へ目を向けた。
「おかしいんです」
初めて少しだけ感情が混じった。
「第四十八季塔は現在も冬季運転を指示しています。一月輪も起動していない。春季環への正式な切替信号もありません」
「なのに外では芽が出てる」
「はい」
「春季素はどこから出てる?」
「分かれば昨夜のうちに止めています」
言い方は淡々としていた。
だが、少し悔しそうだった。
レイは塔の中央へ歩く。
「聞いていい?」
「何をですか」
「塔」
リディアが一瞬止まる。
「ああ。〈季音〉ですか」
「知ってる?」
「報告書で」
「便利だな、報告書」
「書かない人には分からないでしょうね」
レイはグレンを見る。
「この人、嫌いかもしれない」
「仲良くできそうで何よりだ」
「どこを見てそう思った?」
リディアは二人を無視し、測定器を一つ持ってついてきた。
塔の中心軸へ近づく。
レイは手袋を外し、金属柱へ指先を触れた。
音が増える。
冬季環。
十一月輪。
十二月輪。
止まっている二つの月輪からも、完全に音が消えているわけではない。
その奥。
カァン――。
十三番目。
さらに耳を澄ませる。
「……変だな」
「何が」
グレンが後ろから聞く。
「十三番目が春に寄ってるって言っただろ」
「ああ」
「寄ってるんじゃない」
レイは目を閉じた。
音を一つずつ追う。
十三番目の響きから、細い音が伸びている。
その先は春季環。
だが、直接ではない。
「一月輪だ」
リディアがすぐ測定器を見る。
「一月輪は停止しています」
「回ってない。でも繋がってる」
「計器には流量が出ていません」
「こっちには聞こえる」
リディアの眉がわずかに動く。
「数値にしてください」
「無理」
「では確認できません」
「だから困ってる」
レイは柱から手を離し、リディアの持っている測定器を見る。
「それ、共鳴幅まで取れる?」
「取れます」
「流量じゃなくて振動だけ見て」
リディアは何も言わず設定を変えた。
針が細かく揺れる。
「一月輪に当てて」
「停止中です」
「いいから」
リディアが一月輪側の点検口へ測定端子を付けた。
針はほとんど動かない。
数秒。
レイは十三番目の音を数えた。
一度。
二度。
三度。
「今」
針が跳ねた。
リディアの目が細くなる。
「もう一回」
一度。
二度。
三度。
「今」
また跳ねる。
「周期一致……」
「流れてないけど、叩いてる」
レイは一月輪を指した。
「十三番目の環が、春側の月輪に干渉してる」
「月輪を回さずに?」
「たぶん」
「そんな経路は現行図面にはありません」
レイとグレンが同時にリディアを見る。
リディアも気づいたらしい。
「……旧設備」
「ああ」
グレンが低く答える。
「第四十一と同じならな」
リディアはすぐ記録紙へ書き込む。
「地下を確認します」
「まだだ」
グレンが止めた。
リディアが顔を上げる。
「理由は?」
「先に外を見る」
「塔の異常ですよ」
「だからだ」
グレンは入口へ向かった。
「塔だけ見て直すと、街を壊すことがある」
レイはその背中を見る。
リュネ村で、自分が一度やったことだった。
北西貯水池へ冬を逃がし、別の場所へ危険を移しただけになった。
リディアは納得していない顔だったが、反論せず測定器を腰へ戻した。
「外で何を確認するんですか」
グレンは扉を開ける。
「春が来て、誰が困ってるかだ」
◆
答えは、塔を出て10分もしないうちに分かった。
「困るなんてもんじゃない!」
ノルクの街道管理所。
大きな地図を前に、髭の濃い男が机を叩いた。
「東湿原の氷路が朝から沈み始めてる! この時期に溶けるなんざ誰が考える!」
街道管理長のドミトという男だった。
四十代後半、分厚い革の上着を着た大柄な男で、環暦士3人を前にしても遠慮する様子がない。
「今、湿原に何台いる」
グレンが聞く。
「確認できてるだけで18台。昨日入った隊がもう一つあるから、全部なら30近い」
「人は?」
「御者と護衛で50は超える」
地図の上に、冬季限定と書かれた街道がある。
通常の道は湿原を大きく北へ迂回する。
凍結している冬だけ、湿原を真っ直ぐ横切れる。
「今から戻せない?」
レイが聞く。
「どっちへだ」
「こっちでも、向こうでも」
「戻る方が危ねえ場所まで入ってる隊がいる」
ドミトが地図上の一点を指す。
「ここは夏なら腰まで沈む泥地だ。冬は底まで凍るから通れる。だが今朝の時点で表面が緩み始めた」
「完全に溶けるまで?」
「この調子なら明日の昼まで保たん」
レイは窓の外を見る。
雪解け水が側溝を流れている。
「冬に戻せばいいんじゃないですか」
リディアが言った。
「春季出力を抑え、冬季環を通常域へ復帰させれば再凍結できます」
ドミトが首を振った。
「急に凍らせるのも駄目だ」
「なぜです?」
「一回緩んだ氷路は、上だけ先に凍る。見た目じゃ分からん空洞ができるんだよ」
リディアが黙る。
「馬と荷車が乗った瞬間に割れる。去年それで2頭沈んだ」
レイは地図を見る。
春のままでも駄目。
冬へ戻しても、すぐには駄目。
環暦士としてなら、異常な春を止めるのが正しい。
街道にいる50人にとっては、それだけでは足りない。
「何日あれば安全に戻せる?」
グレンが聞く。
「最低でも2日。できれば3日かけて冷やしてほしい」
「その間に今の春が続いたら」
「道がなくなる」
ドミトが腕を組んだ。
「だから困ってる」
リディアが地図を見つめたまま言う。
「春季素を止めずに、上昇だけ抑える必要がありますね」
レイが横を見る。
さっきまで「冬へ戻せばいい」と言っていた。
「早いな」
「何がです?」
「切り替え」
「条件が増えたので、答えが変わっただけです」
レイは少し笑った。
「何ですか」
「いや」
この人とはたぶん、話が早い。
その時、管理所の外が騒がしくなった。
「開けろ!」
誰かが叫んでいる。
扉が勢いよく開いた。
泥まみれの若い男が入ってくる。
髪も外套も濡れ、片方の靴には泥が膝まで付いていた。
「東湿原からです!」
ドミトが立ち上がる。
「どうした!」
「第3隊が止まりました! 前の荷車が沈んで、後ろも動けません!」
「場所は!」
男が地図へ駆け寄り、震える指で一点を示した。
「黒柳の杭から南へ2キロ! 氷が割れ始めてます!」
管理所の空気が変わる。
「人数」
「17人! 馬が9頭!」
「怪我は!」
「一人、脚を挟まれてます!」
ドミトがすぐ部下へ指示を飛ばす。
「縄、板、そりを出せ! 西回りで救助隊を――」
「待って」
レイが地図を見る。
黒柳の杭。
湿原の中央寄り。
西回りでは遠い。
「季脈、通ってる?」
リディアがこちらを見る。
「何の話です?」
「湿原の下」
ノルクの第四十八季塔からは、街の外へ何本も季脈が伸びている。
冬季に湿原を凍結させるための補助路があるなら、氷路沿いを通っている可能性が高い。
ドミトが地図の端を指す。
「昔、凍結杭が並んでた。今も使ってるのは北側だけだ」
「図面ある?」
「古いのでいいならな」
グレンがレイを見る。
「何を考えてる」
「街全体を冬に戻す必要はない」
レイは地図上の氷路を指でなぞった。
「沈み始めた場所だけ、下から冷やす」
リディアがすぐ反応する。
「局地的な冬季素投入?」
「ああ」
「出力を間違えれば氷が割れます」
「だから一気に凍らせない」
「流量制御できる設備が残っている保証は?」
「それを見に行く」
レイは泥だらけの伝令を見る。
「黒柳の杭まで、馬でどれくらい?」
「道が残ってれば1時間もかからない。でも今は――」
「案内できる?」
男は一瞬迷ったが、頷いた。
「できます」
リディアがレイを見る。
「あなた、塔へ来たばかりですよね」
「そうだけど」
「まだ地下設備も確認していない」
「うん」
「それで外へ行くんですか」
レイは少し考えた。
リュネ村へ来たばかりの自分なら、まず季塔へ潜っていたかもしれない。
原因を探し、壊れた場所を見つけて直す。
それが仕事だと思っていた。
「17人いるから」
それだけ答えた。
グレンの口元がほんの少し動いた。
「俺は塔へ戻る」
「来ないの?」
「第四十八の春をこれ以上上げないよう押さえる。湿原まで届く冬季脈があるなら、こっちから流量も見られる」
リディアが口を開く。
「では私は塔に――」
「お前はレイと行け」
グレンが言った。
「私が?」
「ああ」
「理由を聞いても?」
「そいつは音を聞いて突っ込む」
「悪口?」
「お前は数字を見て止めろ」
リディアがレイを見る。
レイも見る。
数秒。
「了解しました」
「早いな」
「命令ですから」
「便利だな、それ」
「実務生には分からないでしょうね」
「やっぱ嫌いかも」
「奇遇ですね」
言葉とは裏腹に、リディアはもう腰の測定器を確認していた。
ドミトが救助用の地図と縄を持ってくる。
「氷路の入口までは馬で行ける。そこから先は橇を使え」
「分かった」
外へ出る。
春の匂いがした。
濡れた土と、芽吹いた草の匂い。
本来なら数か月先に来るはずのものだ。
レイは馬へ乗る前に、第四十八季塔を振り返った。
十三番目の音はまだ聞こえている。
春を押し上げるように、高く、細く鳴っていた。
第四十一季塔では冬へ偏っていた。
ここでは春へ偏っている。
同じ十三月なのに、起きていることが違う。
だが、二つを並べて初めて見えてくるものもあった。
「グレン」
「何だ」
「十三月って、季節が一つ増えるんじゃないのかも」
グレンがこちらを見る。
「冬でも春でもない音なのに、第四十一では冬を動かして、ここでは春を動かしてる」
レイは一度、言葉を探した。
「季節そのものじゃなくて、次の季節へ渡すための環なんじゃないか」
リディアが馬具を締める手を止めた。
「調整期間?」
「分からない。でも十二月の後で全部を一回繋ぎ直すなら、十三月があった意味はある」
十二の月を終えた後。
次の一年へ渡す前に、季節のずれを整える月。
もしそうなら。
失われた十三月は、余計な一月ではない。
四季を次の巡りへ繋ぐために必要だった何かだ。
グレンはしばらく答えなかった。
「仮説として報告書に書け」
「また増えるの?」
「最低11枚だな」
「今それ言う?」
「戻ってから書け」
レイは嫌な顔をしながら馬へ跨がった。
だが、頭の中では十三番目の音が今までとは少し違って聞こえていた。
第四十一で冬を戻した時、グレンは言った。
リュネ村の冬は直った、と。
世界の季節が直ったとは言わなかった。
その意味が、ようやく分かり始めた気がする。
「行きますよ」
先に馬へ乗ったリディアが言う。
「待って」
「17人いるんでしょう」
「ああ」
「なら急いでください」
レイは手綱を握った。
泥の跳ねる街道の向こうでは、冬の湿原が春に呑まれ始めている。
塔を直すだけでは間に合わない。
今度の仕事は、季節の中に取り残された人間を連れ戻すところから始まるらしい。




