第八十話 火矢
正季は佐閑の紙を公事とするための手配を始めた
立秋前後は信濃国府があるあたりでも、一年で最も暑さが厳しい時期である。
その日、橘正季は目代の井上満実と、国府の閉めきった狭い部屋で対座していた。
「その方が、人払いをして話があるというのは初めてのことだな」
相変わらず満実の表情からは読み取れるものはない。
正季は話を切り出した。
「公事の話にございます」
正季は懐から佐閑の里から預かった丸い紙を取り出した。
目代が興味深そうに手に取った。
「ほう、紙か。不思議な形をしておるな」
「公事として取り扱うことはなりましょうか?」
「よき公事になろう。どこで作られたものか?」
「それをお話しする前に、私の考えをお聞きいただきとうございます」
「ふむ……話してみよ」
「それは、さる里で作られる紙ですが、すべて公事として国府に差し出させたいと思います。そのうえで京に持ち込みます。どこで作られているかを知られれば、野盗を引き付ける恐れも、京の関心を無用に引く恐れもあります」
目代は紙をしばらく眺め、次は正季をしばらく眺めた。
「面白きことを考えたな。だが、筋は悪くない」
しばらく沈黙が続いた。
満実が口を開いた。
「よかろう。京で取引される際の六掛けで国府が引き取ろうではないか。どうせ、まだいくらも作れまい。この丸い形は試しに作ってみたからであろう」
「はい。そのことでもお願いがあります」
「なんじゃ?」
「京で取引される形に作るには、それなりの道具が要ります。道具を国府で調達し、貸し付けたいと考えております」
「なるほど、里の者が動くのを避けたいか。そなた調達できるか?」
「京の橘本家に訊いてみます。橘家は紙の産地である因幡や美濃とは縁がございますから」
「では、任せよう」
「どこで作っているかはお聞きにならないのですか?」
「聞くまでもないのではないか」
満実は口元にだけ笑いを浮かべ立ち上がり部屋を出て行った。
真貴はひたすら油を搾っていた。
圧搾機にかける前の、煎りの工程と、杵搗きの工程の試行錯誤を行い、搾り取れる量を少しずつ増やした。いったん搾った菜種を再度煎り、搗くことも試した。
一石の菜種から、十六升少々の油を搾りだすことができた。
真貴は油をいくつもの甕に分けて蓄えることにした。
菜種油粕は豊富な栄養価を含む肥料になる。秋蒔きの作物の肥料とするため、油粕は残らず堆肥壕に投入された。
田ではいよいよ稲の穂が膨らみだした。この時期の大敵は虫である。
村人は、日々、田を回り、虫を見つけては一匹ずつ手で捉えては潰すという作業を強いられる。
恐れていたことの一つだが、亀虫がいつもの年より多く見られるようになった。亀虫は年に何度も産卵するので、放置すると大量発生し、大きな被害となる。しかも亀虫は夜行性で昼間に見つけられる数は限りがある。
真貴は村長と話し合い、昨年同様に焚き火の火と煙で虫を追うことにした。木の小枝や松毬に松葉や生乾きの草を被せ、田の風上から煙を田に送り込む。焚火は、火をつけてしばらくは白い煙が立っているが、やがて炎を上げて燃え上がる。虫たちは煙に燻されて田から飛び立ち、火の明るさに惹かれて焚火に飛び込んでくる。
真貴は田を見渡せる少し小高い所に立ち、作業を見守っていた。あたりには草や松葉が燃える香りが立ち込め、日が暮れても作業は続く。広い田のあちこちに焚火の炎が見え、村人たちが働いている様子がうかがえる。
真貴の頭に、大蜘蛛丸に立ち向かう策がゆっくりと浮かび上がって来た。
翌朝、真貴は秀柾に、狼煙台と同じ仕組みを、急いで湖岸に作るように頼んだ。秀柾は重平とともに狼煙台を夕方近くまでかかり用意した。姉に完成を告げると、真貴から弓と火種を持って湖岸に一緒に来るように言われた。
里の田から湖岸に進むと狼煙台が見えてきた。
「姉上、狼煙台をあれに用意しました」
秀柾が指し示す。
真貴は距離を見積もった。おおよそ二十五間ほど先にある。
真貴は手に持っていた矢を秀柾に渡した。矢の先端には麻布の切れ端が巻かれ、麻の紐できつく縛られている。
「ここから、この矢で狼煙の焚き付けを射てください」
秀柾は受け取った矢を軽く振ってみた。布を巻かれた分、先端が重く大きくなっている。
「では」
秀柾が放った矢は、やや弧を描いて飛び、焚き付けのかなり下に落ちた。
真貴は、もう一本同じく布を巻いた矢を取り出した。
「もう一度射てください」
秀柾は狙いを修正した。今度は、焚き付けに命中した。
二人は矢を回収した。
あたりが暗くなり周りが見えにくくなってきた。
二人は初めに矢を射た場所に戻った。
真貴は矢に巻いた布に火を点けた。
「火矢です。すっかり暗くなりましたが、これで射てください」
秀柾は先ほどの経験をもとに矢を放った。
矢が焚き付けに当たったことは音で分かった。しばらく待ったが、焚き付けは燃え上がらなかった。
二人は再度、狼煙台に近づき矢を回収した。
真貴が火矢を調べて言った。
「飛んでいるうちに火が消えたようです。やはり、簡単にはいきませんね」
翌日、真貴は朝から火矢の改善を始めた。
菜種から搾った油を布に浸み込ませれば上手くいくのではないかと思っていたが、油を浸ませても、弓から放つと火が消えてしまうことが分かった。
真貴は、歴史を学んだ際、源頼朝が火矢を放ったとの記述を見た記憶があり、この時代では一般的なものと考えていたが、その認識は誤りのようであった。
解決策を見出せないまま、寺に赴き、村長と農作業の進め方を話していると、和尚から菜種油の灯明について礼を言われた。
「真貴よ、あの燈明はほんによかった。煤もなく、燃え方も穏やかで安心して灯すことができた」
「和尚様の御心を安らげることができ嬉しゅうございます」
「うむ。本堂の中の明かりには、以前、松脂を使っていたのだが、あれは燃え方が激しゅうて危なかったからのう」
真貴は、寺で取り置いてあった松脂をもらって作業小屋に戻った。木片に擦り付け火を点けると、激しく炎を上げ、煤を上げて燃えた。松脂の燃え方を見て、真貴はもう一つ、鍛冶の里で見た獣脂の明かりを思い出した。やはり煤を上げながら燃えていた。
真貴は火矢の試作を再開した。
矢の飛び方を配慮すると、矢の先端に大きな体積のものを付けたくなかった。試行錯誤を重ねた。ようやくたどり着いたものは、麻布を細く裂き、束ねて芯を作る。それを溶かした松脂に浸し、さらに猪の脂を塗り重ねた。粘りを帯びたそれを、矢の先に差し込んだ細い鉄の棒材に巻き付け、粗布で包んで麻縄で軽く縛る、というものだった。
火を点けると、炎は小さいが消えず、黒い煙を引き飛んだ。松脂と脂が絡み合い、火は布に食いつくように離れなかった。
次は狼煙の焚き付けの改善である。
秀柾の努力で、狼煙は、火種を深く突っ込んで着火剤である岳樺の皮に火が移れば、ゆっくりとだが燃え始め、煙が出る状態が続いた後、火が出て燃え上がるところまでたどり着いていた。
真貴は、火が出て燃え上がるまでの時間を縮め、燃え上がった時の火の勢いと時間を増したかった。何度か試した末、岳樺の皮に松脂を擦り付け、松葉をその上に少し厚めに載せた。その上に、菜種油を浸ませた藁を松の小枝を隙間を保つように積み重ねた。岳樺の皮に着火すると、油を用いない場合より素早く火が回り、燃え上がった時の炎が明るく長持ちすることが分かって来た。
真貴は、実用に耐える準備が整ったと判断した。最終的な評価を行うために、日が落ちた後、湖岸に村の主だったものを集めた。
真貴は狼煙台との距離が二十間ほどのところに秀柾を立たせた。
試行錯誤を重ねて作った火矢を秀柾に渡した。秀柾は受け取った矢を軽く振って、飛び方を思い描いた。
「では」
真貴が手元に用意していた灯明で、火矢に着火した。少し待つと煙が立ち始め、赤い火が見えてきた。秀柾は矢を放った。矢は赤い飛跡を引いて飛び、焚き付けに命中した。
皆が息を呑んで待つ。
しばらくして、火がはぜる音が聞こえ、矢が突き刺さったあたりが赤くなってきた。次の瞬間、黄味がかった炎が見え始め、焚き付け全体が燃え上がった。火はすぐに回り、炎が明るく高く立ち上がり、湖岸と村人たちの顔を照らし出した。
真貴は、この狼煙台に、菜種油を惜しまず使おうと決意した。
真貴は大蜘蛛丸を迎え撃つ手立てを得た




