第0話 十三月十四日
その朝、ミアは母親に3度起こされた。
「ミア。起きなさい」
「……まだ暗いよ」
「冬なんだから当たり前でしょう」
「寒い」
「それも冬なんだから当たり前」
毛布の中へ鼻まで潜りながら、ミアは思った。
冬は嫌いだ。
朝は暗いし、床は冷たい。水に触れば指が痛くなるし、薪を取りに外へ出れば耳まで凍りそうになる。
それなのに大人は、冬になると夏より早く起きろと言う。
絶対おかしい。
「ほら、起きる」
母親に毛布を剥がされた。
「うぅー……!」
「唸っても返しません」
「お母さんのけち」
「はいはい」
仕方なく身体を起こす。
寝台の横にある小さな窓は、真っ白に曇っていた。ミアが袖口で硝子を擦ると、その向こうに一面の雪が見えた。
畑も、薪小屋も、柵も、井戸へ続く細い道も真っ白だ。
少し離れた家では、隣の老人が大きな雪掻き板を押している。そのすぐ後ろを、毛の長い山羊が1頭ついて歩いていた。
手伝っているわけではない。老人がせっかく作った道を、わざわざ選んで歩いている。
「じいちゃん、また山羊に邪魔されてる!」
「毎朝のことでしょう」
「うちも雪掻きする?」
「あなたが薪を持ってきてくれたら、お父さんがやります」
「お父さんが薪も持ってくればいいのに」
隣の部屋から声が飛んできた。
「聞こえてるぞぉー」
ミアが寝台から顔を出す。
父親は炉の前に座り、昨日焼いた黒パンをかじっていた。
「お父さん、何してるの?」
「重要な仕事だ」
「食べてるだけじゃん」
「朝飯を食うのは重要だ」
「お母さん」
「放っておきなさい」
「おい」
ミアは笑った。母親も笑った。
父親だけが不満そうに黒パンを噛んでいる。
いつもの朝だった。
ミアは椅子に掛けてあった厚手の靴下へ足を通した。
「今日、何日?」
「十三月十四日」
鍋を混ぜながら母親が答える。
「昨日は?」
「十三日」
「じゃあ明日は十五日?」
「そうよ」
「そっか」
「何、その確認」
「なんとなく!」
本当に、それだけだった。
まだ眠くて頭がぼんやりしていたから聞いただけだ。
十三月十四日。
ミアにとっては、昨日が十三日だったのと同じくらい当たり前の日付だった。
毛織りの上着を羽織り、玄関横に置かれていた薪籠を持つ。
「何本?」
「6本お願い」
「えー! 重い!」
「昨日4本しか持ってこなかったでしょう」
「あれでも重かったもん!」
「だったら2回に分けなさい」
「外寒いのに!?」
「冬なんだから諦めなさい」
また冬だ。
大人は何でも冬のせいにすればいいと思っている。
ミアが口を尖らせながら靴を履いた、その時だった。
――ゴォン。
遠くから、低い鐘の音が響いた。
ミアは気にも留めなかった。
村の北。丘の上に建っている〈季塔〉の鐘だ。物心ついた頃から、毎朝聞いている。
――ゴォン。
2度目。
玄関の留め具を外す。
――ゴォン。
3度目。
「ミア」
「なに?」
「外、滑るから走らないのよ」
「今日は大丈夫!」
「昨日もそう言って転んだでしょう」
「今日は転ばないって!」
扉を開ける。
凍えるような風が、一気に家の中へ吹き込んだ。
「さむっ!!」
「早く閉めなさい!」
「今から出るのー!」
――ゴォン。
4度。
5度。
6度。
ミアは家の裏へ回った。
雪を踏むたび、ぎゅっ、ぎゅっと小気味のいい音がする。
冬は嫌いだけれど、この音だけは少し好きだった。
7度。
8度。
薪を1本抱える。
2本。
3本。
4本。
5本。
「……無理」
6本目を見て諦めた。
2往復するしかない。
母親の言う通りにするのは少し癪だったが、全部落として拾い直すよりはましだ。
――ゴォン。
9度。
10度。
家へ戻ろうとして、ミアは何となく丘を見上げた。
村の北。
雪に覆われた丘の頂上に、大きな石造りの塔が立っている。
季塔。
畑にいても、井戸にいても、山へ薪を拾いに行っても見える。振り返れば、大抵そこにあった。
塔の外側には、大きな金属の環が幾重にも巻き付いている。
小さい頃、父親と一緒に数えたことがある。
十三。
全部で十三。
それぞれの環には違う紋様が刻まれていて、夜になると淡く光る。
ミアにとっては、珍しいものでも何でもなかった。
山があって、川があって、畑があって、季塔がある。
そういうものだ。
――ゴォン。
11度。
――ゴォン。
12度。
鐘が止まった。
朝の鐘は12回。
十三月だろうと、それは変わらない。
「重……」
ミアは薪を抱え直して家へ戻った。
肩で扉を押し開ける。
「お母さん、やっぱり5本しか――」
――ゴォン。
「……あれ?」
腕の中から薪が1本落ちた。
床を転がる。
母親は拾わなかった。
父親も。
二人とも、動いていなかった。
「どうしたの?」
母親の顔から血の気が引いていた。
「……あなた」
父親がゆっくりと椅子から立ち上がる。
手にしていた黒パンを卓へ置いた。
「窓を閉めろ」
「あなた……」
「全部だ」
さっきまでとは声が違った。
「お父さん?」
返事はない。
父親は窓へ駆け寄ると、木戸を閉めた。母親も反対側へ走る。
ばたん。
ばたん。
外の光が少しずつ消えていく。
「なんで閉めるの?」
「ミア」
「薪、あと1本――」
「もういいから」
「でも6本って」
「薪はいいの!!」
ミアの肩がびくりと跳ねた。
母親自身も、声を荒らげたことに驚いたようだった。
「……ごめん」
「…………」
「怒ってるんじゃないの」
怒っていない。
なら、どうしてそんな顔をしているのだろう。
ミアには分からない。
外から誰かの叫び声が聞こえた。
閉まりきる前の木戸の隙間から覗く。
さっきまで雪掻きをしていた隣の老人が、雪掻き板を放り出して家へ走っている。
井戸のそばにいた女も、桶を置いたまま子供の手を引いていた。
あの山羊だけが、何事もなかったように雪を食べている。
「何か来るの?」
父親は答えない。
「狼?」
「違う」
「熊?」
「違う」
「じゃあ何?」
やっぱり答えてくれなかった。
父親が食卓を動かした。
床を擦る重たい音。
その下から、小さな鉄の取っ手が現れる。
「それ何?」
父親が取っ手を引く。
床板が持ち上がった。
下には、暗い階段が続いていた。
「え!? うち、こんなところあったの?」
「ミア。降りろ」
「なんで?」
「いいから」
「嫌」
暗い。
何があるのかも分からない。
「行きたくない」
「ミア」
「やだ」
父親が何か言おうとした。
その前に、母親がしゃがむ。
ミアと同じ高さになる。
「お母さんも一緒だから」
「お父さんは?」
「父さんも行く」
「3人で?」
「ああ」
それなら、少しだけ安心した。
「すぐ戻れる?」
母親は、ほんの少しだけ黙った。
「……ええ」
その短い間の意味を、ミアは知らない。
「じゃあ行く」
母親の手を握る。
強く握り返された。
「痛いよ」
「あ……ごめんね」
そう言ったのに、母親の手はほとんど緩まなかった。
1段。
地下へ降りる。
もう1段。
「お母さん」
「なに?」
「朝ご飯は?」
「あとで食べようね」
「お粥残ってる?」
「残ってるよ」
「お父さんに食べられない?」
上に残っていた父親が、少しだけ笑った。
「食べないよ」
「本当に?」
「ああ」
「昨日、私の分食べたじゃん!」
「あれはお前が遅かったからだ」
「今日も遅かった!」
「今日は食べない」
「絶対?」
「絶対だ」
「じゃあいい」
ミアはまた1段降りた。
父親が床板へ手を掛ける。
閉じ始めた隙間から、丘の上の季塔が見えた。
十三の環が、一つずつ光っている。
いつもの夜よりも、ずっと明るく。
「わあ……!」
思わず声が漏れた。
「お母さん、塔がすごく綺麗――」
「ミア」
母親に身体を引かれる。
「今は見なくていいの」
「なんで?」
「いいから」
「変なの」
それ以上は気にせず、ミアは地下へ降りた。
どうして大人たちが怖がっているのか。
どうして鐘がいつもより1回多く鳴ったのか。
どうして季塔が昼間から光っているのか。
どうして朝ご飯の途中で地下へ入らなければならないのか。
何一つ分からない。
ただ、今日は薪をもう一度取りに行かなくて済みそうだった。
それだけは少し嬉しかった。
「お父さん!」
「なんだ?」
「パンも残しといてね!」
「ああ」
「大きい方!」
「分かった」
床板が閉じていく。
光が細くなる。
最後の光が消える、その直前。
遠くから。
もう一度、鐘が鳴った。
――ゴォン。
それが何回目だったのか。
ミアはもう、数えていなかった。




