第13話 森の牙
森狼が柵の隙間から飛び込んだ瞬間、ロウの弓弦が鳴った。
放たれた矢は狼の肩へ深く突き刺さる。
それでも止まらなかった。
地面を蹴った森狼は矢を刺したまま走り、逃げ遅れた村の男へ一直線に向かう。
「下がれ!!」
ロウの怒鳴り声に男が振り返った。
遅い。
森狼が跳ぶ。
レイの目の前で、男が腕を上げて顔を庇った。
「ぐあっ!!」
牙が厚手の袖ごと前腕へ食い込んだ。
肉の裂ける音が聞こえた。
男が地面へ倒れ、雪のない白い石畳へ血が散る。
「離せっ……!」
森狼は腕を噛んだまま首を振った。男の悲鳴と同時に、嫌な音がする。
ごき。
レイの背筋が冷えた。
「ロウ!」
「射線がねえ!」
男と狼が重なっている。
フィアが動いた。
「フィア!」
「分かってます!」
弓ではない。
片腕ではまともに引けないと判断したのか、家の壁に立て掛けてあった短槍を右手で掴んだ。
そのまま狼の横へ回り込む。
「こっち!!」
森狼の耳が動く。
フィアは槍の石突きで地面を強く叩いた。
注意が一瞬だけ逸れた。
「今!」
ロウの二本目の矢が飛んだ。
喉。
森狼の身体が大きく跳ね、男の腕から牙が抜ける。
フィアが負傷した男の襟を掴んだ。
「下がって!」
「腕が……!」
「今は立って!!」
右腕だけで引きずるように男を後ろへ下げる。
狼はまだ死んでいなかった。
喉から血を流しながら立ち上がり、口を開く。その吐息に混じって白い霜が舞った。
「ロウ!」
「見えてる!」
三本目。
矢が眼窩へ入った。
今度こそ森狼が倒れる。
痙攣する脚が石畳を何度か掻き、やがて動かなくなった。
「……一匹」
レイが呟く。
「まだいるぞ!」
ロウが叫んだ。
柵の向こうで影が動く。
四。
五。
六。
少なくともそれだけは見える。
「村の中へ入れるな!」
バルガスの声が飛ぶ。
集まっていた村人たちが我に返った。
「怪我人を家へ運べ! 子供は外に出すな! 南側の家は裏口から北へ移れ!」
さっき腕を噛まれた男を二人が抱えて運んでいく。
血が道へ点々と残った。
フィアも追おうとしたが、レイが呼び止める。
「フィア」
「何です?」
「左腕」
「動かしてません」
「そうじゃない」
槍を握った右手が震えている。
怪我のせいだけではない。
人が目の前で噛まれた。
血も見た。
それでもフィアは槍を離さなかった。
「……大丈夫です」
「聞いてない」
「顔に書いてあったので」
前にも似たようなことを言われた気がする。
フィアは一度だけ深く息を吐き、柵の向こうを見た。
「今は村の方を見ます」
「ああ」
それでいい。
レイも工具鞄へ手を伸ばした。
剣はない。
槍も弓もまともには扱えない。
狼と殴り合うつもりもない。
なら、自分にできることを探す。
「ロウ、森狼って柵を越えるか」
「腹減ってりゃ越える!」
「走る速さは?」
「お前よりずっと速い!」
「聞かなきゃよかった」
「聞いたのはお前だろ!」
柵の向こうで一頭が助走を取る。
「来るぞ!」
森狼が跳んだ。
木柵の上。
その身体が村側へ落ちる直前、ロウの矢が脇腹へ刺さった。
だが致命傷ではない。
着地した狼はそのままロウへ向かう。
「ちっ!」
ロウが弓を捨て、腰の鉈を抜いた。
狼が飛びかかる。
鉈が横から頭部へ叩き込まれた。
刃が毛皮を裂き、血が飛ぶ。
それでも狼は前脚を振るった。
ロウの上着が裂けた。
「ロウ!」
「かすっただけだ!」
距離を取る。
狼は低く唸っている。
異常だ。
肩には矢。
頭からも血を流している。
普通の獣なら逃げてもおかしくない傷だ。
それでも目の前の人間へ食らいつこうとしている。
「冬のせいか……?」
レイは森狼の足元を見る。
走った跡に白い霜が残っている。
身体の周囲から漏れているものも、ただの吐息ではない。
季素。
それも冬。
森で会った岩熊とは違う。
あの熊は冬を感じた途端、山へ帰った。
こいつらは逆だ。
冬そのものを身体に抱え込んでいる。
「レイさん!」
フィアの声で顔を上げる。
別の一頭が壊れた柵を抜けた。
村人たちが逃げる。
その先には共同小屋がある。
中には牛と山羊。
「まずい」
獣がいる。
血の匂いもする。
森狼が小屋へ向きを変えた。
フィアが走ろうとする。
「待て!」
「家畜が!」
「分かってる!」
レイは地面を見る。
この辺りにも季脈が通っている。
さっき地図で確認したばかりだ。
南側の共同小屋。
井戸。
村道。
その下を冬季の枝脈が横切っている。
「フィア、保守口は!」
質問した直後、自分で地図を思い出した。
家畜小屋の東。
古い石垣。
「いや、分かった。こっちだ!」
レイが走る。
フィアも付いてくる。
「来るなって言ったの、さっきですよ!」
「今は村の中だ!」
「基準そこ!?」
「槍持ってるなら周り見てろ!」
「はい!」
石垣の根元。
雪の代わりに霜が積もっている。
蹴って払う。
鉄の蓋。
「あった」
レイは工具を差し込み、捻った。
動かない。
「またこれか」
古い設備というものは、大事な時ほど素直に開かないらしい。
背後から家畜の鳴き声が響く。
森狼が小屋の扉へ体当たりした。
板が軋む。
「レイさん、早く!」
「分かってる!」
一度工具を抜く。
別の差し口へ入れ直し、柄を靴で蹴った。
ガン!
錆が剥がれた。
もう一度。
蓋が開く。
中には調整弁が二つあった。
片方は村側。
もう片方は南の排水路へ繋がっている。
「……使える」
「何するんです?」
「道を作る」
レイは村側の弁を閉じ、排水路側を開いた。
地下から低い振動が返ってくる。
冬の季素が流れを変えた。
石垣の脇から共同小屋へ向かって、地面の表面へ白い霜が伸びていく。
「もっと」
弁を開く。
季素圧が上がる。
霜が薄い氷へ変わった。
「レイさん、これ……」
「フィア! 小屋の前から人をどけろ!」
フィアは一瞬で意図を理解した。
「小屋の前、空けて!!」
村人たちへ叫ぶ。
「道も踏まないで! 滑ります!!」
森狼が小屋の扉へもう一度ぶつかった。
ばき。
板が割れる。
中の牛が暴れ始めた。
フィアが右手の槍を石畳へ打ちつけた。
「こっち!!」
狼が振り返る。
「フィア、何してる!」
「レイさんが道作ったんでしょ!」
「だからってお前が囮になるな!」
「他に誰がやるんですか!」
言い返せない。
フィアがもう一度、石突きで地面を叩く。
森狼が低く身体を沈めた。
「来なさい!」
走る。
フィアも走った。
左腕を吊ったまま、片手で槍を握っている。
速くはない。
それでも、村の道を知っている。
氷の筋を避けながら、森狼との距離を保つ。
「もう少し右!」
レイが叫ぶ。
フィアが進路をずらす。
森狼は追うことしか見ていない。
前脚が氷へ乗った。
滑る。
巨体が横向きに崩れ、勢いのまま石垣へ叩きつけられた。
「今だ!」
ロウの矢が飛ぶ。
一本。
二本。
二本目が胸へ深く入った。
森狼は起き上がろうとしたが、凍った足場では踏ん張れない。
そこへ村の猟師がもう二人駆けつけた。
矢が続けて刺さる。
ようやく森狼の身体から力が抜けた。
フィアは槍を地面へ突いて息を整えている。
レイが走り寄った。
「無茶するなって言っただろ」
「成功したじゃないですか」
「結果の話をしてない」
「レイさんもいつもやってるでしょ」
「…………」
「ほら」
「今それ言うか」
「今だからです!」
言い返せなかった。
自分にかなり腹が立つ。
「二人とも、後にしろ!」
ロウが叫ぶ。
森側の柵が大きく揺れた。
残っていた狼が一斉に押し始めている。
「数、増えてないか?」
レイが目を凝らす。
さっき見えていたのは少なくとも6頭。
今は。
「8……いや」
木々の間に、まだ白い息がある。
ロウの顔が険しくなった。
「群れが集まってきてる」
「なんで村に」
「知らん。だがこいつら、餌だけ見てる顔じゃない」
先頭の森狼が地面の匂いを嗅いでいる。
村の中ではない。
地面。
季脈。
レイは気づいた。
「冬だ」
ロウが横目で見る。
「何?」
「こいつら、冬の季素を追ってる」
村へ異常な量の冬が流れ込んだ。
その匂いを。
あるいは季素そのものを感じ取って。
森中から集まっている。
「じゃあ、このままだと」
フィアは最後まで言わなかった。
レイも分かっている。
冬を止めない限り、まだ来る。
「貯水池へ流すしかない」
予定は変わらない。
むしろ急ぐ必要が増えた。
だが、今ここを離れれば村の柵がもたない。
ロウも同じことを考えたらしい。
「環暦士」
「レイでいい」
「じゃあレイ。さっきの氷、どこまで作れる」
「季脈の上ならある程度」
「柵の外にも通ってるか?」
レイは頭の中で地図を開いた。
「通ってる」
南枝。
森から村へ入り、そのまま第四十一季塔へ向かう細い季脈。
柵の外を横切っている。
「何考えてる」
ロウは矢筒を確認した。
「入ってくる前に止める」
「殺す気か」
「村に入ったら人が死ぬ」
迷いのない声だった。
猟師にとっては当然なのだろう。
レイは狼を見る。
季節を狂わされた獣。
好きでこうなったわけではない。
だが、さっき村人の腕が噛み砕かれた。
次は腕で済む保証がない。
「……分かった」
工具鞄を持ち直す。
「ただし、俺が合図するまで撃つな」
「何する気だ」
「走れなくする」
レイは柵沿いを東へ走った。
後ろからロウと猟師二人が続く。
フィアも来ようとしたが、バルガスの声が飛んだ。
「フィア!」
娘が止まる。
「お前はこっちだ! 村の中を見ろ!」
フィアは悔しそうに森を見たものの、今度は父親へ従った。
「……分かった!」
村人たちを家へ入れ、壊れた柵の前へ荷車を運ばせ始める。
レイはそれを横目で確認してから、石造りの小さな保守標識の前で止まった。
「ここだ」
土を掘る。
鉄蓋を開ける。
中にあるのは大きな分岐弁だった。
森側。
村側。
排水路。
三方向。
「これを一気に開ければ、外の枝脈へ冬を流せる」
ロウが嫌そうな顔をする。
「さっきみたいになるのか」
「もっと強い」
「先に言え」
「今言った」
柵が鳴った。
限界が近い。
レイは弁へ両手を掛ける。
「ロウ、狼を季脈の上まで引けるか」
「どうやって」
「知らない。猟師だろ」
「環暦士って性格悪いな」
「師匠に言ってくれ」
ロウが鼻で笑い、矢を一本抜いた。
狼ではなく、柵の外にある木の幹へ放つ。
矢が刺さる。
続けてもう一本。
今度は狼のすぐ横の土。
群れの注意が東へ向いた。
「来るぞ」
ロウたちが移動する。
柵の外側を群れも並行して走り始めた。
速い。
数は9頭。
いや、奥にもう1頭いる。
十。
「十分だ!」
ロウが叫ぶ。
レイは弁を回した。
最初は重かった。
力を込める。
ぎ、と金属が鳴る。
さらに回す。
地下の季脈が唸った。
「開け……!」
最後まで押し込む。
轟音が足元を走った。
柵の外。
地面が一瞬白くなる。
次の瞬間、霜が森狼の足元から一気に噴き上がった。
先頭の一頭が転ぶ。
後ろの狼がぶつかる。
さらに後ろも止まりきれず、群れが崩れた。
「今だ!!」
ロウたちが一斉に矢を放つ。
森狼の悲鳴が重なった。
一頭の首を矢が貫き、血が凍った地面へ広がる。
別の狼は前脚を凍らせたまま暴れ、無理に引き抜こうとして皮膚が裂けた。
赤いものが白い氷に残る。
レイは目を逸らさなかった。
自分がやった。
季脈を使ったのは自分だ。
直すための設備で、獣を傷つけた。
「レイ!」
ロウの声。
一頭だけ、氷を越えていた。
大きい。
群れの中でも明らかに体格が違う。
背中まで白い霜に覆われ、片目が青白く濁っている。
そいつは柵へ向かわなかった。
レイを見ていた。
「……俺?」
季脈の弁。
冬季素。
今もっとも強い冬の匂いがする場所。
森狼が走る。
ロウが矢を放つ。
外れた。
「逃げろ!!」
レイも逃げる。
だが、数歩で理解した。
間に合わない。
速すぎる。
振り返った時には、もう目の前だった。
白い牙。
開いた口。
レイは工具鞄を盾にする。
「ぐっ!」
衝撃で背中から地面へ倒れた。
狼の牙が革鞄へ食い込む。
中で何かが砕けた。
「俺の工具……!」
恐怖より先に腹が立った。
最悪だ。
狼が鞄を振り払う。
レイの手から離れた。
次は喉だ。
短剣へ手を伸ばす。
抜くが遅い。
森狼が跳んだ。
「レイ!!」
声がした。
さん、がなかった。
フィア。
考えるより先に身体が反応した。
レイは横へ転がる。
同時に短槍が飛んできた。
片手で投げたせいか狙いは甘い。
それでも穂先は森狼の肩へ刺さった。
狼が体勢を崩す。
その一瞬で十分だった。
ロウの矢が飛ぶ。
首。
もう一本。
胸。
森狼は数歩よろめき、それでもレイへ牙を向けた。
「しつこいな……!」
レイは地面に落ちていた工具鞄を蹴り飛ばす。
狼の顔へぶつかる。
ロウが距離を詰め、鉈を両手で振り下ろした。
鈍い音。
森狼が倒れる。
今度は起き上がらなかった。
数秒間、誰も動かなかった。
レイは地面へ座り込んだまま、自分の身体を見る。
噛まれていない。
爪も当たっていない。
「……生きてる」
「見りゃ分かる」
ロウが荒い息を吐きながら答えた。
「立てるか」
「ああ」
差し出された手を掴む。
立ち上がったところで、フィアが走ってきた。
「レイさん!!」
戻っている。
「さっき」
「何です!?」
「いや」
今はいい。
フィアはレイの肩や腕を確認し、怪我がないと分かると大きく息を吐いた。
「もう……!」
「槍、助かった」
「ほんとですよ!」
「片手で投げるな。危ない」
「助けられた人が最初に言うことそれですか!?」
「褒めてもいる」
「聞こえませんでした!!」
いつもの調子だ。
だが、フィアの目には少し涙が浮いていた。
レイはそれに気づかないふりをした。
ロウが柵の向こうを見る。
「残りは引いた」
生き残った森狼たちは森へ戻っていく。
冬の季素を浴びた群れの何頭かは倒れたまま動かない。
村側にも怪我人がいる。
柵は壊れた。
家畜小屋も半壊している。
勝ったとは言い難い。
それでも、人は死ななかった。
今のところは。
バルガスが杖を突きながらこちらへ来た。
「終わったか」
「一旦は」
ロウが答える。
レイは森を見た。
まだ遠くから鳴き声が聞こえる。
「また来る」
ロウも頷く。
「ああ」
冬が村に溢れている限り。
森の獣たちは、また引き寄せられる。
レイは壊れた工具鞄を拾った。
噛み跡が深く残っている。
中を確認する。
「……共鳴棒、折れてる」
フィアが覗き込む。
「そこ!?」
「高かったんだぞ」
「死にかけた直後ですよ!?」
「だから腹立ってる」
フィアは一瞬呆れた顔をして、それから笑った。
「ほんと、変な人」
「知ってる」
レイは鞄を閉じた。
休んでいる時間はない。
村に冬が溢れ続けている。
森狼まで集まり始めた。
貯水池へ流れを変えなければ、次はもっと多く来るかもしれない。
「ロウ」
「今度は何だ」
「飯、まだ残ってるか」
「たぶんな」
「食ってから貯水池行くぞ」
「今?」
「今」
ロウはしばらくレイを見ていたが、やがて笑った。
「環暦士ってのは大変だな」
「見習いだけどな」
「もうそれ、どうでもいいだろ」
レイ自身も少しそう思い始めていた。
その時、フィアが袖を掴んだ。
「レイさん」
「何だ」
「今度こそ、一人で無茶しないでください」
「ロウがいる」
「そういう意味じゃないです」
レイは少しだけ黙った。
さっき、狼の牙が目の前まで迫った時。
聞こえた声を思い出す。
「……分かった」
フィアはそれ以上何も言わなかった。
レイも、さっき彼女が自分を何と呼んだのかは口にしなかった。




