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第七十八話 覚醒

真冬の間動かなかった大蜘蛛丸が温かくなり動き出した

 久丸――まだ幼い頃の名で呼ばれていた自分が、氷が張る寒さの中、庭を臨む屋敷の廊下に座っている。三人の郎党が背後に控えている。目の前の庭では、父が、片肌を脱ぎ、静かに弓を構えている。新年の武射神事むしゃしんじである。狙いは四間ほど先にある「鬼」と書かれた的である。

 

 弦音とともに矢が飛び、乾いた音が響き、鬼の文字に矢が突き立った。

 

 大蜘蛛丸に自分の胸が射抜かれたような衝撃が走った。次の瞬間、大蜘蛛丸は目を覚ました。真冬であるにも関わらず、寝汗をかいていた。


 前年の秋までの越後での活動後、大蜘蛛丸は上野の吾妻荘に引いた。上野、越後、信濃の国境は師走半ばから雪が降り積もり、立夏の頃までは行き来はままならない。


 大蜘蛛丸は年取りとか新春とかといった寿ことほぎの時間と儀式が耐え難かった。毎年のことではあるが、師走あたりから、眠れない日が続くかと思えば悪夢の中を彷徨さまよう日が続き、昼夜の区別がなくなる。手下たちは大蜘蛛丸を刺激しないように、おとなしく見守っている。


 春分を数日過ぎた夕暮れ、大蜘蛛丸は肉を焼く匂いに目が覚めた。腹が減っているのに気が付いた。

 起き出してみると、小屋の外で、手下たちが猪を解体して焼いていた。大蜘蛛丸は、手下の一人が手に取っていた焼き串を取り上げ、脂が滴る肉を口に入れた。脂と塩の味で生気が戻ってくるのが分かった。

 手下がおどおどと尋ねた。

「お頭、もういいんで?」

「うるさい」

 大蜘蛛丸は食べかけた串を投げつけて茂みに進み、放尿した。

 遠くから狼の遠吠えが聞こえた。頭を上げると、西の信濃側の山々の上に三日月がかかっていた。


 浅間山の噴火で荒廃した上野は復興途上にあったが、その主体は国府ではなく荘園だった。大蜘蛛丸が留まっている吾妻荘は清和源氏の源義国のゆかりのものが荘官を務めている。荘園は、それぞれが京の貴族や有力な寺社の領であり、荘園内については国府に対して不入の権を盾に各々が勝手な経営を行っていた。言い換えれば、荘園内で悪さを働かない限り、野盗でも逃散した者でも保護していた。


 大蜘蛛丸の一味は、上野を出ての働きができない春先は、上野内の国衙や他の荘園を荒らしていた。ただ、やりすぎると領主の目こぼしにあずかれなくなるので、食料を奪ったり、少人数の寄人をかどわかし、奴婢として売り飛ばしたりするにとどめていた。


 立夏を前に、一味は吾妻荘の南東にある小里を襲った。大した成果は得られなかった。帰途に就いた一味は烏川を遡り、榛名川との合流箇所まで移動し休息した。


 夜明けが近い時間であったが、次第に雲が厚くなり雷鳴が聞こえだした。

 突然、激しく雨が降り出した。稲光が煌めき、雷鳴が間近で聞こえだした。

 一味がいくらかでも雨を避けようと、大きな木の側に近寄ったところで、目の前の木に光の柱が突き刺さり、爆発音が轟いた。


 大蜘蛛丸は目が眩んだ。次の瞬間、一切の音が消えた。あたりが真っ白な光に包まれた。

 見渡すと手下たちは目や口を見開いたまま、動きを止めて固まっている。気が付くと、落雷した木のすぐ前に、小柄な老爺が立っていた。

 大蜘蛛丸は吠えた。

「なんだ、うぬはっ!」

 老爺が口を開いた。風体に似合わぬ低く太い声が、大蜘蛛丸の頭の中に直接聞こえた。

「もはや人に非ざる者になり果てし、大蜘蛛丸と名乗る者よ」

「……」 

「そを、鎮めるは我が眷属なり」

「……うぬは何者か?」

「榛名の湖に住まう者よ」

 光が消えた。


 雨音が戻った。手下たちが動き出した。

 土砂降りの雨の中、大蜘蛛丸は、ただ立ち尽くした。


 いつしか寒さは去り、木々の葉は色濃くなりはじめていた。

 大蜘蛛丸は気が満ち、体に力が漲るのを感じていた。


 大蜘蛛丸は手下たちに尋ねてみたが、榛名川で不思議な老爺を見たのは自分だけだと分かった。

 あの折、老爺は、自らを榛名の湖に住まう者と称した。老爺は自分の眷属が大蜘蛛丸を鎮めると言っていた。吾妻荘の荘官に榛名の湖の主を尋ねると、荘官は顔をこわばらせ言葉に詰まった。訳を問うと、恐れ多く、その名を口に出すことはできないという。太刀を抜き、答えを迫ると小さく呟いた。

「……高龗神たかおかみのかみ(龍神の神名)にございます」


 夜になった。

 日が信濃方面の山々に沈み、東の赤城山の方から月が昇りだした。

 大蜘蛛丸は懐の日月紋が刻まれた短刀を握りしめた。龍神に、人に非ざる者と呼ばれ、鎮めてやると告げられた以上、己が道は、神に叛きし者を全うするしかなくなったと確信した。龍神の眷属を倒そうと決意した。大蜘蛛丸は、これまでになく清々しい気分になった。


 梅雨の終わりごろ、大蜘蛛丸が信濃に下見に出していた者が、指示していた上田、諸の里の様子を調べ、帰ってきた。


 守りが緩いのは上田のようだった。前年の夏越の祓いの際の流民の暴発に際して、上田の郡代が手勢をまとめて送り出したのは、事件の翌日を過ぎてのことだった。

 他方、諸の守りは固そうだった。横川の関を破って信濃に侵入した僦馬の党の者どもは、追撃してきた上野の関司と、すぐに駆け付けた諸の郡代の手勢で討ち取られている。


 大蜘蛛丸は下見に出していた者に尋ねた。

「僦馬の党の者どもは、昼間に信濃追分から入ったのか?」

「左様で。どうやら明け方近く、一仕事終えて戻る途中、松井田あたりで出張っていた国府の武者に見つかり、そのまま追われて横川の関を破って、信濃に入ったようです」

「下手を打ったな。そして、諸の郡代の手勢と追手に討ち取られたか」

「そんなところですが、諸から南の湖辺りまで逃げた者もおったようです。ただ、こいつらも国府の役人と里の武者に討ち取られたそうです」

「国府の役人が出張っていたのか?」

「たまたまでしょう。武者は連れてなかったようで、見廻りの途中だったのでは」

「そうか……里の武者というのは?」

「へい。佐閑の里の望月秀柾とその郎党だそうです。諏訪の弓比べで名を上げた若武者で、その姉も、今や信濃では霊験あらたかと評判の『龍神の巫女』だそうです」

「なに……『龍神の巫女』だと……」

「へえ、龍神の言葉を伝え、病をたちどころに治すとか、死んだものを生き返らせたとかいう噂もあります。どうもこの姉弟は、もともとは上野の者だったらしく、浅間権現が火を噴いた年に、上野から一家で命からがら流れ着いたという話も耳にしました」


 大蜘蛛丸の中で、十四年前の夏の記憶が甦った。佐閑近くの山中で、二人の子連れの武者の一家を襲った。襲撃は失敗し、自分は左目を奪われ、生死の境を彷徨った。


(……あの時の子どもらか)


「お前、もう一度、信濃に潜れ。そして、上田の守りと佐閑の里を詳しく探れ」

「へえ。しかし、お頭、上田はともかく、佐閑は何もない小里ですぜ」

「黙れ。言う通りにしろ」


 大蜘蛛丸は外に出た。日はすでに暮れ、湿って雲が低く垂れこめていた。南西の方角を見る。


(あの雲の下に龍神の巫女がいる…)


 大蜘蛛丸は破壊と殺戮の衝動で体が震え出しそうだった。



龍神の眷属を倒す…大蜘蛛丸は昂奮していた

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