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十三月の環暦士 ~季節の果てで鐘が鳴る~  作者: 久遠こよみ
第1章 冬を失くした村

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第1話 冬が来ない

 真冬の駅で、秋の虫が鳴いていた。


 ――リーン。


 ――リーン。


「…………」


 列車から降りたレイ・セインは、3歩進んだところで足を止めた。


 聞き間違いかと思って待つ。


 ――リーン。


「嘘だろ」


 やっぱり鳴いている。


 レイは肩から提げていた革鞄を地面へ置き、線路脇にしゃがみ込んだ。革手袋を歯で引っ張って外し、黄色くなりかけた草を掻き分ける。


 小さな秋虫が1匹、何食わぬ顔でそこにいた。


「お前、今が何月か分かってるのか?」


 返事はない。


「十二月二十七日だぞ」


 当然である。


 虫に暦を期待した自分の方が悪い。


 指先を土に押し当てる。


 冷たい。


 だが、それだけだった。


 凍っていない。霜もない。駅舎の屋根にも雪はなく、線路の向こうには緑の残った畑まで見える。


 吐いた息すら白くならなかった。


 北西地方の十二月末。


 本来なら、この辺りは線路脇の草まで雪の下に埋まっている時期だ。


 レイは外套の内側から、折り畳んだ書類を取り出した。


【王立環暦局北方支局】


【第四十一季塔・臨時点検指令】


 目的地――リュネ村。


 異常内容――。


『冬季出力に軽微な低下を確認』


「軽微」


 書類を見る。


 秋虫を見る。


 もう一度、書類を見る。


 ――リーン。


「お前もそう思うか」


 ――リーン。


「そうだよな」


 王都へ戻ったら、この報告を書いた人間の名前だけは調べておこう。


 別に何かするつもりはない。


 ただ、目を見て聞いてみたい。


 これのどこが軽微なんですか、と。


 書類を畳んで胸元へ戻す。


 破らなかった自分は、少しくらい褒めてもいい。


 風が吹いた。


 灰黒色の髪が目に掛かり、レイは鬱陶しそうに前髪を払う。


 20歳。

 細身で、背は同年代より少し高い。濃紺の作業着の上から灰色の外套を羽織り、腰には3つの工具袋。肩から提げた革鞄も、ずいぶん使い込まれている。


 指には細かな切り傷や、薄い火傷の跡がいくつも残っていた。


 右胸には銀色の徽章。


 3本の線と、その下に刻まれた欠けた環。


【第三級環暦士・実務生】


 地下を走る〈季脈〉から〈季素〉を汲み上げ、土地へ季節を巡らせる巨大設備――〈季塔〉。


 その季塔を点検し、乱れた季節を直す技術者を〈環暦士〉と呼ぶ。


 ただしレイは、まだ正式な第三級ではない。


 簡単に言えば。


 見習いだ。


「環暦士さーん!!」


 駅舎の向こうから声が飛んできた。


 振り返る。


 一人の少女がこちらへ走ってきていた。


 栗色の髪を後ろでまとめているが、かなり雑だ。ほどけた何本かが頬に張り付いている。


 生成りのシャツに革の胴衣。赤茶色の短い外套。泥の残った頑丈な長靴。


 飾ることより、動きやすさを優先した格好だった。


 その中で、大きな琥珀色の瞳がよく目立つ。


「す、すみません!!」


 少女はレイの前まで来ると、膝に手をついて息を整えた。


「列車……早く着きませんでした!?」


「定刻だった」


「え?」


「予定通り」


「村の時計だと、まだ半刻くらいあるんですけど……」


 レイは少し考えた。


「それは列車より、村の時計を心配した方がいいな」


「…………」


 少女が顔を上げる。


 一瞬の沈黙。


「ふっ」


 吹き出した。


「確かに!」


 よく笑う。


 それがレイの第一印象だった。


「フィア・ベルンです。リュネ村で村長代理をしています!」


「村長代理?」


「父が村長なんですけど、今は脚を悪くして療養してるので。しばらく私が代理なんです」


「なるほど」


 レイが頷くと、フィアは少し胸を張った。


「18ですけど、ちゃんと仕事できますよ?」


「年齢については何も言ってない」


「顔が言ってました!」


 レイは自分の頬に触れた。


「そんなに出るか?」


「かなり」


「困ったな」


「直した方がいいですよ」


「努力する」


「本当に?」


「多分」


「多分!?」


 また笑われた。


「レイ・セイン」


 レイは胸元の徽章を軽く指した。


「王立環暦局。第三級環暦士・実務生」


「実務生……?」


 フィアの視線が徽章へ落ちた。


 3本の線。


 そして、閉じ切っていない環。


 意味に気づくのは早かった。


「もしかして……見習いですか?」


「簡単に言えば」


「…………」


「何だ」


「言っていいです?」


「もう顔に出てる」


「村の冬、大丈夫なんですか!?」


「正しい疑問だ」


「そこは否定してくださいよ!!」


「嘘ついても仕方ないだろ」


「そうですけど!」


 不安になるのも当然だった。


 環暦士は、本来なら簡単になれる職業ではない。


 王都にある〈王立環暦院〉で、季塔機構、季脈学、土地や農作、季素制御、環暦法といった専門分野を学ぶ。その課程を修了し、さらに資格査定を通過して、初めて環暦士として認められる。


 少なくとも、普通なら。


 レイは、その道を通っていない。


「ただ、俺が派遣された時点では軽い調整で済む故障だと判断されてた」


 そう言って周囲を見る。


 フィアもつられて見回した。


 雪のない駅。


 青い草。


 そして、十二月に鳴いている秋虫。


「……これが軽い?」


「そこについては俺も抗議したい」


「誰にです?」


「この報告書を書いた奴」


「私も連れてってください!」


「何する気だ」


「話し合いです!」


「目が話し合いの目じゃない」


「気のせいです!」


 思っていたより面白い娘らしい。


「とりあえず季塔へ案内してくれ」


「はい! レイさん」


 さっきまでの「環暦士さん」から呼び方が変わった。


「あ、荷物持ちますよ!」


「必要ない」


「でも、かなり重そうですけど」


「重い」


「だったら持ちますって!」


「駄目だ」


「なんで!?」


 レイは革鞄を少し抱き寄せた。


「工具が入ってる」


「工具です?」


「測定器」


「はい」


「予備部品」


「はい」


「予備工具」


「……全部仕事道具じゃないですか!」


「だから大事なんだ」


「私、落としませんよ?」


「人はみんなそう言う」


「絶対何かあったでしょ!?」


「聞くな」


 14歳の頃。


 師匠の共鳴鉗子を1本壊した。


『レイ』


『……はい』


『これは23年使っていた道具だ』


『聞きました』


『23年だ』


『2回目です』


『お前を弟子にした判断を、今少しだけ後悔している』


 怒鳴られなかった。


 怒鳴られない方が怖かった。


 結局、2人で3日かけて直した。


 それ以来、工具だけは他人に預けない。


「行くぞ、フィア」


 数歩進んだところで、後ろから声がした。


「……レイさん」


「何だ?」


「私、ちゃんと『レイさん』って呼んでますよね?」


「そうだな」


「なんで私は、いきなり呼び捨てなんです?」


 レイは振り返った。


「嫌だったか?」


「え?」


「嫌ならベルンさんにする」


「…………」


 フィアは妙に長く考えた。


「……別に、嫌ではないですけど」


「ならフィアでいいな」


「いや、そういう問題!?」


「違うのか?」


「……もういいです!」


 フィアが先に歩き出した。


 面倒な娘だ。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


◆


 リュネ村へ近づくにつれて、レイから軽い表情が消えていった。


 想像していたよりひどい。


 十二月末だというのに、道端には青い草が残っている。季節外れの小さな花まで咲いていた。


 野鼠が道を横切る。


 畑の向こうでは、老人が腕ほどもある青虫を棒で追い払っていた。


「……でかいな」


「去年くらいから増えたんです」


「冬を越したのか」


「多分」


「山の獣は?」


「降りてきますよ」


「何が」


「猪、角鹿、熊」


 フィアが少し考えた。


「たまに、もっと大きいのも」


 レイが横を見る。


「それは先に言わないか?」


「聞かれなかったので」


「そうか」


 覚えておこう。


 この娘、案外強い。


「いつからだ?」


「何がです?」


「冬がおかしくなったの」


 フィアの表情から、少しだけ笑みが消えた。


「3年前です」


 レイの足が止まった。


「3年?」


「はい」


「環暦局への報告は?」


「出してます」


「いつから」


「最初の年から。毎年です」


 レイの眉間に皺が寄った。


「俺が受け取った資料には、異常が確認されたのは去年からって書かれてる」


「え!?」


 今度はフィアが足を止めた。


「本当ですか?」


「ああ」


「3回出してますよ!!」


「控えは?」


「あります!」


「誰が書いた?」


「最初は父です。去年からは私」


「全部見せてくれ」


「もちろんです!」


 レイは再び歩き出した。


 先ほどの報告書を書いた人間への質問時間が、頭の中で少し伸びた。


「最初の年は、雪が少ないだけだったんです」


 フィアが続ける。


「次の年は1回しか積もらなくて、去年になると霜もほとんど降りなくなりました」


「今年は?」


「まだ1度も」


「作物は」


「あれです」


 フィアが畑を指した。


「冬豆」


 葉は青々としている。


 一見すれば元気そうだった。


「実がないな」


「そうなんです」


「花は?」


「たくさん咲きました」


「なら寒気不足だ」


「寒気?」


「冬豆は1度きちんと寒さに当たらないと、実を作る段階へ進めない」


「へえ……」


 フィアが感心したようにこちらを見る。


「ちゃんと環暦士なんですね!」


「さっきから失礼だな」


「だって最初、工具を触らせてくれない変な人かと」


「今もその認識で間違ってない」


「自分で言うんですか!?」


 フィアが笑う。


 それから少し歩いて。


「でも」


 今度は、静かな声だった。


「冬って、寒いだけじゃないんですね」


「ああ」


 レイは畑へ視線を向けた。


 冬は、ただ気温が下がる季節ではない。


 土を休ませ、虫を減らし、雪に水を蓄える。種だって冬を越すことで、次の季節を迎える準備をする。


 春が来るためにも、冬がいる。


「冬がなくなったら……春も、おかしくなります?」


「分かってるじゃないか」


「3年も見てれば、嫌でも」


 18歳。


 村長代理。


 最初は、怪我をした父親の代わりに肩書きだけを背負っているのかと思っていた。


 違う。


 ちゃんと自分の目で、この土地を見ている。


「フィア」


「はい?」


「村の記録も見たい」


「何のです?」


「収穫量。井戸の水位。獣害。病気。川の水量。残ってるなら3年前から全部」


「ありますよ!」


「全部?」


「父が昔から残してます。去年からは私が続けてますから」


 少し得意げに胸を張る。


「村長代理なので!」


 レイは一瞬黙った。


「18だけど?」


「それ私が言ったやつ!!」


「覚えてたのか」


「根に持つ方です!」


「面倒だな」


「レイさんにだけは言われたくないです!!」


 その時、フィアが丘の向こうを指した。


「あれです!」


 巨大な塔が姿を現した。


 レイは足を止める。


 第四十一季塔。


 白灰色の石で築かれた円塔。


 高さは30メートルほど。


 王都の大季塔と比べれば小さい。それでも、周囲の木々や家々を見下ろすには十分な高さだった。


 塔の外側には、巨大な金属環が4本。


 花を刻んだ〈春環〉。


 太陽の〈夏環〉。


 麦穂の〈秋環〉。


 雪華の〈冬環〉。


 土地へ四季を巡らせる〈季環〉だ。


 その4本すべてが、ゆっくりと回っている。


「……冬環まで動いてる」


「え? 駄目なんです?」


「逆だ」


「逆?」


「正常すぎる」


 レイは目を細めた。


 回転速度。


 軸の揺れ。


 金属音。


 遠目で確認できる限り、大きな異常はない。


「止まってるなら分かりやすい」


「壊れてるから?」


「ああ。でもあれは、ちゃんと冬を送ろうとしてる」


「送ろうとしてる?」


「少なくとも、そう見える」


 フィアも塔を見上げた。


「じゃあ……冬はどこへ行ったんでしょう」


「それを調べるのが俺の仕事だ」


 レイは工具鞄を担ぎ直した。


「……面倒なのを引いたな」


「今なんか言いました?」


「何も」


◆


 季塔の扉は、レイの身長の倍近くあった。


 フィアが首から下げていた鍵を差し込む。


 重たい錠が外れた。


「押しますよ!」


「頼む」


「せーの!!」


 2人で扉を押した。


 油。


 鉄。


 冷えた石。


 それに、微かな季素の匂い。


 塔の中から流れてきた空気を、レイは無意識に吸い込んだ。


「…………」


「レイさん?」


「何でもない」


 懐かしい。


 ただ、それだけだ。


 幼い頃から、この匂いを嗅ぐと少しだけ落ち着く。


 中へ入ったフィアが、すぐに足を止めた。


「うわぁ……!」


 内部は6階ほどを丸ごと抜いた巨大な吹き抜けになっていた。


 中央には、太い黒鉄の主軸。


 その周囲で、大小数百の歯車、鎖、導管、回転軸が絡み合うように動いている。


 さらに主軸を取り囲むように、巨大な輪が並んでいた。


「1、2、3……」


 フィアが指で数える。


「十二」


 レイが先に答えた。


「12個?」


「〈月輪〉だ」


「外の4つとは違うんです?」


「ああ。外の季環は春夏秋冬を大きく分ける。月輪は、その流れを一年十二月に合わせて細かく調整する」


「じゃあ、季環が大まかな季節で、月輪が細かい調整?」


「大体そんな感じ」


「……今、ちょっと驚きました?」


「何が」


「私が理解できたことに」


「気のせいだ」


「絶対嘘!!」


 勘が妙に鋭い。


「十二月だから12枚なんですね」


「ああ」


「そこは分かりやすい!」


「昔の技師も同じこと考えたんだろうな」


 レイは革鞄を床へ置き、厚手の布を広げた。


「フィア。そこにいてくれ」


「何か手伝えます?」


「ある」


「本当ですか!?」


「何も触らない」


「それ手伝いじゃないですよ!!」


「非常に重要だ」


「絶対私を邪魔者扱いしてる!」


「してない」


「今ちょっと間がありました!」


 レイは答えず、工具を決まった順番に並べた。


 環圧計。


 季素針。


 位相盤。


 共鳴棒。


 フィアが横から覗き込む。


「これ、綺麗ですね」


「触るな」


「触ってません!」


「目でも触るな」


「無茶言わないでください!!」


 レイは接続盤を開いた。


 まず冬環。


 季素針を差し込む。


 針が震え、止まる。


「流量……正常」


 次に環圧。


「正常」


 位相。


「ずれなし」


 季脈への流出。


 針を見る。


「……正常」


 レイの手が止まった。


「どうです?」


「全部正常」


「じゃあ良かった!」


「良くない」


「え!?」


「村に冬は来てるか?」


「来てません」


「なら良くない」


「でも正常なんですよね?」


「ああ」


 塔は動いている。


 冬環も回っている。


 季素も流れている。


 計器上は、どこにも異常がない。


 それなのに、リュネ村には冬が来ていない。


 壊れている機械なら直せる。


 異常値が出るなら追える。


 全部正常なのに、結果だけがおかしい。


 レイが一番嫌いな種類の故障だった。


「……性格悪いな」


「え?」


「この故障」


 フィアが目を瞬く。


「故障に性格ってあるんですか?」


「今できた」


「適当すぎる!!」


 レイは計器を置いた。


「師匠なら……」


 無意識に漏れた。


「師匠?」


「独り言」


「レイさんにも師匠いるんですね!」


「いる」


「どんな人です?」


 少し考える。


「性格が悪い」


「レイさんが言うなら相当ですね」


「どういう意味だ」


「そのままです!」


 レイは鼻から息を吐いた。


 グレンはいない。


 今回の仕事は、レイにとって初めての完全な単独現場だ。


 答えを教えてくれる人間も、最後に判断してくれる人間も、ここにはいない。


 いつまでも師匠の後ろにいるわけにはいかない。


「フィア」


「はい?」


「少し静かにしてくれるか」


 声の調子が変わったことに気づいたのだろう。


 フィアは今度は茶化さず、頷いた。


「……分かりました」


 レイは目を閉じる。


 歯車。


 鎖。


 主軸。


 金属の擦れる音。


 季素が導管を流れる振動。


 一つずつ、意識の外へ追い出していく。


 もっと奥。


 さらに、その奥。


 〈季音〉。


 季素が土地を巡り、季脈を走り、季塔を通過する時に生まれる微かな共鳴。


 本来なら、専用の器具を使って初めて捉えられるものだ。


 けれどレイには、それが昔から音として聞こえた。


 世界にはごく稀に、同じ耳を持つ人間がいる。


 レイが実際に知っているのは1人だけ。


 グレン・アルディス。


 自分の師匠だ。


『音を信じろ』


 低い声を思い出す。


『だが、音だけは信じるな』


 何度聞かされたか分からない言葉。


 レイは静かに息を吐いた。


 一月輪。


 二月輪。


 三月輪。


 四月輪。


 五月輪。


 六月輪。


 七月輪。


 八月輪。


 九月輪。


 十月輪。


 十一月輪。


 十二月輪。


 最後の響きが消える。


 一年は、そこで終わる。


 ――カァン。


 レイの目が開いた。


「……は?」


 フィアの肩が揺れた。


「どうしました?」


「今、鐘が鳴らなかったか?」


「鐘?」


 フィアが耳を澄ませる。


「歯車の音しか聞こえませんけど……」


「……そうか」


 長旅の疲れ。


 聞き間違い。


 そう考えることもできる。


 だが、自分の耳に関してだけは、レイはそこまで謙虚ではなかった。


「もう1回」


 目を閉じる。


 一。


 二。


 三。


 四。


 五。


 六。


 七。


 八。


 九。


 十。


 十一。


 十二。


 静寂。


 ――カァン。


「……まただ」


「レイさん?」


 月輪の音じゃない。


 もっと奥。


 どこだ。


 レイは目を開け、塔の奥を見る。


 石壁。


 その向こう。


 図面なら、何もないはずの場所。


「レイさん……?」


 十二枚の月輪を、もう一度目で数える。


 一。


 二。


 三。


 四。


 五。


 六。


 七。


 八。


 九。


 十。


 十一。


 十二。


 当然だ。


 一年は十二月。


 月輪も十二枚。


 それだけのはずなのに。


 ――カァン。


「……十三」


「十三?」


 フィアが小さく聞き返した。


「何がです?」


 レイは答えなかった。


 胸の奥に、古い何かが引っ掛かっている。


 この音。


 初めて聞いた気がしない。


 ずっと昔。


 まだ自分が子供だった頃。


 どこかで、同じ音を聞いたような。


 記憶の向こうに、一人の男の顔が浮かぶ。


 グレン。


 滅多なことでは顔色ひとつ変えない師匠が、一度だけ。


 幼いレイを見て、ひどく険しい顔をしていた。


 何の時だった?


 思い出そうとする。


 届かない。


「レイさん」


 フィアの声で我に返った。


「……悪い」


「顔色、悪いですよ」


「そうか?」


「さっきからずっと、あそこの壁を見てます」


 レイは十二枚の月輪を見上げる。


 それから、何もないはずの壁の向こうを見る。


「フィア」


「はい」


「予定が変わった」


「……嫌な予感しかしないんですけど」


「多分、正しい」


「えぇ……」


 レイは共鳴棒を握り直した。


「しばらく、この村から帰れそうにない」


「え!? ちょっと待ってください、しばらくってどれくら――」


 ――カァン。


 フィアの声が遠のいた。


 十三番目の音が。


 さっきよりも。


 ずっと近くで鳴った。

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