第24話 灯の下
リュネ村で過ごす最後の夜は、驚くほど静かだった。
昨日までなら、塔の音が変わるたびに起き、通信器が鳴れば走り、外から悲鳴が聞こえれば工具鞄を掴んでいた。
今夜は何もない。
窓の外では雪がゆっくり降っている。
普通の雪だ。
それがかえって落ち着かなかった。
「……何か忘れてる気がする」
借りている部屋の床に工具を広げながら、レイは呟いた。
共鳴棒は折れている。予備は一本。調整針は揃っているし、季素計の予備管も問題ない。
狼に噛まれた工具鞄は、補修された革紐がまだ新しい。
フィアがロウに頼んで直してくれたものだ。
指で引っ張る。
丈夫だった。
「これより先に俺が壊れそうだな」
明日は第四十八季塔へ向かう。
グレンの話では馬で半日以上。そこから先の状況次第では、さらに北へ移動する可能性もあるらしい。
いつリュネ村へ戻れるかは分からない。
そもそも戻る理由がなければ、次に来るのは第四十一季塔の定期点検が回ってきた時かもしれない。
数年後。
そこまで考え、レイは工具を一本取り落とした。
「……長いな」
拾おうとしたところで、扉が叩かれた。
コン、コン。
「起きてますか?」
フィアだった。
「起きてる」
扉を開ける。
レイは一瞬、そのまま何も言わなかった。
風呂を済ませた後らしく、フィアはいつも後ろでまとめている栗色の髪を下ろしていた。肩より少し下まである髪にはまだわずかに湿り気が残り、普段の作業着ではなく、柔らかそうな薄茶色の部屋着を着ている。
首元が少し広く、白い鎖骨が灯りの下に覗いていた。
「……何です?」
「いや」
レイは視線を上げる。
「髪、そんな長かったんだな」
「そこ?」
「他に何がある」
「別に」
フィアの右手には木の盆があり、湯気の立つカップが二つ乗っている。
「入っていいですか?」
「ああ」
フィアが部屋へ入り、床一面に広がる工具を見た。
「うわ」
「なんだ」
「寝る場所あります?」
「ある」
「どこに?」
レイはベッドを見る。
「そこ」
「工具じゃなくてレイさんの話です」
「俺もそこで寝る」
「じゃあ片づけてください」
「今やってる」
「散らしてるようにしか見えませんけど」
フィアは笑いながら盆を机へ置いた。
椅子にはレイの外套と書類が積まれている。それを見て、フィアは自然にベッドの端へ腰を下ろした。
「これ、温かいうちに」
「何?」
「蜂蜜入りのミルクです」
「甘いやつ?」
「嫌です?」
「嫌じゃない」
「じゃあどうぞ」
カップを受け取って一口飲む。
「甘い」
「蜂蜜入りって言いました」
「想像の倍だった」
「疲れてる人にはそれくらいでいいんです」
フィアも自分のカップを持つ。
しばらく、二人とも黙って飲んだ。
薪が小さく爆ぜ、部屋の外からは時折風の音が聞こえる。
「静かですね」
「ああ」
「ちょっと変な感じ」
「フィアも?」
「ここ何日か、ずっと何かしら起きてましたから」
「狼とか」
「逆さに降る雪とか」
「地下の死体とか」
「それは今言わなくてもよくないですか?」
「何か思い出したから」
「せっかく落ち着いてたのに」
フィアが困ったように笑った。
それから窓へ目を向ける。
「明日の朝なんですよね」
「ああ」
「早いです?」
「日の出くらい」
「じゃあちゃんと起きないと」
「別に見送りはいいぞ」
フィアがこちらを見る。
「何で?」
「朝早いから」
「私の村から出ていくのに?」
「……分かった」
これ以上言うと怒られそうだった。
「起きてて」
「起きます」
「命令みたいになったな」
「約束です」
フィアは少し笑った。
また静かになる。
嫌な沈黙ではなかった。
けれど、今夜はいつもと違う。
明日になればこの部屋を出て、フィアとも離れる。そのせいなのか、話さなくても妙に相手の存在を意識した。
フィアが髪を耳へ掛けると、普段は見えない首筋が覗いた。
レイはカップへ目を落とす。
「そういえば」
フィアが言った。
「レイさんって、子供の頃もこんな感じだったんですか?」
「こんな感じって」
「工具ばっかり触ってて、愛想があんまりなくて」
「後半いる?」
「大事です」
レイは少し考えた。
「工具は触ってた。今ほどじゃないけど」
「友達と遊んだりは?」
「したと思う」
「思う?」
「近所に、いつも勝手についてくる奴がいたからな」
「勝手に?」
「ああ。朝起きたら家の前にいるし、俺が工具弄ってたら隣でずっと喋ってるし。エルナって奴」
フィアのカップが一瞬止まる。
「女の子なんですね」
「ああ。家が近かった」
「仲良かったんですか?」
「まあ、物心ついた頃からいたからな」
レイにとっては、それ以上でもそれ以下でもなかった。
朝になれば家の前にいて、昼には勝手についてきて、夕方になればレイの母親に帰れと言われる。
「俺より先にうちで飯食ってることもあった」
「もう半分家族じゃないですか」
「母親にはそんな扱いされてたかもな」
思い出してみれば、エルナの家より自分の家で夕食を食べていた日の方が多かった時期すらあった気がする。
「グレンさんについて村を出てからは?」
「ほとんど会ってない。最初の頃は手紙が来てたけど」
「そっか」
フィアはそれ以上、細かく聞かなかった。
ただ少し考えるように、カップの中を見ている。
「何?」
「何でもないです」
「その言い方、最近信用できなくなってきた」
「じゃあ信用しなくていいです」
「ひどいな」
フィアが小さく笑った。
「グレンと初めて山に入った時なんか、もっとひどかったけど」
「何がです?」
「俺が」
そこから話は、いつの間にか旅の昔話へ移っていった。
夏季素が暴走し、真冬なのに蝉が鳴いていた町。
宿代が足りなくなって馬小屋で寝た夜。
道を間違えたグレンが、絶対に間違えていないと言い張って半日余計に歩いたこと。
「グレンさんでも道間違えるんですね」
「間違える。認めないだけ」
「それ本人の前で言えます?」
「言える」
「強い」
「その後の機嫌は保証しないけど」
さらに、十四歳の時にグレンの共鳴鉗子を壊した話もした。
「3日もずっと直してた」
「寝たんですか?」
「少し」
「絶対寝てないでしょ」
「寝たと思う」
「それで今も人の工具触るの嫌なんですね」
「嫌っていうより、怖い」
「グレンさん、怒った?」
「怒らなかった」
フィアが少し考える。
「……そっちの方が怖そう」
「分かってきたな」
あの時のグレンは、壊れた鉗子よりレイの顔を見ていた。
だから余計に怖かった。
何も言わず、直るまで待っていた。
3日目の朝にようやく動いた時も、一言だけ「遅い」と言われた。
今になって考えると、随分あの男らしい。
「フィアは?」
「私?」
「子供の頃」
「聞きたいです?」
「話したんだから」
「仕返しですか」
「公平」
「そういうことにしときます」
フィアも村の話をした。
子供の頃、ロウが仕掛けた罠に自分が引っ掛かり、片足を吊られて大泣きしたこと。
バルガスに内緒で森へ入り、半日迷子になったこと。
父親に見つけてもらった直後、「迷ってない」と言い張ったこと。
「それグレンと同じじゃん」
「違います!」
「どこが」
「私は子供でしたから」
「グレンより言い訳うまいな」
「レイさん、明日の朝グレンさんに言いますよ」
「やめろ」
フィアが声を抑えて笑う。
初めて獲物を仕留めた夜のことも話してくれた。
猟師について森へ入るようになった頃、初めて矢が獲物に当たった。
「嬉しかった?」
「その時は」
フィアは少しだけ目を伏せた。
「でも近くまで行ったら、思ってたよりずっと血が出てて。私がやったんだって分かったら、吐きました」
「そうなんだ」
「ロウさんには、向いてないからやめろって言われたんです」
「やめなかった」
「はい」
「何で?」
「自分たちが食べてる肉がどこから来るのか、知らないままの方が嫌だったから」
レイは少しだけ黙った。
狼を傷つけた時の感触を思い出す。
修理に使うはずの設備を、生き物を傷つけるために使った。
あの時感じたものと、フィアが話していることは少し違う。
それでも、どこか似ている気がした。
「フィアらしいな」
「どういう意味です?」
「そのまま」
「またそうやって説明しない」
「褒めてる」
「……ならいいです」
フィアは少し嬉しそうにミルクを飲んだ。
話しているうちに、最初にあった妙な緊張は薄れていた。
フィアの知らなかった話を聞く。
自分の知られていなかった話をする。
それだけなのに、妙に時間が早い。
時計代わりの小さな砂器は、いつの間にか一度ひっくり返されていた。
話が途切れ、薪の爆ぜる音だけが残る。
フィアはカップの底に残ったミルクを眺めていた。
「……レイさん」
「何?」
「一つ聞いていいですか?」
「さっきから結構聞いてるけど」
「じゃあ一つ増えても同じですね」
「その理屈はおかしい」
フィアは少し迷ってから口を開いた。
「レイさんって、今まで誰かとお付き合いしたことあるんですか?」
レイは瞬きをした。
急に方向が変わった。
「ない」
「早いですね」
「考える必要ないからな」
「そうなんだ」
フィアはそれだけ言ってカップを口へ運ぶ。
けれど、さっきよりほんの少し表情が柔らかくなった気がした。
「何?」
「何でもないです」
その返事は今夜二度目だった。
レイは少し考える。
「フィアは?」
「え?」
「俺だけ答えるのおかしくない?」
今度はフィアが目を逸らした。
「……ないです」
「そうなんだ」
「何ですか、その反応」
「いや」
思ったより安心した。
自分でも分かる程度に。
フィアがじっとこちらを見る。
「今、ちょっと嬉しそうでしたよ」
「気のせいだろ」
「さっき私が言ったやつ返してません?」
「便利だったから」
「もう」
フィアは呆れたように笑った。
「話はありましたけどね。近くの村の人とか、お父さんの知り合いの息子とか」
「断った?」
「はい」
「何で?」
「好きじゃなかったので」
「……なるほど」
また少し気持ちが軽くなる。
今度はフィアも気づいたらしい。
けれど何も言わず、口元だけが少し緩んだ。
それが妙に恥ずかしい。
レイは残ったミルクを飲み切った。
フィアが姿勢を変える。
ベッドが小さく沈み、部屋着の裾が膝の上で少しずれた。
白い脚が覗く。
レイは反射的に視線を机へ戻した。
「どうしました?」
「何でもない」
今度は本当に聞かれただけだった。
フィアは気づいていないらしい。
そのまま身体を少し後ろへ預け、欠伸を噛み殺す。
「眠いなら戻った方がいいぞ」
「まだ大丈夫です」
「今欠伸したけど」
「してません」
「した」
「見間違いです」
「そこ否定する?」
フィアが少し笑った。
「最後の夜だから、もう少し話したいんです」
何気なく言ったように聞こえた。
けれど、その言葉だけは妙に残った。
「最後って」
「明日からいないじゃないですか」
「戻ってくるかもしれない」
「いつ?」
「分からない」
「ほら」
フィアは膝を抱えようとして、左腕が使えないことを思い出したらしい。
少し困ったような顔をする。
レイはベッド脇にあった枕を取り、彼女の背中へ置いた。
「使えば」
「ありがとうございます」
フィアが身体を預ける。
「……レイさんって、たまに優しいですよね」
「たまに?」
「普段は分かりにくいので」
「普通だと思うけど」
「そういうところです」
また分からないことを言われた。
それからもしばらく、どうでもいい話をした。
村で一番料理が下手なのは誰か。
ロウが酒を飲むと同じ昔話を3回すること。
バルガスは怪我をする前まで、祭りになると誰より先に踊っていたこと。
「想像できない」
「本人の前で言わないでくださいね」
「見たい」
「来年の祭りに来れば見られるかも」
「来年か」
「……来ます?」
一瞬だけ、会話が止まる。
フィアは何でもないような顔をしていた。
「予定が空いてたら」
「そこは来るって言うところじゃないですか?」
「仕事あるかもしれないだろ」
「じゃあ空けてください」
「一年先まで?」
「環暦士ってそんなに忙しいんです?」
「俺も知らない」
「頼りないなあ」
フィアが笑う。
レイも少し笑った。
今度こそ砂器の砂が落ち切っている。
「そろそろ本当に寝ないと」
レイが言う。
「レイさんが?」
「フィアが」
「レイさんもです」
「俺はあと報告書」
「最低10枚でしたっけ」
「思い出させるな」
「明日の馬の上で書けばいいじゃないですか」
「文字が死ぬ」
フィアが笑って立ち上がった。
長く座っていたせいか、身体がわずかに揺れる。
レイは咄嗟に右腕を支えた。
「大丈夫か」
「座りすぎただけです」
「年寄りみたいだな」
「18歳です」
距離が近かった。
フィアの髪から、風呂上がりの石鹸の匂いがする。
顔を上げれば、すぐそこに琥珀色の目があった。
レイの手はまだフィアの腕を支えたままで、どちらもすぐには動かなかった。
フィアの視線が一度だけ、レイの口元へ落ちた気がした。
気のせいかもしれない。
そう思ったのに、自分までフィアの唇を見ていることに気づいた。
近い。
昨日までなら、それだけで済んだはずだった。
今は何となく、その先を考えてしまう。
レイは先に手を離した。
「……転ぶなよ」
「はい」
フィアも少しだけ離れる。
さっきまで普通に話していたのに、急に部屋が狭くなった気がした。
フィアは扉まで歩き、取っ手へ右手を掛ける。
そこで振り返った。
「レイさん」
「何?」
「またリュネに来ます?」
レイは少し考えた。
「点検なら――」
「仕事じゃなくて」
先に塞がれた。
フィアは笑っていなかった。
「仕事がなくても、また来ます?」
答えは、思ったより簡単だった。
「ああ」
フィアの表情が少しだけ緩む。
「じゃあ、待ってます」
「いつになるか分からないぞ」
「知ってます」
「数年とか」
「それはちょっと遅いです」
「じゃあ努力する」
「何を?」
「仕事を早く片づける」
「それ、たぶん余計に仕事増えるやつですよ」
今度は二人とも笑った。
「おやすみなさい、レイさん」
「おやすみ、フィア」
扉が閉まる。
一人になった部屋で、レイはしばらくそのまま立っていた。
机には空になったカップが二つあり、ベッドにはフィアが座っていた跡がわずかに残っている。
明日の朝には出る。
それは変わらない。
エルナのことを思い出したのも久しぶりだった。
幼い頃、当たり前のように隣にいた少女。
今どこで何をしているのか。
会えるなら、久しぶりに会ってみたいとは思う。
けれど今夜、眠る前に頭に残っていたのは昔のことではなかった。
「仕事がなくても、か」
レイは小さく呟いた。
工具なら、用がなければ取り出さない。
季塔も、壊れていなければ訪れる理由はない。
けれど、人に会いに行くのに修理する理由はいらないらしい。
そんな当たり前のことを、レイは今になって初めて知った。




