第25話 雪の向こう
翌朝、レイは寝不足だった。
原因は分かっている。
報告書だ。
少なくとも、そういうことにしておきたかった。
「顔が死んでるぞ」
第四十一季塔の前で馬具を確認していたグレンが言った。
「寝た」
「何時間」
「……2時間くらい」
「馬から落ちるなよ」
「誰のせいで報告書10枚も書いたと思ってるんだ」
「8枚しか受け取ってないが」
「残り2枚は移動中に書く」
レイは黙って馬の荷袋へ工具鞄を押し込んだ。
空は薄い灰色だった。
雪は止んでいる。
村の屋根も畑も白く覆われていたが、第四十一季塔から聞こえる冬の〈季音〉は穏やかだった。
通常値より、ほんの少し強い。
それだけだ。
昨日までなら、それだけで喜べたかもしれない。
今は、その奥に十三番目の音が残っていることを知っている。
それでも、少なくともリュネ村の冬は戻った。
レイは塔を一度だけ見上げた。
「行けそうか」
「ああ」
グレンの問いに答える。
王立環暦局から正式な調査班が到着するまで、同行してきた二人の環暦士が第四十一季塔へ残ることになっていた。
地下の十三月季環には触れない。
〈封環〉も抜かない。
村側の冬季出力だけを監視し、変化があれば北方支局へ即時連絡。
最低限の引き継ぎは終わっている。
つまり、もうレイがここに残る理由はなかった。
「レイ兄ちゃん!」
呼ばれて振り向く。
昨日、雪玉を投げてきた少年が走ってきた。
その後ろにも子供が何人かいる。
「また来る?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ!」
「仕事次第」
「じゃあ仕事作ればいい?」
「やめろ」
季塔を壊されては困る。
少年は意味を分かっているのかいないのか、笑っている。
「次来たら雪合戦しよ!」
「俺、20歳なんだけど」
「20歳でもできるよ!」
「そういうもの?」
返事を求めてグレンを見る。
「俺を見るな」
「こういう時だけ師匠やめるなよ」
子供たちの向こうから、杖をついたバルガスが歩いてくる。
右脚はまだ悪い。
それでも昨日までより顔色はよかった。
「世話になったな」
「俺の方が世話になったと思う」
「飯と寝床くらいだ」
「それがないと死ぬから十分」
バルガスは笑った。
「フィアの腕もある」
「それは……」
レイの視線が、吊られたままの左腕を探しそうになる。
だが、まだ本人の姿はなかった。
バルガスは何も言わず、少しだけ口元を緩めた。
「娘を助けてくれた。村もな」
「一人じゃ無理だった」
「知ってる」
その返事が早かった。
「だから礼を言ってる」
バルガスは右手を差し出す。
レイも握り返した。
大きくて硬い手だった。
「次は仕事じゃなく来い」
昨夜、似たことを言われた。
レイは一瞬だけ詰まる。
「……そうする」
「ほう」
「何、その反応」
「いや」
バルガスはそれ以上何も言わなかった。
最近、この村の人間は黙ったまま何かを察することを覚えすぎている。
「ほら」
横から何かが飛んできた。
レイは反射的に受け取る。
革袋だった。
「何これ」
「干し肉」
ロウが弓を肩へ掛けたまま立っている。
「途中で腹減るだろ」
「フィアみたいなこと言うな」
「俺はお前が腹減らして倒れて、帰ってきた時に面倒なのが嫌なだけだ」
「帰ってくる前提なんだ」
「違うのか?」
レイは革袋を見る。
「……帰るよ」
「なら持ってけ」
「ああ。ありがとう」
ロウは一度頷いた。
「第四十八だったな」
「そう」
「森のことは知らんが、北東は雪が深い。街道外れるなら足元見ろ」
「分かった」
「あと獣に道具食わせんなよ」
「好きで食わせたわけじゃない」
工具鞄の噛み跡はまだ残っている。
「次やったら革屋に直接怒られるぞ」
「それは怖いな」
「狼より?」
「種類が違う」
ロウが笑った。
グレンが馬へ跨がる。
「レイ。そろそろ出るぞ」
「分かった」
返事をしてから、もう一度村の方を見る。
フィアがいない。
昨夜、自分で見送りに来ると言った。
寝坊したのだろうか。
あれだけ起きると言っていたのに。
「何してる」
「別に」
レイも馬へ足を掛ける。
その時だった。
「待ってください!」
聞き慣れた声がした。
振り向く。
フィアが走ってくる。
左腕を吊ったまま、右手に大きな包みを抱えている。
「走るなって何回言えば――」
「間に合ったからいいです!」
「よくない」
レイの馬の前まで来ると、フィアは肩で息をした。
「寝坊?」
「違います」
「じゃあ何」
「これ作ってたんです」
包みを差し出される。
受け取ると重い。
「何入ってるの」
「パンと、卵と、干した果物と、昨日の煮込みを少し」
「多くない?」
「グレンさんの分もあります」
少し離れたところからグレンが頷いた。
「気が利くな」
「ありがとうございます」
フィアが笑った。
「昨日みたいに忘れないで食べてくださいね」
「忘れない」
「本当に?」
「たぶん」
「もう」
呆れられた。
包みを荷袋へ入れる。
それだけで済むはずだった。
だが、フィアはその場を動かなかった。
レイも馬に跨がったまま、何となく出発できない。
バルガスたちは少し離れたところにいる。
妙に気を使われている気がする。
「腕」
レイが言った。
「はい?」
「無理するなよ」
フィアが左腕を見る。
「もうかなり動きますよ」
「かなり、だろ」
「ちゃんと休みます」
「絶対?」
「レイさんに言われたくないです」
その通りだった。
「じゃあ、お互い」
「何をです?」
「無茶しない」
フィアが目を丸くする。
「レイさんが?」
「そこまで驚く?」
「ちょっと」
「約束やめようかな」
「駄目です」
フィアは右手を差し出した。
「約束」
レイはその手を見る。
握手。
昨夜までなら普通にできたはずなのに、少しだけ意識する。
それでも手を伸ばした。
フィアの手は、思ったより温かかった。
「約束」
軽く握る。
離そうとした。
けれどフィアの指が、一瞬だけレイの手を握り直した。
ほんの一瞬。
確かめるほど長くはなかった。
すぐ離れる。
「……じゃあ」
フィアが言う。
「行ってらっしゃい」
レイは少しだけ黙った。
行ってらっしゃい。
戻ってくる人間へ言う言葉だ。
「ああ」
馬の手綱を握る。
「行ってくる」
フィアが笑った。
昨夜の「待ってます」より、その笑顔の方が妙に胸に残った。
グレンが先に馬を進める。
レイもその後を追った。
村の端まで行ってから、振り返る。
フィアはまだそこにいた。
バルガスもロウも、子供たちもいる。
雪の中で、フィアが右手を上げた。
レイも片手を上げる。
声はもう届かなかった。
それでも十分だった。
◆
リュネ村が見えなくなってから、グレンが前を向いたまま口を開いた。
「長かったな」
「何が」
「見送り」
「村長たちもいたから」
「そうか」
「何」
「何も言ってない」
「その言い方やめろ」
昨夜から何度目だろう。
グレンはそれ以上何も言わなかった。
街道は北東へ伸びている。
一晩降った雪は深いところでも膝下ほどで、馬ならまだ問題なく進めた。
午前中はほとんど会話もなかった。
レイは馬上で揺られながら、第四十一季塔の報告書の続きを頭の中で組み立てていた。
第七次改修。
十三月季環。
エド・ラウゼ。
灰色の人物。
三鋲。
封環。
書かなければならないことが多すぎる。
「全部書くの?」
「何をだ」
「十三月のこと」
「書け」
「灰色の奴も?」
「書け」
「お前の師匠の話も?」
そこでグレンが少しだけ黙った。
「……必要な範囲はな」
「そこ削ると怒るけど」
「分かってる」
以前なら、その返事だけでも引っ掛かったかもしれない。
だが今は、グレン自身も知らないことが多いと分かっている。
師匠に隠されていた側でもある。
「そういえば」
レイが言った。
「何だ」
「エルナって覚えてる?」
グレンが振り返った。
「急だな」
「覚えてる?」
「当然だろ」
「今どうしてるか知ってる?」
「知らん」
「即答」
「最後に会ったのは、お前が十五か十六の頃だったと思う」
レイは馬の手綱を持つ手を少し緩めた。
「会ってたの?」
「お前の実家へ寄った時にな」
「聞いてないけど」
「聞かれなかった」
その言い方は気に入らない。
「元気だった?」
「あの頃はな」
「何してた?」
「本人に聞け」
「今どこにいるか知らないって言っただろ」
「なら会った時に聞け」
役に立たない。
「何で急にエルナなんだ」
今度はグレンから聞かれる。
「昨日、昔の話したから」
「誰と」
「フィア」
「そうか」
またそれだけ。
レイは嫌な予感がした。
「何」
「別に」
「絶対何かあるだろ」
「お前が幼馴染の話をして、その翌朝にその幼馴染の消息を俺へ聞いてきた。それだけだ」
「……何が言いたい?」
「何も」
本当に面倒な師匠だった。
レイは前を向く。
フィアの顔が浮かんだ。
エルナの話をした時、少しだけ声が変わっていた気がする。
そしてその後に、付き合ったことがあるのかと聞かれた。
「……いや」
「何だ」
「何でもない」
「そうか」
今度は自分がその返しを使った。
◆
昼前、二人は街道沿いの小さな休憩所で馬を止めた。
石造りの屋根と壁だけの簡素な場所だったが、風を避けるには十分だった。
レイは荷袋からフィアの包みを取り出す。
「本当に多いな」
パンが4つ。
茹でた卵。
干した林檎。
包み直した肉。
小瓶に入った濃い煮込み。
その底に、小さな紙が一枚入っていた。
「何だ」
グレンが覗く。
「見るな」
「まだ見てない」
レイは紙を開く。
短い文字だった。
【ちゃんと食べてください。
無茶もしないこと。
次は普通のお客さんで来てください。】
最後に、小さく。
【フィア】
レイはしばらく紙を見た。
「何て書いてあった」
「飯食えって」
「それだけか?」
「それだけ」
「そうか」
グレンはパンを一つ取った。
「勝手に取るなよ」
「俺の分もあると言ってただろ」
「まだ分けてない」
「細かい」
レイは紙を畳む。
捨てるものでもない気がして、工具鞄の内側へ入れた。
場所を選んだ後で少し考える。
工具鞄は、一番なくしたくないものを入れる場所だ。
まあ、紙が濡れにくい。
それだけだ。
たぶん。
◆
午後になると、景色が変わり始めた。
最初に気づいたのは雪だった。
「グレン」
「ああ」
二人とも馬を止めてはいない。
ただ、街道脇の雪が明らかに薄くなっている。
北へ向かっているのに。
普通なら、むしろ深くなるはずだった。
さらに1時間ほど進むと、積雪はほとんど消えた。
代わりに、濡れた土が露出している。
「気温は?」
レイが季素計を出す。
「気温自体は低い。冬だよ」
「春季素だな」
「ああ」
針が振れている。
冬季素もある。
だが、その上から春季素が異常なほど混ざり込んでいた。
街道脇の木の枝を見る。
芽が膨らんでいる。
一部は、すでに葉を開いていた。
「早すぎる」
「早いどころじゃない」
グレンが馬を進める。
さらに先。
雪解け水の流れる斜面に、小さな黄色い花が咲いていた。
冬の最中だ。
地面の一部にはまだ雪が残っている。
その隣で春の花が咲いている。
美しい。
だからこそ、気味が悪かった。
「第四十八は、春を吐いてるのか」
「報告通りなら、十一月輪と十二月輪が止まってる。冬へ進めず、別の流れが押し上がっている可能性はある」
「十三月との繋がりは?」
「着いてから見る」
グレンの声が少し硬くなる。
夕方が近づく頃、街道の先に家々が見え始めた。
第四十八季塔のある町だった。
リュネ村よりずっと大きい。
石造りの家。
荷馬車。
街道沿いの倉庫。
人の出入りも多い。
だが、様子がおかしい。
冬服を着た人々が、咲き始めた木々を見上げている。
屋根には雪が残っているのに、軒先では水が滴っている。
畑の一部は緑に変わり、その隣では凍った土が残っていた。
冬と春が、同じ場所に重なっている。
そしてその中心に、第四十八季塔が立っていた。
レイは馬を止める。
「……聞こえる」
グレンも塔を見る。
「十三番目か」
「それもある」
「他は?」
レイは目を閉じた。
第四十八季塔から聞こえる〈季音〉。
春。
冬。
その二つが異常に近い。
まるで本来なら順番に並ぶはずの季節が、狭い場所で互いを押し退けようとしている。
そして、その奥。
十三番目の音は確かにあった。
だが第四十一季塔とは違う。
「十三月が……」
レイは目を開く。
「春の方に寄ってる」
グレンの表情が変わった。
その時、町の季塔から音がした。
ゴォン――。
一度だけ。
周囲の人間が一斉に塔を見る。
鐘ではない。
もっと低い。
塔の内部で、何か巨大なものが動いた音だった。
次の瞬間。
街道脇の木々から、一斉に芽が開いた。
冬の空の下で、枝という枝が緑に染まっていく。
レイはその光景を見上げた。
リュネ村では、冬が来なかった。
今度は違う。
ここでは季節が、先へ進みすぎている。
「休めそうにないな」
レイが言う。
グレンは馬を塔へ向けた。
「最初から期待してない」
第四十八季塔。
次の現場が始まった。




