第18話 師匠
グレン・アルディスは馬を降りるなり、レイの顔を見た。
次に肩、腕、足。
最後に、森狼に噛まれて形の崩れた工具鞄へ視線を落とす。
「無傷、か」
「報告しただろ」
「お前の無傷は信用していない」
「ひどくない?」
「前科が多い」
否定できなかった。
グレンは50代半ばとは思えない身軽さで手綱を近くの柵へ掛けると、後ろから来た二人へ指示を出した。
「一人は通信と支局報告の確認。もう一人は村の外周を見ろ。季素計は冬だけじゃなく四季全部取れ」
「了解」
二人とも王立環暦局の外套を着た環暦士だった。
問い返すこともなく、それぞれ役場と村の外へ向かっていく。
レイはグレンを見る。
「いつ出た?」
「お前に村を離れろと送った直後だ」
「……最初から来る気だったのか」
「嫌な予感がした」
「なら、そう言えよ」
「言ったら待っていたか?」
レイは黙った。
「ほらな」
腹が立つ。
だが、反論はできない。
グレンはそこで初めて、レイの隣に立っていたフィアへ目を向けた。
吊られた左腕を見る。
「同行者一名軽傷、というのは君か」
フィアが一瞬だけ驚いた後、姿勢を正した。
「初めまして!フィア・ベルンです。村長代理をしています。父が村長なんですけど、今は足を悪くしてるので」
「グレン・アルディスだ」
「知ってます。レイさんの師匠ですよね」
「一応な」
「一応って何だよ」
グレンは無視した。
フィアの左腕へ視線を戻す。
「見せてもらっていいか」
「はい」
フィアが袖を捲ろうとしたが、片腕ではやりづらそうだった。
レイが横から手を伸ばす。
「俺がやる」
「大丈夫ですよ」
「その大丈夫も信用できない」
「誰かさんと同じこと言ってますよ」
「嫌なこと言うな」
それでもレイが布を解くと、フィアは抵抗しなかった。
左手首から肘の少し下まで、薄い赤紫色の痕が残っている。
地下で白く凍りついていた時に比べれば、ずっとましだった。
グレンは指先で皮膚へ直接触れず、数センチ離した位置から小型の季素計を滑らせていく。
「感覚は」
「戻ってます。指も動きます」
「痛みは?」
「動かすと少し」
「熱は」
「ないと思います」
グレンは計器を確認し、レイを見る。
「処置はお前か」
「ああ」
「何を使った」
「遮断布。季素が走るのを止めてから固定した」
「何分後だ」
「1分も経ってない」
グレンはもう一度フィアの腕を見た。
「なら、おそらく残らん」
フィアが目を瞬く。
「残らない?」
「痺れや動かしにくさだ。完全に戻るまでは使うな。無理をすれば別だが」
「……よかった」
小さな声だった。
レイも息を吐いた。
自分では気づかない程度のものだったが、グレンの視線がこちらへ向いた。
「何だよ」
「別に」
「今何か思っただろ」
「何も」
絶対に何か思っている。
問い詰める前に、フィアがレイを見た。
「レイさん」
「何だ」
「ありがとうございます」
「今さら?」
「ちゃんと言ってなかったから」
まっすぐ言われると、妙に困る。
あの時は助ける以外の選択肢なんて考えていなかった。
「仕事だから」
口から出たのは、そんな言葉だった。
フィアは少しだけ目を細める。
「じゃあ、そういうことにしときます」
「何だよ、その言い方」
「別に」
今度はフィアまでグレンと同じ返しをした。
レイは嫌な予感がしてグレンを見る。
案の定、師匠は何も言わずにこちらを見ている。
「何だよ」
「だから何も」
「その顔で言うな」
「お前、昔から分かりやすいな」
「何がだよ」
「今はいい」
何がいいのか全く分からない。
フィアは口元を押さえていた。
笑っている。
納得がいかない。
だが、今はもっと大事なことがある。
「グレン」
「ああ」
レイが季塔を見る。
グレンも同じ方向へ視線を向けた。
第四十一季塔には、まだ十三番目の淡い光が残っている。
それを見た瞬間、グレンの表情からわずかな笑みが消えた。
しばらく何も言わなかった。
「……本当に出たか」
その声は小さかった。
レイは横顔を見る。
「見たことあるのか」
「この形で動いているものはない」
「この形で?」
グレンは答えず、塔へ近づいた。
レイも後を追う。
フィアも付いてきた。
グレンは塔の基部へ手を触れずに屈み、灰色の人物が使った隠し口を確認する。
「開け方を知っていたのか」
「あいつがな」
「三本爪の鍵で?」
「ああ」
「操作は」
「途中から俺も見た。冬季環を抑えて、春側へ圧を逃がした」
グレンの眉がわずかに動いた。
「春側へ?」
「知ってるのか」
「理屈は分かる」
「俺は知らなかった」
「今の環暦院では教えていない」
「なんでだ」
「今の季塔では使わないからだ」
言い切ってから、グレンは隠し口の奥を覗き込む。
「十三月季環が現役だった時代なら、別だ」
レイは黙った。
やはり、知っている。
全部ではなくても、自分よりずっと多く。
「それ、今度こそちゃんと話せよ」
「話せるところは話す」
「その言い方嫌いなんだよ」
「知ってる」
「なら直せ」
「努力する」
絶対にしない返事だった。
「グレンさん」
後ろからフィアが呼んだ。
グレンが振り返る。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「レイさんに村を出ろって言ったんですよね」
「ああ」
「十三月が危ないって知ってたから?」
グレンは少しだけ間を置いた。
「危険な可能性があるとは思っていた」
「だったら」
フィアは言葉を選ぶように、一度レイを見た。
「何が危ないのかも、言った方がよかったんじゃないですか」
レイは目を瞬いた。
自分がずっと言いたかったことを、フィアが先に言った。
グレンは怒らなかった。
フィアの顔をしばらく見てから、静かに答える。
「その通りだ」
今度はレイがグレンを見る番だった。
「認めるのか」
「何だ、その顔は」
「もっと屁理屈言うと思った」
「俺を何だと思ってる」
「面倒な師匠」
「だいたい合ってるな」
グレンは塔へ視線を戻した。
「危険だと分かっていたから遠ざけた。詳しく言えば、お前は確実に調べると思った」
「黙ってても調べたけど」
「ああ。そこは俺の判断ミスだ」
珍しい。
グレンが自分から認めた。
「ただし」
来た。
「命令を破った件は別だ」
「今いい話してただろ」
「話は話、違反は違反だ」
「細かい」
「資格を剥がされたいか」
「すみませんでした」
反射で謝った。
フィアが横で笑う。
「レイさん、ちゃんと謝えるんですね」
「資格が絡むと人間は素直になる」
「覚えときます」
「何に使う気だよ」
グレンは二人の会話を聞きながら、今度は塔の外周を見上げた。
十三番目の環を目で追う。
「地下へ入った入口は」
「西側。あと古い階段がある」
「今夜は行かない」
レイは思わず聞き返した。
「行かない?」
「行かない」
「なんで」
「お前は寝てない。そこの娘は怪我人だ。俺たちは夜通し馬に乗ってきた」
「でも塔は――」
「今の出力は?」
レイは季素計を見る。
「高いけど安定してる」
「なら急いで触る理由はない」
「また動いたら?」
「その時は起きる」
「雑だな」
「現場判断だ」
言い返せなかった。
自分なら、今すぐ地下へ行っていた。
十三月が動いているなら、眠る時間が惜しい。
だが、その判断で何度危険な目に遭ったかは、この数日だけでも数えるのが嫌になる。
「それより、見せろ」
グレンが手を出した。
「何を」
「灰色の人間が残したものだ」
レイは工具鞄を開け、布で包んだ円盤を取り出す。
「触るなよ」
「誰に言ってるんだ」
「一応だよ」
「お前に道具の扱いを教えたのは俺だ」
「だから言ってる」
「まだ共鳴鉗子のこと根に持ってるのか」
「あれ壊したの俺だけど」
「知ってる」
フィアが首を傾げる。
「何の話です?」
「聞かなくていい」
「こいつが14の時――」
「グレン」
「分かった」
危なかった。
3日間ほとんど寝ずに鉗子を直した話を、こんなところで披露されてたまるか。
グレンは布越しに円盤を受け取った。
それまで比較的落ち着いていた表情が、ほんの一瞬だけ固まる。
レイは見逃さなかった。
「知ってるな」
「……ああ」
「何だ、それ」
グレンは円盤を裏返した。
四本の線。
中央の針。
そして、外側に刻まれた細い第五の線。
【封環】
指先が、その文字の手前で止まる。
「どこで拾った」
「灰色の奴が立ってた場所。逃げた後に落ちてた」
「落としたところを見たか」
「いや」
「なら、落としたとは決めるな」
「俺もそう思ってる」
グレンは小さく頷く。
「これは今の環暦局の徽章じゃない」
「そこまでは分かる」
「封環という言葉も、今は使わない」
「昔は使ったのか?」
グレンは円盤を見つめたまま答える。
「少なくとも、俺が若い頃にはもう使われていなかった」
「また師匠から聞いたのか」
沈黙。
それだけで答えになっていた。
「グレン」
「見たことがある」
レイが眉を寄せる。
「これを?」
「ああ」
「どこで」
グレンはすぐには答えなかった。
夜風が吹き、季塔の十三番目の光が円盤の表面を淡く照らす。
「師匠の道具箱だ」
レイは言葉を失った。
フィアも黙っている。
「同じもの?」
「紋章は同じだった。円盤そのものが同じかは知らん」
「その人、何者だったんだよ」
「環暦士だ」
「それだけじゃないだろ」
「俺も全部は知らない」
またそれだ。
だが、今回はグレンの声が少し違った。
隠しているというより、本当に知らないことへの苛立ちが混じっている。
「師匠は昔のことを話したがらなかった」
レイは黙った。
妙な感じがした。
それは、そのまま今の自分とグレンだった。
「俺が聞いても、必要になれば話すとしか言わなかった」
「……結局、話したのか」
「全部は聞いていない」
グレンは円盤をレイへ返した。
「だから俺も、知っていることと推測を分けて話す。十三月については特にな」
その言葉なら、少しは信用できる。
「分かった」
「珍しく素直だな」
「フィアにも今日言われた」
「そうか」
グレンの視線がフィアへ向いた。
何かを確認するような目だった。
フィアが首を傾げる。
「何ですか?」
「いや」
「今日それ多くないですか?」
「師弟だからな」
「一緒にするな」
レイは即座に否定した。
グレンは無視する。
「もう一つ確認する。灰色の人間は、俺の名前を出したんだな」
「ああ」
「正確に何と言った」
「『グレンの弟子か』」
「その前は?」
「俺が季音を聞いて、計器も見ながら操作を合わせた。それを見て、『音を聞いて、計器を見る。あいつの教え方だ』って」
グレンの目が細くなる。
「それから?」
「昔、少し知ってるって」
今度の沈黙は長かった。
「心当たりは?」
「ある」
レイは思わず一歩近づく。
「誰だ」
「候補が多すぎる」
「逃げるなよ」
「逃げてない。俺が若い頃に一緒に仕事をした奴なんて何十人もいる」
それはそうだ。
一級環暦士として長く各地を回っているなら、人間関係はレイより遥かに広い。
「ただ」
グレンが三鋲の跡が消えた北の道を見る。
「あの教え方まで知っているなら、ただ顔を合わせただけの相手じゃない」
「近かった奴?」
「少なくとも、俺がどう弟子を育てるか想像できる程度にはな」
レイは北の暗闇を見る。
灰色の人物。
グレンを知っている。
グレンの教え方も知っている。
十三月を知り、三鋲を履き、古い鍵を扱う。
「余計に追いたくなった」
「寝ろ」
グレンは容赦なく言った。
「明朝、俺が地下を見る。お前も来い」
「最初からそのつもりだ」
「ただし、今から最低でも4時間寝ろ」
「4時間」
「不満か」
「3時間」
「5時間にするぞ」
「4時間でお願いします」
フィアが笑った。
グレンは次に彼女を見る。
「君も休め」
「私は――」
「左腕を使わないなら、朝の地上確認までは構わん。地下は駄目だ」
「でも、村の記録なら私が――」
「記録が必要なら上で聞く。地下へ怪我人を連れていく理由はない」
フィアは不満そうだったが、さすがに一級環暦士相手に押し切れないと思ったらしい。
「……分かりました」
レイは少しだけ安心した。
その瞬間、フィアがこちらを見る。
「今、安心しました?」
「してない」
「しましたよね」
「してない」
「分かりやすいな、お前」
グレンまで乗ってきた。
「うるさい」
フィアが笑う。
その顔を見て、レイはようやく肩の力が少し抜けた。
怪我をした時から、本人が平気そうにしているほど気になっていた。
地下へ行かないと決まったなら、それでいい。
口には出さないけれど。
◆
家へ戻る途中、グレンは支局から来た二人と合流し、そのまま村長宅とは別の空き家へ向かった。
明朝まで休むらしい。
レイとフィアは並んで歩いていた。
夜の村には見張りの松明が揺れ、遠くで時々、凍った木の枝が折れる音がする。
「すごい人ですね、グレンさん」
「どの意味で?」
「思ってたより普通でした」
「どんな怪物想像してたんだ」
「レイさんの師匠だから、もっと怖い人かと」
「どういう意味だよ」
フィアは笑う。
少し歩いたところで、その声が静かになった。
「でも」
「何だ」
「心配してたんですね」
「誰が」
「グレンさんが、レイさんを」
レイは前を向いたまま歩く。
「心配なら、もう少し優しく言えばいいと思う」
「それ、レイさんが言います?」
「俺は優しいだろ」
「どの辺が?」
「……今考えてる」
フィアがまた笑った。
笑った後、吊った左腕へ右手を添える。
「さっきの話」
「腕?」
「はい」
少しだけ間が空いた。
「ちゃんと治るって聞いて、安心しました」
「ああ」
「レイさんも、安心してましたよね」
「まあ」
今度は否定しなかった。
フィアがこちらを見る気配がした。
「珍しい」
「何が」
「素直」
「今日はその話禁止」
「じゃあ言いません」
フィアは前を向く。
数歩歩いてから、小さく続けた。
「でも、本当にありがとうございます」
レイはすぐには答えなかった。
仕事だから。
さっきはそう言った。
もちろん、それも嘘ではない。
環暦士として、目の前で季素異常に侵された人間を助けるのは当然だ。
けれど、あの時フィアの腕を白い霜が這い上がっていくのを見た瞬間に考えたことは、資格でも仕事でもなかった。
ただ、止まれと思った。
それだけだった。
「……治ってから言え」
「じゃあ治ったら、もう一回言います」
「一回でいい」
「嫌です」
レイは横を見る。
フィアは少し笑っていた。
夜の冷気で頬が赤い。
目が合うと、なぜか先に逸らしたのはレイの方だった。
「寒いな」
「急に?」
「冬だから」
「3年待った冬ですけどね」
「これは来すぎ」
「それはそう」
二人で家へ戻る。
背後には十三番目の環を浮かべた季塔。
北の道には灰色の人物。
明日になれば、地下へ降りる。
聞かなければならないことも山ほどある。
それでも今だけは、レイは隣を歩く足音を聞いていた。
季音ではない。
聞こうとしなくても、分かる音だった。




