第22話 おかえり
北西貯水池の脇で、レイの手にある〈封環〉がもう一度震えた。
キィン――。
地面の下から、それに応じるように小さな金属音が返ってくる。
カン。
灰色の人物が残した円盤と、3年前から姿を消しているという古い金属杭。その二つが無関係とは考えにくかった。
「掘らないぞ」
グレンが先に言った。
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
レイは不満だったが、今回はグレンが正しい。
聞こえるからといって、正体不明の地中設備をいきなり掘り返すのはさすがに危険だ。
グレンは土に半分埋もれた石板へ視線を戻した。
【封環標 第二】
苔を落としたことで、その下にもまだ文字が続いていることが分かる。
「水、少し借りるぞ」
ロウが水筒を渡す。
グレンは布を濡らし、石板の表面を丁寧に拭った。
泥に隠れていた古い刻印が、少しずつ姿を現す。
【北西緩衝路】
その下は欠けていた。
レイもしゃがみ込む。
「緩衝路……貯水池のことか」
「おそらくな」
さらに右側を拭う。
【封環具装着前――開放】
今度はレイも黙った。
グレンがもう一度、最初から文字を読む。
「封環具を装着する前に、北西緩衝路を開放する」
「……順番が書いてある?」
「ああ」
レイは工具鞄から円盤を取り出した。
十三月季環の主機にあった窪み。
【封環具――装着】
【外部季脈――切離】
昨日読んだ文字が頭の中で繋がる。
「これ、十三月季環を止める道具じゃないんだ」
「俺もそう思う」
グレンが立ち上がった。
「〈封環〉という名前のせいで、環そのものを封じるように見えるが、主機にあった説明と合わせるなら違う」
「外と切る」
「ああ。十三月季環を動かしたまま、外部の環路から切り離す」
レイは貯水池を見る。
3年間、村の冬は塔へ吸い込まれていた。
十三月季環が起動してからは、今度は溜め込んでいたものを吐き出すように冬が戻ってきた。
そして地下の古い地図では、第四十一季塔は他の十二基と繋がっている。
「第四十一だけを、十三基の環路から外す?」
「できるならな」
「そうすれば、他の塔から来てる流れも止まる」
「少なくとも大幅には減るはずだ」
グレンは続ける。
「ただし外へ逃げていた流れを切れば、その瞬間に第四十一季塔の内部圧が上がる。そのために、先にこっちを開く」
北西貯水池。
緩衝路。
昨日、レイが無理に冬を逃がそうとして失敗した場所だ。
だが、あの時とは条件が違う。
「全部ここに流すんじゃない」
「そうだ。切り離す瞬間の余剰だけ受けさせる」
「その後は?」
「第四十一季塔だけで流量を落としながら、通常の冬季運転へ戻す」
ようやく、修理の形が見えた。
何かを見つけるたびに謎が一つ増えていたこの数日で、初めて「こうすれば直るかもしれない」という道筋が一本になった。
「今日やる」
レイが言った。
グレンは否定しなかった。
「ああ」
「今から?」
「ああ」
「珍しく止めないな」
「準備をしてからと言ってる」
「今、言ってなかったけど」
「今言った」
相変わらずだった。
少し離れたところで話を聞いていたフィアが、古い水路図の写しを開いた。
「この緩衝路、貯水池だけじゃなくて下の排水路にも繋がってます」
レイとグレンがそちらを見る。
フィアは片手で紙を押さえながら指を滑らせた。
「昨日レイさんたちが開けた底の逃がし。たぶんこれです」
「位置は合うな」
グレンが地図を覗き込む。
「なら貯水池の水位を少し落としてから、緩衝路を開ける。余裕を作れる」
「ロウ、頼める?」
レイが言うと、ロウは嫌そうな顔をした。
「また俺か」
「一番場所分かってるだろ」
「お前も分かってるだろ」
「俺は地下」
「便利だな、環暦士って肩書き」
「実務生だけど」
「そこだけ急に弱くなるな」
フィアが笑った。
その時、足元から鈍い音がした。
ミシ。
全員の表情が変わる。
「下がれ!」
グレンの声とほぼ同時に、古い水路脇の氷が割れた。
レイは反射的にフィアの腰へ腕を回し、後ろへ引いた。
「っ!?」
次の瞬間、ひび割れた石組みの隙間から水が噴き上がった。
「うわっ!」
まともに被った。
レイとフィアの上半身へ冷たい水が降りかかる。
グレンとロウは一歩早く避けていた。
「……お前らだけ何で濡れてんだ」
ロウが呆れた声を出す。
「聞くな」
レイは顔から水を拭った。
腕の中でフィアが固まっている。
「あ」
そこでようやく、自分が彼女の腰を抱えたままだと気づいた。
すぐに手を離す。
「悪い」
「い、いえ。助かりました」
フィアも妙に早口だった。
左腕を庇って引いたせいで、距離が近くなりすぎた。
怪我をしている側から倒れなくてよかった。
そう考えようとしたところで、別の問題に気づいた。
フィアの上着は完全に水を吸っている。
「これ、脱いだ方がいいな」
「そうですね。このままだと本当に凍りそう」
フィアは片手で上着の留め具を外し、その場で濡れた外套を脱いだ。
その下の薄いシャツまでかなり水を吸っていた。
レイの視線が止まる。
白っぽい布が肌へ張り付き、普段は服の下に隠れていた胸元の柔らかなふくらみまで、輪郭を隠せなくなっている。
ほんの一瞬だった。
レイは何も言わず、自分の外套を脱いだ。
「着ろ」
「え?」
「いいから」
フィアの肩へ掛ける。
そこでフィア自身も自分の状態に気づいたらしい。
胸元を見下ろした後、耳まで赤くなる。
「……ありがとう」
さっきまでの勢いはどこへ行ったのか、声が小さい。
「ああ」
レイはなるべく普通に返した。
フィアも何も言わなかった。
そのまま外套の前を右手で閉じる。
ロウはなぜか遠くの森を見ていた。
グレンも貯水池の方を見たまま口を開く。
「村へ戻るぞ」
助かった。
レイも動こうとして、フィアの視線が今度はこちらで止まったことに気づいた。
「何?」
「……何でもないです」
レイ自身の濃紺のシャツも水を吸って肌へ張り付き、古い火傷や細かな傷の跡が布越しに浮いていた。
フィアはすぐ目を逸らした。
何となく、さっきと立場が逆になった気がする。
だが、追及するのはやめた。
たぶん追及しない方が、お互いのためだ。
◆
村へ戻ると、バルガスは娘の格好を見るなり眉を寄せた。
「何があった」
「水路が壊れただけ」
フィアが答える。
「その外套は」
「借りました」
バルガスがレイを見る。
「……そうか」
「何ですか、その間」
「別に何も言っとらん」
最近この返しをする人間が多すぎる。
「着替えてきます」
フィアは逃げるように家へ向かった。
レイも自分の服を替えようとしたが、グレンに肩を掴まれる。
「先にこれを見ろ」
「寒いんだけど」
「3分で終わる」
「そう言って終わった試しないだろ」
「2分」
「短くなっただけじゃん」
役場へ入ると、グレンが紙を広げた。
北西緩衝路。
第四十一季塔。
地下の十三月季環。
そこに簡単な手順を書き込んでいく。
「ロウと一人を貯水池へ送る。先に底の排水を開いて水位を下げ、その後で緩衝路を開放」
「一人って?」
「俺と来た環暦士だ。現場の流量を測らせる」
「もう一人は?」
「地上の第四十一季塔。冬季環と村側季脈を監視」
「地下は俺とグレン」
「ああ」
グレンは最後に一つ書く。
【封環具装着】
「これで外部環路を切る」
「切った後、冬季素が跳ねたら?」
「お前が聞け」
「雑じゃない?」
「細かい異常を拾うのはお前の方が上だ」
さっき地下で言われた言葉と同じだった。
「俺は全体を見る」
レイは紙を見た。
グレンは広い流れを取る。
自分は小さなずれを拾う。
「分かった」
その時、役場の扉が開いた。
着替えたフィアが戻ってきた。
乾いた濃茶のシャツに厚手の上着。髪も拭いたようだが、毛先にはまだ少し水気が残っている。
グレンが説明を始める前に、フィアは机の紙へ目を落とした。
「村側は私が見ます」
「左腕」
「使いません」
「何をする気だ」
「井戸と畑を見てもらう人を決めて、異常が出たら塔前に報告を集めます。猟師は柵から動かしません」
グレンが少し考える。
「それならいい」
許可が出ると、フィアはすぐに動こうとした。
レイが呼び止める。
「フィア」
「はい?」
「外套」
まだフィアが持っている。
「あ」
「……いや、今は着といていい」
フィアが一瞬止まった。
それから少し笑う。
「じゃあ、終わったら返します」
「ああ」
それだけで、今度は何も茶化さなかった。
グレンも何も言わない。
その方がありがたかった。
◆
準備には2時間ほどかかった。
貯水池へ向かったロウたちから伝令が戻り、水位低下と緩衝路の開放が確認された。
村側の季脈も、フィアたちが井戸や畑ごとに状態をまとめてくれた。
冬季素は高いが、急激な上昇は止まっている。
なら、今しかない。
レイとグレンは再び地下へ降りた。
十三月季環の前。
十三本の環は、朝より明るくなっている。
壁面に浮かぶ十三基の季塔のうち、さらに一つが光り始めていた。
「増えてる」
「ああ」
グレンも見ていた。
レイは〈封環〉を取り出す。
主機の脇にある円形の窪みへ近づけると、金属が細かく震え始めた。
キィン。
十三番目の環が応える。
「入れるぞ」
「待て」
グレンが目を閉じた。
数秒。
「北西側の逃がしは生きてる。冬季脈もまだ余裕がある」
目を開く。
「やれ」
レイは円盤を窪みへ差し込んだ。
ぴたりと収まる。
一瞬、何も起きない。
その直後。
ゴン――。
地下全体が揺れた。
十三本の環が一斉に光る。
「来るぞ!」
レイは主機へ耳を向けた。
遠くから繋がっていた無数の〈季音〉が、一気に大きくなる。
十三基の塔。
外部季脈。
四季の流れ。
それらが第四十一季塔へ押し寄せる。
「切れてない!」
「まだだ!」
グレンも目を閉じたまま叫ぶ。
「環は回ってる! 止めるな!」
レイは封環へ手を伸ばしかけて止めた。
【環を止めるな】
78年前の死者が残した言葉。
抜けばいいとは限らない。
十三番目の〈季音〉が高くなる。
その中に、一つだけ周期の違う音が混じった。
「……三回」
「何だ!」
「3回ごとに外が引っ掛かってる!」
レイは数える。
一度。
二度。
三度。
「今!」
グレンが主機横の補助輪を回した。
ガン!!
一つ目の遠い響きが消えた。
「もう一回!」
再び数える。
三度目。
「今!」
二つ目が消える。
壁面に浮かんでいた季塔の光が、一つずつ細い線から切り離されていく。
環そのものは止まっていない。
十三番目は回り続けている。
だが、外から流れ込んでいた音だけが減っていく。
「そういうことか……」
レイはようやく理解した。
封じるのではない。
閉じ込めるのでもない。
環を生かしたまま、繋がりだけを切る。
「次!」
グレンの声が飛ぶ。
レイは音を追う。
一基。
また一基。
十三月季環から、遠い塔の響きが消えていく。
最後の一本が切れた瞬間。
地下が静かになった。
完全な無音ではない。
第四十一季塔自身の音は残っている。
冬。
春。
夏。
秋。
そして十三番目。
ただ、それだけだった。
「……切れた」
レイが息を吐く。
グレンはすぐに季素計を見る。
「まだ終わってない。冬が来るぞ」
次の瞬間、冬季素の針が跳ねた。
「北西へ流れてる!」
「量は」
「多い。でも昨日ほどじゃない」
「村側は?」
レイは耳を澄ませる。
第四十一季塔から村へ向かう冬の音。
強い。
だが、暴れてはいない。
「落ちてる」
「どこまで」
「待って」
少しずつ。
少しずつ。
冬の音が薄くなる。
季素計の針も下がっていく。
通常値の3倍。
2倍。
1.5倍。
そこで止まった。
「……まだ高い」
「十分だ」
グレンが言った。
「ここからは現行の季塔で調整できる」
レイは主機を見る。
封環具の横に、古い文字が淡く浮かび上がっていた。
【外部環路 切離完了】
その下。
【局地調整 移行】
「成功?」
「少なくとも、壊してはいない」
「それ成功って言わなくない?」
「確認するまでは言わん」
いつもの言い合いをする余裕が戻ってきた。
レイは十三月季環へ耳を澄ませる。
まだ聞こえる。
十三番目の音。
消えたわけではない。
けれど今は、遠くの塔を引っ張る音ではなかった。
この場所だけで、静かに回っている。
「グレン」
「何だ」
「十三月、残ったな」
「ああ」
「直ったのかな」
グレンはすぐには答えなかった。
「リュネ村の冬はな」
それで十分だった。
今は。
◆
地上へ戻る途中から、レイには分かっていた。
冬の音が変わっている。
塔から押し出される音ではない。
もっと広く、もっと柔らかい。
階段を上がり、外へ出る。
白いものが目の前を横切った。
レイは立ち止まった。
雪だった。
空から落ちてくる。
逆向きではない。
地面から空へ昇っていく異常な雪でもない。
普通に雲から生まれて、普通に下へ落ちてくる。
村人たちも外へ出ていた。
誰も騒がない。
最初は、ただ見ている。
3年間まともに来なかった冬。
それがようやく、当たり前の形で降っていた。
「レイさん!」
声の方を見る。
フィアが走ってきた。
左腕は吊ったまま。
肩にはまだレイの外套を羽織っている。
「走るなって」
言いかけて、やめた。
フィアも途中で速度を落とした。
雪が髪に落ちる。
右手を差し出す。
一片の雪が掌へ乗り、ゆっくり溶けた。
「冷たい」
「冬だからな」
フィアが顔を上げる。
「それ、今日2回目です」
「便利なんだよ」
「知ってます」
笑った。
レイも空を見る。
季音を聞く必要はなかった。
村の屋根へ。
畑へ。
森へ。
ただ静かに雪が降っている。
「今度の雪」
フィアが言った。
「下からじゃないですね」
「ああ」
「ちゃんと降ってる」
「ああ」
それだけだった。
けれど、フィアはしばらく空を見上げたまま動かなかった。
レイも隣に立っていた。
肩が少し触れる。
離れるほどでもなかった。
フィアの肩には自分の外套があり、そこへ白い雪が積もっていく。
第一級でもなければ、正式な卒業生でもない。
まだ【第三級環暦士・実務生】だ。
それでも。
初めて一人で任された村に、冬が戻ってきた。
レイは息を吐く。
白くなった息が、フィアの横で空へ消えた。
「おかえり」
フィアが小さく言った。
「俺に?」
「冬にです」
「……そっちか」
少しだけ残念に思った自分に気づき、レイは何も言わなかった。
フィアはそんなレイを見て、なぜか少し笑った。
今度は聞かなかった。
何を笑ったのか。
雪だけが、二人の間にも静かに降り続いていた。




