第14話 貯水池
森狼の襲撃が終わっても、村は静かにはならなかった。
壊れた柵には荷車や木材が運び込まれ、男たちが応急の補強を始めている。負傷者を収容した家では薬師が走り回り、共同小屋からは落ち着かない牛の鳴き声が途切れず聞こえていた。
レイはバルガスの家の前に腰を下ろし、壊れた工具鞄の中身を地面へ並べた。
「……ひどいな」
共鳴棒は中央から折れ、細い測定針は3本のうち2本が曲がっている。予備の留め具が入った小箱には牙の跡がめり込み、蓋が開かなくなっていた。
よく自分の喉がこうならなかったものだ。
「それ見て最初に道具の心配するの、お前くらいだろ」
隣でパンを噛んでいたロウが言う。
「道具は勝手に治らないからな」
「人間もだいたいそうだ」
「人間には薬師がいる」
「道具にはお前がいるじゃねえか」
言われてみればそうだった。
レイは折れた共鳴棒を布で包み、鞄へ戻した。完全に使えないわけではない。戻れば接合できるかもしれないが、今はそれどころではなかった。
ロウがパンの残りを口へ押し込む。
「で、本当に今から行くのか」
「ああ」
「日が落ちるぞ」
「その前に着きたい」
「その言い方、帰りは暗くなる前提だろ」
「山道詳しいんだろ?」
「そういう問題じゃねえよ」
文句を言いながらも、ロウは立ち上がった。
レイも工具鞄を肩へ掛ける。
軽いのは壊れた道具が増えたからではなく、使えるものを村へ置いていくことにしたからだ。必要最低限の調整工具と季素計、縄、それから携帯用の季素灯だけを持つ。
立ち上がったところで、近くの家から薬師が出てきた。袖が血で汚れている。
レイは足を止めた。
「さっき噛まれた人は?」
「命は大丈夫だ」
初老の薬師は額の汗を袖で拭った。
「ただ、腕の骨が折れてる。それと傷の周りが妙に冷たい」
ロウの表情が変わる。
「狼のせいか」
「たぶんな」
レイは十三月季環の光を浴びたフィアの傷を思い出した。
「霜は出てますか」
「いや。娘さんみたいにはなってない。ただ、湯で温めてもすぐ冷える」
「無理に温めない方がいいかもしれません」
「分かってる。普通の凍傷と違うんだろ」
「たぶん」
「たぶん、ばっかりだな」
「初めて見るものなので」
薬師は少しだけ眉を寄せたが、責めるような言い方ではなかった。
「環暦士でも知らんことはあるか」
「かなりあります」
「そうか」
知らないと言えば何か言われるかと思ったが、薬師はそれ以上追及せず家へ戻っていった。
代わりに別の声が飛んでくる。
「環暦士さん!」
振り返ると、年配の男がこちらへ歩いてきた。
初日に畑で見かけた老人だった。冬豆を育てていた家の一人だ。
「塔を止められないのか」
開口一番だった。
「今すぐ完全に止めるのは危険です」
「危険なのはもう十分見ただろ!」
周囲の村人が振り返る。
老人は壊れた柵を指さした。
「冬が来なきゃ豆が駄目になる。やっと来たと思ったら今度は凍りすぎる。狼まで入ってきた。これ以上何を待つんだ」
正しい。
少なくとも、村人から見れば。
「地下の設備を止めると、もっと大きな異常が起きる可能性があります」
「可能性、可能性って……!」
「だから今、村から冬を逃がしに行きます」
老人は口を閉じた。
「北西の貯水池へ流れを変える。上手くいけば、少なくともここへの負担は減る」
「上手くいけば?」
「絶対とは言えません」
またその言葉か、と自分でも思った。
老人の顔にも同じものが浮かんでいる。
「……環暦士ってのは、季節を直す仕事じゃないのか」
胸の奥に引っ掛かった。
レイは少しだけ黙る。
「そうです」
「なら直してくれ」
それだけ言って、老人は畑の方へ戻っていった。
ロウが何も言わず隣に立っている。
「行くぞ」
「ああ」
レイもそれ以上、村を見なかった。
◆
北西の貯水池までは、森を抜けて40分ほどだった。
雪は降っていないのに、道の両側は白い。草の先には霜が固まり、木の幹にも薄い氷が張りついている。
ロウは森狼の足跡を見つけるたびに足を止めた。
「こっちにもいるな」
「また村へ向かってる?」
「今んところは逆だ」
土に残った跡を指でなぞる。
「さっき逃げた群れだろう。北へ散ってる」
「ならいい」
「良くはねえよ」
ロウが立ち上がった。
「あんな狼、俺も初めて見た」
「森狼自体は珍しくないんだろ」
「人を襲うことはある。でも普通はあそこまでしつこくねえ。まして矢が刺さっても止まらん奴が何頭も出るなんて聞いたことがない」
レイは足元へ耳を澄ませた。
森の下にも季脈がある。村ほど強くはないが、冬の音が流れていた。以前は塔へ向かって吸われていたものが、今は逆に外へ溢れ始めている。
「冬が身体に入りすぎてるのかもしれない」
「狼に季素が?」
「人間に入るなら獣にも入るだろ」
フィアの腕と、噛まれた男の傷が頭に浮かぶ。
季素は本来、季脈や季塔を通して土地へ広がるものだ。生き物の身体へ直接取り込ませる前提ではない。
「それ、放っといたらどうなる」
「知らない」
「またそれかよ」
「俺も嫌になってきた」
ロウが笑った。
「そこは環暦士っぽくねえな」
「どういう意味だ」
「もっと全部知ってる顔してる連中かと思ってた」
「知ってるふりするほど給料もらってない」
「見習いだったな」
「実務生」
「どっちでもいい」
また言われた。
どうでもよくはない。少なくとも王立環暦院の連中に聞かれたら怒られる。
二人はさらに森を進んだ。
途中から地面の傾斜が強くなり、木々の隙間から山肌が見え始める。
やがて水の匂いがした。
「見えたぞ」
ロウが前を指す。
森が途切れ、その先に低い石造りの堤が伸びていた。
古い貯水池だ。
思っていたより大きい。山から流れ込む水を受けるため、谷の一部を石壁で塞いで作られている。水面の半分近くには薄い氷が張っているが、中央部にはまだ黒い水が見えていた。
「使ってないって聞いたけど」
「畑の水路を作り直してからな。今は大雨の時に水を逃がすくらいだ」
レイは堤の上へ上がった。
石組みは古いが、少なくとも見た目には崩れていない。
「保守口は?」
「こっちだ」
ロウが迷わず堤の北端へ向かう。
石の間に半分埋まった鉄蓋があった。
フィアの記憶通りだ。
「よく覚えてたな」
「あいつは子供の頃、この辺まで平気で来てたからな」
「危なくないのか」
「何回も怒られてた」
「想像できる」
蓋は村のものより大きかった。
レイが留め金を外すと、内部に太い弁が三つ並んでいる。
一本は山から水を引き込む導水管、一本は村へ向かう季脈へ繋がり、残る一本は貯水池の底へ伸びていた。
「これだ」
季素計を近づける。
村側の数値は異常に高い。
対して、貯水池側にはほとんど流れていない。
「ここを開けば冬が水へ流れる」
「で、水が受け止めるんだったな」
「ああ」
「凍ったら?」
「ある程度は想定してる」
「全部凍ったら」
「想定してない」
「おい」
「だから少しずつやる」
レイは主弁へ工具を掛けた。
固い。
両手で力を込めると、金属が低く鳴った。
少し動いた瞬間、季素計の針が跳ねる。
「来るぞ」
ロウが水面を見る。
貯水池の端から白い線が伸び、ぱき、ぱき、と細かな音を立てながら氷が広がっていった。
速い。
予想よりずっと。
「……早すぎる」
レイは弁をそこで止めた。
水面の4分の1ほどが新たに凍っている。それでも村側の季素圧は確実に下がった。
「効いてる」
「なら、もうちょい開ければいいんじゃねえか」
「待て」
レイは堤へ手を当てた。
震えている。
水が凍る音ではない。もっと低い響きが、石の奥から伝わってくる。
「……まずいな」
「何が」
「水は凍ると膨らむ」
「それくらい知ってる」
「この勢いで池ごと凍らせたら、堤が耐えるか分からない」
ロウの顔が引きつった。
「壊れたら?」
レイは貯水池の下を見る。
谷の先には森があり、さらに下れば村の北側へ繋がっている。
「水が全部下へ行く」
「閉めろ」
「まだ少しなら――」
ミシ。
二人とも黙った。
石壁のどこかから音がした。
「閉めろ」
「今閉める」
レイが弁を戻す。
入ってくる季素圧が強く、弁が押し返されていた。さっき開けた時より明らかに抵抗が増している。
「手伝うか!」
「いや、急に回すと管が跳ねる!」
「じゃあどうすんだ!」
「ゆっくり閉める!」
「その間に壁が割れたら!!」
「俺に聞くな!」
ロウが珍しく本気で怒鳴った。
「お前が環暦士だろ!!」
「実務生だ!」
「今それ関係あるか!?」
「ない!」
レイも分かっている。
両腕へ力を込める。
弁は少しずつ戻っているが、水面の氷は止まらない。半分を越え、さらにその先まで白さが広がっていく。
堤の振動も強くなっていた。
レイは耳を澄ませる。
水の下では、石を伝う振動と季脈の響きがいくつも重なっていた。
その中に、一つだけ違う音がある。
「……下か」
「何?」
「貯水池の底にも逃がし口がある」
ここには三つも弁がある。ただ池へ冬を流し込むだけなら、ここまで複雑な構造にする必要はない。
もし、この貯水池そのものも古い季節設備の一部なら。
「ロウ、その横の小さい弁を半分開けてくれ」
「どれだ!」
「右端!」
「壊れねえだろうな!」
「たぶん!」
「その言葉禁止にしろ!」
ロウが工具を掴む。
二人で別々の弁を回した。
小さい弁が開いた瞬間、池の中央で音がした。
ごぼっ。
氷の下から大きな気泡が上がり、続いて水面そのものがわずかに沈んだ。
「水が……」
「底から抜けてる」
排水路だ。
貯水池へ冬を流し込みながら、冷やされた水そのものを下流へ逃がすための構造らしい。
レイは主弁をさらに閉める。
振動が少しずつ弱くなった。
数分後、ようやく水面の凍結が止まる。
貯水池のおよそ3分の2が白い氷に覆われていた。
二人はしばらくその場から動かなかった。
「……失敗したな」
レイが言う。
ロウが息を吐く。
「村は?」
「少しは圧が下がった。でも、これ以上ここへ流したら堤が危ない」
「じゃあ使えねえのか」
「今のままでは」
簡単だと思っていた。
余った冬を、人のいない場所へ逃がせばいい。
理屈自体は間違っていない。
だが、その先にも土地があり、水があり、壊れるものがある。
結局は、被害を受ける場所を変えただけだった。
老人の言葉が頭に残る。
直してくれ。
「……くそ」
「環暦士も悪態つくんだな」
「今覚えた」
「嘘つけ」
ロウが堤の端を確認しに歩いていく。
レイは弁の前へしゃがんだまま、季素計を見た。
村側の値は一度下がったものの、早くも再び上昇し始めている。地下の十三月季環が送り続けているからだ。
貯水池だけでは足りない。
別の逃がし先を探すか、もっと細かく分散するか。それとも、根本から出力を下げる方法を見つけるか。
どれも時間が足りない。
「レイ」
ロウの声がした。
返事をしないまま計器を見ていると、もう一度呼ばれる。
「レイ。ちょっと来い」
声の調子が違った。
レイは立ち上がり、堤の北端へ向かう。
「何だ」
「これ、お前らの仕事だよな」
ロウが石壁の脇を指した。
そこには鉄製の点検箱がある。
表面には古い錆が浮いているのに、留め金だけが妙に新しかった。
レイはしゃがみ込む。
「……最近、開けられてる」
「やっぱりか」
錆の剥がれ方が新しい。
工具を差し込んだ跡も残っている。
さらに点検箱の足元には泥が付着していた。日陰とはいえ、完全には乾いていない。
「いつくらいだ」
「正確には分からない。でも、少なくとも78年前の跡じゃない」
「そりゃそうだ」
「それどころか、もっと最近かもしれない」
ロウがレイを見る。
「3年前ってことか?」
「いや」
レイは泥へ指先を近づけ、触れずに観察した。
「3年前の異常と関係ある可能性はある。でも、これを最後に触ったのが3年前とは思えない」
「じゃあ……最近も誰か来てる?」
「少なくとも、この跡はそう見える」
二人の間に短い沈黙が落ちた。
レイは留め金を外す。
中には配管と圧力計、小さな調整歯車が収められていた。
問題は、その歯車だった。
本来なら固定具で動かないよう封じられているはずなのに、留め具が外されている。代わりに細い金属片が噛ませてあった。
「誰かが調整してる」
「何を?」
レイは金属片を抜かずに、歯車の位置と目盛りを確認する。
「貯水池側を閉じて、村側へ流れやすくしてる」
ロウの表情が消えた。
「それ、どういう意味だ」
レイもすぐには答えなかった。
自然に壊れたのではない。
錆びた部品が偶然ずれたのでもない。
誰かが工具を使ってここを開け、意図的に冬の逃げ道を狭めた。
「3年前から冬が消えたのと関係あるかもしれない」
「誰がやった」
「分からない」
「村の人間か?」
「決めつけるな」
思わず強く言った。
ロウが眉を上げる。
レイは少し間を置いて続けた。
「村の人間なら、まずここを触る知識が要る。それに、こんな調整をする理由もまだ分からない」
「じゃあ外から来た奴か」
「それもまだ分からない」
ただし、誰かが触ったことだけは確かだ。
しかも一度ではない可能性がある。
レイは点検箱の内側へ季素灯を向けた。
光が奥まで届く。
歯車の下に、小さな布片が挟まっていた。
「ロウ」
「今度は何だ」
「灯り持ってて」
レイが指先で布を引き出す。
濃い灰色の作業服の切れ端らしい。
端には刺繍が残っている。
文字ではない。
円の中に四本の線があり、その中央を一本の針が縦に貫いている。
春、夏、秋、冬。
レイは見覚えがあった。
毎日、自分の身分証で見ている。
「……王立環暦局」
ロウが隣から覗く。
「お前のとこじゃねえか」
「ああ」
レイは布片を見つめる。
王立環暦局の紋章が入った布。
少なくとも、局に関係する何者かがここへ来た可能性は高い。
ただし、これだけで正式な局員だと決めつけることはできない。作業服を手に入れる方法はいくらでもあるし、誰かが意図的に残した可能性すらある。
それでも無視はできなかった。
3年前から村の冬は消え始めた。
バルガスたちは毎年報告を上げた。
だがレイへ渡された資料には、その大半が書かれていなかった。
そして今、冬の逃げ道を狭められた点検箱から、王立環暦局の紋章が出てきた。
グレンの言葉が頭をよぎる。
【明朝、村を出ろ】
レイは布片を工具鞄へ入れた。
「帰るぞ」
「もう調べねえのか」
「調べる。村でな」
ロウが首を傾げる。
レイは凍った貯水池を一度だけ振り返った。
もう季塔だけを調べれば終わる話ではない。
第四十一季塔と十三月を繋いだのは誰なのか。
3年前に何が起きたのか。
そして今も、誰かがこの村の季脈へ手を入れているのか。
「まずグレンに聞く」
「グレン?」
「俺の師匠だ」
「王立環暦局の人間か」
「一級環暦士。たぶん、今回のことも何か知ってる」
何かどころではないかもしれない。
十三番目の音について、グレンはレイが説明するより先に知っていた。三本爪の差し口についても、こちらが一度も使っていない「鍵」という言葉を口にした。
そして、村を出ろと言った。
素直に全部話してくれるとは思っていない。
それでも、聞くしかなかった。
「行くぞ」
歩き出しかけたレイが、ふと足を止める。
「待て」
「今度は何だ」
点検箱から少し離れた地面に、靴跡が残っていた。
二人のものではない。
ロウの靴より細く、レイのものより深い。踵には小さな金属鋲の跡が三つ並んでいる。
ロウがしゃがみ込んだ。
「さっきはなかったか?」
「見てなかった」
「古い跡じゃねえな」
今度はロウの方が早かった。
猟師の目で踏み荒らされた霜を追い、指先で跡の縁を確かめる。
「まだ霜が戻ってねえ。今日か、せいぜい昨日だ」
レイも足跡を追った。
点検箱の前まで来て、そこから森へ戻っている。
つまり誰かがここへ来て、作業をして、立ち去った。
「どっちへ行ってる?」
ロウが立ち上がり、木々の間を睨む。
「街道じゃねえ」
靴跡は山側にも向かっていなかった。
二人がここまで来た道と、ほとんど同じ方角へ続いている。
リュネ村だ。
ロウの表情から笑いが消えた。
「……村の方だな」
「ああ」
レイは工具鞄の中に入れた灰色の布片を思い出した。
3年前に誰かがここを触った、というだけの話ではない。
今も誰かが動いている。
それも、かなり近くで。
「急ぐぞ」
二人は村へ向かって走り出した。
背後では、凍りついた貯水池が低い音を立てていた。




