第23話 冬の朝
雪は夜明け前まで降り続いた。
それでも、昨日までの冬とはまるで違った。
屋根を押し潰すほど積もるわけでもなければ、地面から空へ逆さに舞い上がることもない。朝になれば村人が戸口の雪を払い、家畜小屋へ道を作り、子供たちが長靴で新雪を踏み荒らしている。
ごく普通の冬だった。
レイは第四十一季塔の前で季素計を確認し、白い息を吐いた。
「1.2倍」
昨日、十三基を結んでいた外部環路を切り離した直後は通常値の1.5倍だった。
一晩でさらに落ちている。
冬季環の回転も安定し、十二の〈月輪〉にも大きなずれはない。
ただし。
レイは塔を見上げる。
十二の月輪のさらに奥から、今も微かな音が聞こえていた。
十三番目の〈季音〉。
消えてはいない。
第四十一季塔の地下で、静かに回り続けている。
「気になるか」
隣でグレンが言った。
「そりゃな」
「止めたくなったか」
「ならない」
レイが答えると、グレンが横目で見る。
「何だよ」
レイは季素計を工具鞄へ戻した。
「今止めたら何が起きるか分からない。外部環路を切った状態で安定してるなら、まずはこれを維持する」
「正解だ」
「珍しく褒めるな」
「お前が珍しくまともだからな」
「やっぱ褒めなくていい」
グレンは小さく笑った。
塔の周囲では、同行してきた二人の環暦士が追加の測定を続けている。
一人は地上の季環。
もう一人は村側の季脈。
北西貯水池からも、ロウが朝一番で見てきた報告が届いていた。
水位は安定。
堤体に新しい亀裂なし。
底の排水路も正常。
完全に元通りとは言えない。
それでも、少なくともリュネ村が今日一日で凍りつく心配はなくなった。
「レイさん!」
声に振り返る。
フィアが雪の上を歩いてきた。
今日は走っていない。
左腕はまだ吊られているものの、指先は昨日より滑らかに動いている。
右腕には、畳んだ濃紺の外套を抱えていた。
「これ、ありがとうございました」
「ああ」
昨日貸した外套だ。
きちんと乾いていて、まだ少しだけ暖かかった。
暖炉の近くに置いていたのだろう。薪の匂いに混じって、いつもフィアからする石鹸の匂いがわずかに残っている。
そこまで考えたところで、昨日の濡れたシャツが頭に浮かびそうになった。
レイは無言で外套を羽織った。
「ちゃんと乾いてます?」
「乾いてる」
「よかった」
フィアはそれだけ言って、塔の季素計を見る。
妙なやり取りにはならなかった。
それが少し助かった。
「どうです?」
「冬はかなり落ち着いた。まだ少し強いけど、今なら現行側の調整だけでいける」
「じゃあ」
フィアが村を見る。
雪を集めている子供たち。
屋根から雪を落としている男たち。
家の前で冬豆を広げ直している老人。
「本当に戻ったんですね」
「ああ」
言った直後、小さな雪の塊がレイの肩へ当たった。
「……何?」
見る。
少し離れたところに、村の子供が3人いた。
一人が口を押さえている。
残り二人が逃げた。
「お前だな」
「ち、違う!」
「手に雪持ってるけど」
少年が慌てて雪を捨てた。
「違う!」
「証拠隠滅が遅い」
フィアが笑い出す。
「レイさん、怖がられてますよ」
「俺が悪い?」
「顔がちょっと」
「生まれつきだけど」
少年は逃げるかと思ったが、少し迷ってからレイへ近づいてきた。
「ねーねー」
「何」
「レイお兄ちゃんが雪降らせてくれたの?」
お兄ちゃん。
その呼ばれ方に少しだけ違和感があった。
「俺一人じゃない」
「でも雪とかさわれるすごい人なんでしょ?」
「実務生」
「何それ」
「俺もたまに分からない」
後ろでグレンが咳払いをした。
「聞こえてるぞ」
「説明する方が難しいんだよ」
少年は肩書きには興味がないらしい。
「じゃあ、雪はもうなくならない?」
レイはすぐには答えなかった。
絶対とは言えない。
十三月季環は残っている。
北方の別の季塔では、今も異常が広がっている。
第四十一季塔だって、この先ずっと正常でいられる保証はない。
「なくならないようにする」
そう答えた。
少年は嬉しそうにはにかんだ。
「やったー!ありがとう!」
単純だ。
そのまま仲間のところへ戻っていった。
フィアが隣で少年の背中を見送っている。
「言い切らなかったですね」
「言い切れないからな」
「でも、逃げなかった」
レイがフィアを見る。
「何が?」
「前だったら『分からない』で終わってた気がする」
「俺、そんな感じだった?」
「割と」
「ひどい評価だな」
「今はちょっと上がりました」
フィアは笑った。
レイは返事をせず、村へ視線を戻した。
少しだけ悪くない気分だった。
◆
昼前になると、村役場の前に大鍋が出された。
冬が戻った祝い、というほど余裕があるわけではない。
壊れた柵は直さなければならないし、森狼に噛まれた男はまだ寝込んでいる。畑にも被害があり、北西貯水池も本格的な補修が必要だ。
それでも、ここ数日ずっと張り詰めていた村人たちが一度集まって温かいものを食べるくらいはいいだろう、とバルガスが決めたらしい。
豆と根菜、それに少量の肉を煮込んだ汁物だった。
「環暦士さん!」
呼ばれて振り向く。
以前、冬豆の畑でレイへ食ってかかった老人が立っていた。
「……どうも」
少し身構える。
老人は何も言わず、器を一つ押し付けてきた。
「食え」
「え?」
「若い奴がそんな細くてどうする」
「それは今関係なくない?」
「黙って食え」
強い。
レイは器を受け取る。
「……ありがとうございます」
老人は鼻を鳴らした。
「直したな」
その一言で、何の話か分かった。
「まだ完全じゃないです」
「雪は降った」
「でも塔の地下は――」
「雪は降った」
二回言われた。
老人は畑の方を見る。
「3年だぞ」
声が少しだけ変わる。
「3年、待った」
レイは何も言えなかった。
「だから今日は、それでええ」
老人はそれだけ言うと、自分の器を持って離れていった。
レイは湯気の立つ汁物を見る。
「食わないなら俺がもらうぞ」
ロウが横から覗き込む。
「絶対やらない」
「即答かよ」
「俺にくれたやつだから」
「お前、そういうとこ妙に律儀だな」
レイは匙を取った。
熱かった。
でも美味い。
「レイさん、こっち空いてますよ」
フィアが呼んでいる。
長机の端。
バルガスの隣に一人分の空きがあった。
レイは器を持ってそこへ座る。
向かいにはグレン。
隣にフィア。
人が多いので、少し狭い。
食べ始めてすぐ、机の下で膝が何かに触れた。
フィアの膝だった。
互いに一瞬だけ動きが止まる。
レイは少し足を引いた。
同時にフィアも引いたせいで、今度は机の脚へ当たった。
「痛っ」
「大丈夫?」
「大丈夫です」
フィアは平然と汁を飲んだ。
耳だけ少し赤い。
レイも黙って食事へ戻る。
向かいのグレンが何となくこちらを見た気がしたが、確認しないことにした。
今日はもう十分平和だった。
「レイ」
今度は本当にグレンから呼ばれた。
「何」
「食ったら少し話だ」
「仕事?」
「仕事だ」
嫌な予感がする。
「今じゃ駄目?」
「今でもいいが、食事が不味くなるかもしれんぞ」
「後にする」
フィアが横で笑った。
◆
昼食の後、レイとグレンは役場の小部屋へ移った。
机の上には数枚の書類が置かれている。
「何これ」
「今回の現地報告」
「早くない?」
「下書きだ」
グレンは椅子へ座る。
「まず確認する。今回の第四十一季塔について、現行設備側の冬季出力は安定した。十三月季環は残っているが、外部環路からは切り離した状態で維持する」
「異論なし」
「北西貯水池は要補修。第七次改修関係の旧設備は封鎖せず、現状保存」
「調べるため?」
「ああ。局から正式な調査班を入れる」
「支局?」
グレンの顔が少し険しくなる。
「中央も噛む」
「そこまで?」
「北方だけで少なくとも複数塔に異常が出ている。十三月設備が十三基単位で繋がっている可能性まで出た。第四十一だけの案件ではなくなった」
当然だった。
「灰色の奴は?」
「追跡対象にはなる。ただし、お前は追うな」
「またそれ?」
「今のお前の仕事じゃない」
レイは少し不満だったが、以前ほど反射的に逆らう気にはならなかった。
「じゃあ俺の仕事は?」
グレンは書類を一枚、レイの前へ滑らせた。
「まず今回の報告書を自分で書け」
レイは紙を見る。
「何枚?」
「最低10枚」
「嫌だ」
「仕事だ」
「塔直すより嫌なんだけど」
「知るか」
グレンはもう一枚出した。
「それと、実務認定の繰り上げ審査を申請する」
レイの手が止まった。
「何?」
「聞こえただろ」
「俺の?」
「他に誰がいる」
レイは書類を見る。
【第三級環暦士 実務認定審査申請】
「実務生じゃなくなるのか?」
「審査が通ればな」
「命令違反したけど」
「したな」
「重大設備を勝手に触ったけど」
「触ったな」
「謎の旧設備まで動かしたけど」
「そこまで自覚があるなら報告書に全部書け」
「審査落ちない?」
「俺が推薦する」
レイはグレンを見る。
冗談を言っている顔ではなかった。
「何で」
「今回のお前は、実務生の権限を越えた判断を何度もした」
「やっぱ怒られる話では?」
「最後まで聞け」
グレンが腕を組む。
「勝手な判断も多かった。危険にも突っ込んだ。命令も破った」
「褒める気ある?」
「だが、現地でしか拾えない情報から判断し、住民を守りながら第四十一季塔を安定させた」
レイは黙る。
「一人でやったとは言わん。村の人間にも助けられた。現地の猟師にも、あの少女にもな」
「ああ」
そこはすぐに頷けた。
今回、自分だけなら途中で死んでいた可能性すらある。
「それを理解してるなら十分だ」
グレンが言う。
「実務生ってのは、一人で何でもできる人間を作るための期間じゃない。自分にできることと、できないことを判断するための期間でもある」
「最初に教えてくれたか?」
「教えた」
「覚えてない」
「だから実地で覚えろ」
「乱暴だな」
「お前にはそれくらいでちょうどいい」
レイは申請書をもう一度見る。
第三級環暦士。
実務生ではない。
正式に、自分の判断で現場を任される資格。
「通るとは限らないぞ」
「分かってる」
「審査官が俺とは限らん」
「その方がいいかも」
「取り下げるぞ」
「すみません」
グレンが小さく笑った。
その時、通信室の方から呼び声がした。
「グレンさん!」
同行してきた環暦士の一人だ。
すぐに小部屋へ入ってくる。
「北方支局から緊急です」
紙を渡す。
グレンが読む。
レイも横から覗いた。
【第四十八季塔】
【塔鐘十三回確認】
【十一月輪・十二月輪 同時停止】
【周辺地域 春季素異常上昇】
昨日、地下の古い図面で次に繋がっていた塔。
「やっぱり第四十八」
レイが言う。
グレンはすぐに立ち上がった。
「出発は明朝」
「俺も?」
「当然だ」
返事は迷わなかった。
初めての単独任務は、ここで終わる。
その事実がようやく実感として落ちてきた。
「明日……」
「ああ」
グレンは通信室へ向かっていく。
「今日は村でやることを終わらせろ。あと寝ろ」
扉が閉じた。
レイは一人、申請書と緊急通信を見下ろした。
リュネ村を出る。
それ自体は最初から分かっていた。
任務が終われば、次へ行く。
環暦士なら当たり前だ。
なのに、最初に浮かんだのは、フィアの顔だった。
◆
夕方。
雪は一度止み、白くなった村へ薄い夕日が差していた。
レイは壊れた工具を整理しながら、フィアを探していた。
探していると自覚した瞬間、少しだけ居心地が悪くなる。
別に特別な用事ではない。
明日出る。
それを伝えるだけだ。
役場の裏で見つけたフィアは右手だけで洗濯物を取り込もうとしている。
「何してるんだ」
「見たら分かりません?」
「分かるけど、片手でやることじゃないだろ」
レイは無言で隣へ立ち、竿から布を外した。
「ありがとうございます」
「どこ持ってく?」
「家です」
二人で洗濯物を抱えて歩く。
少しして、フィアが言った。
「何かありました?」
「何で」
「レイさんから手伝ってくれるの珍しいから」
「失礼だな」
「違いました?」
「……少し話がある」
フィアの歩調がわずかに遅くなった。
「明日、村を出る」
言葉にすると短かった。
「第四十八季塔で異常が出た。グレンとそっちへ行く」
「……そうですか」
それだけだった。
フィアは前を向いたまま歩く。
レイは横顔を見る。
何か言うかと思った。
でも何も言わない。
「……フィア?」
「分かってました」
少しして答える。
「レイさん、環暦士ですもんね」
「ああ」
「この村にずっといる人じゃない」
声は普通だった。
ただ、抱えている布を右腕で少し強く抱き直した。
「いつか行くのは分かってました」
「うん」
「だから大丈夫です」
その言い方が、あまり大丈夫そうには聞こえなかった。
レイは何を言えばいいのか分からない。
工具なら壊れた場所を探せる。
季塔なら音を聞けばいい。
こういう時に正解の言葉を見つける方法は、誰にも教わっていなかった。
「俺も」
言ってから止まる。
フィアがこちらを見る。
「俺も?」
「……思ってたより、出るの嫌だなって」
言った後で、少し後悔した。
何を言っているんだ。
だが、フィアは笑わなかった。
目を少し見開いて、それから小さく息を吐いた。
「それ、村が気に入ったって意味ですか?」
逃げ道を用意された気がした。
いつもの自分なら乗ったかもしれない。
「村も」
レイは答えた。
フィアの足が止まった。
レイも止まる。
「……も?」
「そこ拾う?」
「拾いますよ」
今度は少しだけ笑っている。
でも、それ以上は聞かなかった。
「じゃあ」
フィアはまた歩き始める。
「明日の朝まで、ちゃんとリュネ村にいてください」
「何それ」
「まだ任務終わってないでしょ」
「終わったと思ってた」
「勝手に終わらせないでください」
少し前を歩くフィアの耳が、夕日のせいだけではなく赤く見えた。
レイは追いかける。
明日には、この村を出る。
それでも今夜まではここにいる。
その意味を、昨日までより少しだけ大きく感じていた。




