第11話 残されたもの
十三回目の鐘が鳴り終わっても、村はしばらく静まり返っていた。
空へ昇っていた雪は次第に数を減らし、やがて最後の一粒が雲の中へ消えていく。
その直後だった。
「……寒っ」
フィアが両腕を抱く。
レイもすぐに異変へ気づいた。さっきまで冬とは思えない気温だったのに、急激に空気が冷えている。吐いた息が白くなり、道端に残っていた水たまりの表面へ薄い氷が張り始めた。
「戻った……?」
村の方から誰かの声がする。
「冬が戻ったぞー!!」
別の声が上がり、それをきっかけに村人たちがざわめき始めた。
喜ぶ声もあった。子供たちは空へ消えていった雪を追いかけ、畑の前では老人がしゃがみ込んで、凍り始めた土を触っている。
3年間、この村が待ち続けた冬だ。
普通なら喜んでいい。
だが、レイは季塔を見上げたまま動かなかった。
「レイさん!」
「冬は戻ってる」
「ですよね!!」
「戻り方がおかしい」
フィアの表情から、少しだけ浮かんでいた笑みが消えた。
地面の下では、まだ冬の〈季素〉が激しく動いている。村へ流れ出した分もあるが、それ以上の量が第四十一季塔の地下を巡っていた。まるで一度吸い集めた冬を、何か別の目的で使っているように聞こえる。
その時、村の方から大きな音がした。
ガシャン!!
二人が振り返る。
「何!?」
「行くぞ」
村へ戻ると、井戸の前に人が集まっていた。
地面には割れた桶が転がり、その周囲へ水が広がっている。ただし、その水はもう流れていなかった。
石畳の上で、そのまま凍りついている。
「急に凍りやがった!」
男が桶の破片を拾いながら言った。
「汲んだ時は普通だったんだぞ!」
レイは井戸の縁へ近づき、中を覗く。
水面は凍っていない。
「上だけか」
汲み上げた瞬間、外気に触れて凍ったらしい。
フィアはすぐ近くにいた村人へ声を掛ける。
「水はしばらく汲まないで! 家に残ってる分を使って!」
「でもフィア、家畜が――」
「順番に回します! 必要な家は私のところに言って!」
返事を待たず、次の家へ走っていく。
レイはその背中を見送った。
村長代理の顔だ。
「環暦士さん!」
今度は別の声がした。
振り向くと、バルガスが杖を突きながらこちらへ向かってくる。
「何が起きてる?」
「冬が戻りました」
「見りゃ分かる」
「戻りすぎてます」
バルガスの眉間に皺が寄った。
「止められるのか?」
「原因を見ないと分かりません」
「塔か」
「地下です」
バルガスは一瞬、言葉を失った。
「また行くのか」
「放っておく方が危ない」
いつものレイなら、それで話を終えていた。
だが、バルガスの視線が村へ向いたのを見て、少しだけ言葉を足す。
「フィアは置いていきます」
「誰を置いていくって?」
背後から声がした。
振り向くと、フィアが立っている。
「聞こえてたのか」
「聞こえる距離で言いましたよね!」
「村に残った方がいい」
「お父さんがいます」
「脚悪いだろ」
「口は元気です」
「おい」
バルガスが低い声を出す。
フィアは父親へ向き直った。
「井戸はしばらく使用禁止。家畜用の水は倉庫の樽から回して。畑には今、誰も入れないで。地面がどこまで凍るか分からないから」
バルガスは娘を見て、少しだけ間を置いてから頷いた。
「分かった」
フィアはすぐレイを見る。
「行きます」
「……分かった」
「早いですね」
「止めても来るだろ」
「分かってきましたね!」
「嬉しくない」
バルガスが大きくため息をついた。
「二人とも、無事に帰ってこいよ!」
今度は誰も冗談を返さなかった。
◆
地下へ続く石段は、完全に凍りついていた。
レイが先頭を歩き、フィアが数段後ろをついてくる。壁から漏れる青白い光のおかげで、季素灯を使わなくても足元は見えた。
ただ、前回より明らかに寒い。
階段の途中には、天井から垂れた水がそのまま凍った細い氷柱までできている。
「さっきまで、こんなのなかったですよね」
「ああ」
レイは歩きながら壁の導管へ目をやる。
振動は続いている。
「設備が止まってない」
昨日まで眠っていた古い季塔が、今は完全に動いている。
問題は、何のために動いているのかだ。
十三月。
一年の誤差を調整するための月。
記録板から読み取れたのは、それくらいだった。
だが、今の世界に十三月はない。それなのに設備だけが動けば、何が起きるのか。
「……嫌な予感するな」
「レイさんがそれ言うと、本当に嫌です」
「俺も言いたくなかった」
前回見つけた円形の部屋へ入る。
十三本の環はまだ回っていた。白銀の十三月季環だけが他より速く、周囲の季素を引き込み続けている。
レイは中央へ近づかず、外周を回った。
昨日は記録板ばかり見ていた。今度は設備そのものを見る。
季素の入口、出口、制御盤、非常停止。
どこかにあるはずだ。
「……ない」
現行の季塔なら、必ず目立つ位置にある。古い設備だから形式が違うにしても、人間が作った機械なら止める手段は必要だ。
フィアは部屋の反対側まで歩き、壁際で立ち止まった。
「レイさん……」
呼び方だけで、いつもの調子ではないと分かった。
「こっち」
レイが向かう。
十三月季環の光が一瞬強くなり、今まで暗かった壁際まで照らした。
そこに、細い通路がある。
昨日は見えなかった。壁の一部が横へ動いて、入口が開いている。
「また勝手に開いたのか」
「今日は扉の方から歓迎されてません?」
「嬉しくないな」
フィアも笑わなかった。
通路は狭く、二人並んでは歩けない。
レイが先へ進むと、すぐ小さな部屋へ出た。
最初に見えたのは机だった。
その横には倒れた椅子があり、壁際には古い工具箱、床には何本かの工具が散らばっている。作業員の休憩室か、保守室だったのだろう。
そして、その奥に人がいた。
「…………」
レイの足が止まった。
壁にもたれかかるように座っている。
最初は、そう見えた。
「レイさん……」
「近づくな」
声が少し低くなった。
生きている人間ではない。
それも、もうずっと前から。
男だった。
古い作業服を着ている。左半身は白骨化し、頭蓋骨の半分まで露出していた。
だが、右側だけがおかしい。
右腕から右肩、顔の一部だけが透明な氷に包まれ、皮膚まで残っている。
左半身だけなら、何十年も前の遺体だとすぐ分かる。だが右側だけを見れば、昨日死んだと言われても信じたかもしれない。
「……何、これ」
フィアの声が震えた。
「分からない」
レイは工具鞄から手袋を出した。
いつも通り、まず調べる。
それが仕事だ。
手袋へ右手を入れようとして、指が少し引っ掛かった。
「…………」
もう一度。
今度は入る。
「レイさん」
「何だ」
「手」
レイは自分の右手を見る。
わずかに震えていた。
「寒いからだ」
フィアは何も言わなかった。
ありがたかった。
レイは遺体の前へしゃがむ。
服の形は現在の環暦士が着る作業着と似ている。ただし細部が古く、胸元には錆びた金属徽章が付いていた。
指先で氷を避けながら確認する。
【王立環暦局】
文字は読める。
その下。
【第四十一季塔・第七次改修班】
レイの呼吸が止まった。
「……78年前」
フィアが後ろで呟く。
第七次改修。
6ページだけ切り取られていた記録。
地下の古い設備と、現在の季塔を繋いだ改修。
この男は、その工事に関わっていた。
「名前は……」
徽章の裏を返す。
錆びていて最初の文字は潰れていたが、かろうじて最後だけ読める。
【――・ラウゼ】
知らない名前だ。
レイは遺体の周囲を見る。
血痕はない。骨折等も、見える範囲では分からない。ただ、右半身だけが異常な形で保存されている。
「事故……?」
フィアが小さく言った。
「まだ分からない」
いつもの言葉。
だが今回は、自分で口にして妙に重かった。
レイは遺体の右手へ目を向ける。
何かを握っている。
氷の中に、金属が見えた。
「……まさか」
氷へ触れないよう、横から季素灯を当てる。
三本の爪と、短い柄。
見覚えのある形だった。
西側の壁にあった鍵穴。そして、昔グレンの工具鞄で見たもの。
「鍵」
フィアも気づいた。
「ああ」
男は死ぬ直前まで、それを握っていた。
レイは立ち上がり、改めて部屋を見渡す。
机、古い工具、床、そして壁。
机の下には金属板が一枚落ちていた。
拾い上げる。
表面には文字が刻まれているが、ほとんどが擦れている。
読める部分だけを追った。
【第七次改修――最終確認】
【十三月季環――封鎖】
その下は傷が深く、文字も乱れている。
【冬季回収路――停止せず】
レイの眉が寄る。
さらに続く。
【封鎖後も――】
文章はそこで途切れていた。
金属板の端が大きく曲がっている。
「何があったんでしょう」
フィアはもう遺体を見ていなかった。
壁を見ている。
「少なくとも、普通の改修じゃない」
レイは金属板を裏返す。
裏にも一行だけ刻まれていた。
正式な記録ではない。
工具で直接削ったような文字。
【環を止めるな】
レイはもう一度読む。
間違いない。
「止めるな……?」
フィアも読んだ。
「封鎖したのに?」
「そう書いてある」
十三月季環を封鎖した。
だが、環を止めるな。
矛盾している。
その時、背後から音がした。
カチ。
二人とも振り返る。
遺体ではない。
部屋の壁にある小さな計器の針が、ゆっくりと赤い領域へ入っていく。
レイは反射的に近づいた。
「圧力計?」
古い形式だが読める。
季素圧、上昇中。
「まずい」
今回はフィアも理由を聞かなかった。
弓を背負い直し、出口へ身体を向ける。
レイは金属板だけを鞄へ入れた。
「行くぞ!」
二人が部屋を出て円形の中央室へ戻った瞬間、十三月季環が軋んだ。
ギィィィ――。
「レイさん!!」
「走れ!!」
二人が通路へ向かう。
背後で何かが弾け、白い光が一瞬だけ部屋全体を塗り潰した。
次の瞬間、フィアの肩がレイへぶつかる。
「っ!」
レイが腕を掴む。
「どうした!」
「平気……!」
平気ではなかった。
フィアの左袖が裂けている。
その下には数センチほどの細い切り傷があった。
大した傷ではない。
そう見えた。
だが、傷口の周囲が白く変わった。
「フィア、止まれ!」
「え?」
皮膚に霜が広がる。
手の甲へ、さらに肘へ向かって、一気に白さが這っていく。
「何これ……!」
レイはフィアの腕を掴もうとして、寸前で止めた。
直接触るな。
季素異常なら、まず遮断。
「動くな」
工具鞄を開き、季素遮断布を取り出して腕へ巻く。
「痛いか」
「冷たい……それより、感覚が」
その言葉で背筋が冷えた。
レイは布を強く巻き、留め具を締める。
霜の進行が止まった。
肘の少し下。
ぎりぎりだった。
フィアの顔色が悪い。
「腕、動かせるか」
フィアが指を動かす。
少しだけ動いた。
「……動く」
「なら走れるな」
「腕と関係ないですよね」
「喋れるなら大丈夫だ」
「雑……」
いつもの返しだった。
それだけで少し安心した。
だが、レイは笑わなかった。
刃物で切った程度の傷が、わずか数秒でフィアの腕一本を凍らせかけた。
もし首なら。
もし胸なら。
そこまで考えて、やめた。
「帰るぞ」
フィアも黙って頷いた。
二人は階段を駆け上がる。
背後では、十三月季環の音がまだ続いていた。
◆
地上へ出た時、空は暗くなり始めていた。
村に雪は降っていない。
だが冬だけは、確実に戻っている。
冷たい風が吹き抜ける中、フィアは左腕を胸元へ抱えたまま歩いた。
「お父さんには……」
「言う」
「怒られるなあ……」
「俺も怒られる」
「なんでレイさんが?」
「あそこに連れて行った」
「私が勝手についていったんです!!」
「それでもだ」
フィアは少しだけ笑った。
「じゃあ一緒に怒られましょう!」
「嫌だな」
「諦めてください!」
村へ向かいながら、レイは一度だけ振り返った。
第四十一季塔の地下には、失われた十三月と古い設備、そして78年前に死んだ環暦士が残されていた。
ほんの小さな傷は、フィアの腕一本を奪いかけた。
今まで、壊れているなら直せばいいと思っていた。
季塔も季節も、原因を見つけて部品を替え、正しい流れへ戻せば終わる。
だが地下で見つけた遺体は、78年間そこに残されていた。
誰にも直されず、誰にも見つけられずに。
レイは工具鞄の中に入れた金属板へ手を置いた。
「……これは」
フィアが振り返る。
「何です?」
レイは季塔を見たまま答えた。
「ただの故障じゃない」




