第七十五話 光の里
正季は久々に佐閑を訪れその変化に驚く
正季はいったん西に戻り、南下する。しばらく進むと八ヶ岳の裾野に広がる湖岸に出る。
葦や茅が茂る湖岸沿いの街道を進んでいくと、佐閑の田が見えてくる。 佐閑の田の稲は、上田や諸で見た稲より太く勢いがある。
馴染みの呼子の音が聞こえる。
湖岸から緩やかな斜面を登り、佐閑の里に入ろうとして、正季は思わず足を止めた。村を囲むように柵が作られていた。まだ完成はしていないが、柵の意図は明白で、特定の門を通らないと村に入ることができなくすることを狙っている。門からいくらか入ったところの左右に狼煙台が設けられている。
正季が門から入っていくと、正季を見かけた村人たちは手を止め、被り物を取って礼をする。正季は会釈で応え、妙泉寺に向かった。
正季の驚きは続く。
村の中心に近い場所に、以前は、壊れかけたような小屋があったのだが、それが新たに建て替えられていた。屋根を葺く茅は、まだ厚みが足りないが、しっかりした柱と梁が組み合わされ、一回り大きくなっている。そのまま寺に進むと、こちらは屋根の修理が施され、新たに一部屋が建て増されているようだった。境内には何やら大きな材木を組み合わせた仕掛けが置かれている。
本堂の前で、秀柾と重平が、正季を待っていた。
「橘様、よくお出でいただきました」
「秀柾殿、重平殿、和田峠での加勢、かたじけなかった。その方らの働きで、籾を運びきることができた。本当に助かった」
「橘様のお役に立てて嬉しゅうございます。どうぞ、こちらへ。村長を待たせています」
本堂で村長と和尚が待っていたが、真貴の姿はない。
正季は稲の出来から尋ねることにした。
「先ほど、湖岸の田を見せてもらった。たいへんいい具合だと見たが、いかがかな?」
「はい、私も驚いております。これまで何十年も田をやって参りましたが、見たことがない勢いです」
「いかにして、その勢いを得たのかな?」
「まず、昨年の秋に、田にスズメノエンドウの種を蒔きました。これが春になって花をつけだしたところで田に鋤き込みました。巫女様に教えていただいたやり方です。その時に、草木や落ち葉の灰、馬の糞などを溜め置きしていたものを肥やしとして入れました。これらが効いているものと思います」
「うむ……工夫の積み重ねで、これほどまでの違いが出るのか」
「村の者どもも驚いております。今、皆は、巫女様が御田の世話をされているやり方を見ては、倣って行っております」
村長の隣で、和尚が何度もうなずいた。
「村の中に新たな建物ができていたがあれは何かな?」
「巫女様方の仕事場所です。巫女様が薬草を干される場所、まとめられる場所が要ります。それだけでなく、紙を漉いたり、いろいろな食べものを工夫したりされますので、仕事をする場所を広げようということで建てております」
「紙漉き……とな?」
「はい、昨年はこのような紙を十枚ほど漉いたと言われていました」
村長は、本堂の経机の上にあった丸い紙を手にした。
紙は作り方が秘密とされる高級手工芸品だった。正季の知る限り、信濃では仁科神明宮でしか紙漉きは成功していない。
「寺の境内にある大きな材木を組み合わせた仕掛けも巫女殿の……?」
「左様でございます。巫女殿は、菜の花の種から油を搾ると言われていました」
油。
京でも、特別に裕福な者しか使うことができないたいへん貴重なものである。貴族の館や格式高い寺社で使われる油は荏胡麻の実を搾って採取するものだが、京の南、山崎の離宮八幡宮だけがそのやり方を知っていて、朝廷から「油祖」と認められ、「油座」として専売権を持っている。菜の花から独自の方法で油を搾ることができれば、その価値はとてつもないものになる。
「巫女殿が見当たらないが、いずれに……?」
秀柾が答えた。
「姉は、菓子と飲み物を用意すると言っておりました。まもなく来るでしょう」
ほどなくして、真貴がユイ、セイとともに現れた。セイが盆に、小皿と椀を載せて運んできている。
三人は正季に頭を下げた。正季も会釈を返す。
「巫女殿、長和の菩提寺では世話になった。そなたのおかげで、三途の川を渡らずに済んだ」
「健やかなお顔を拝見でき、ようございました」
セイが盆を差し出した。
「橘様にお試しいただきたい菓子を用意しております。鄙びた里の味ですが、お気に召せば幸いです」
ユイが正季の前に、小皿と椀を運んだ。小皿には径が半寸ほどの団子が数個載り、胡麻がまぶされ、とろりとしたものがかけられている。椀には、透き通った薄い琥珀色の汁が入っている。
「では……」
正季は団子を口に運んだ。麦の風味がして、やや粒が残る口触りである。ごく薄い塩味が、胡麻の風味を引き立て、とろりとした飴の甘さを強調する。琥珀色の汁は、わずかな苦みとほんのりとした甘みがある。くせが少なく飲みやすい。菓子の味を引き立ててくれる。いずれも、風間家で味わった葛切りとは、また別のおいしさがある。
「これは旨い」
正季の感想に、三人の笑顔が弾けた。
セイが真貴を見た。真貴が小さくうなずいたところでセイが説明した。
「麦の団子に胡麻と水飴を絡ませたものです。お飲み物は柿の葉を浅く煎じたものです。すべて里で採れたもので作りました」
正季は大きくうなずいた。
「まさに、地にこそありけれ、だ」
暗くなり始めた頃、真貴と秀柾は寺で正季と夕餉をともにした。
真貴が用意した料理は、燻した鹿肉である。薄く溶いた水飴を塗り炙ったうえで、山椒の粉をふりかけている。もう一品は、野草と葱の汁に蕎麦掻を浮かべたものである。汁の出汁は鹿の骨や筋からとったものである。
正季は舌鼓を打った。
「巫女殿、この鹿肉の炙り物は、これまで食べたどんな肉よりも旨い。そして、この汁物も、蕎麦の風味が素晴らしい」
「橘様のお口に合って幸いです」
正季は少し真顔になって真貴を見た。
「巫女殿、私は、そなたと会うたびに、そなたの話を聞くたびに、驚かされる。何度も助けられた。そして今日、半年ぶりに、この里に来て、驚きを通り越して、恐れを抱いている」
真貴が少し首を傾げた。
「何か、危ういものがございましたでしょうか?」
「紙と油、それと水飴だ。巫女殿は、これらをいかに扱うおつもりか?」
「この里の民のために役立てます。この貧しい里で、生きていくうえで欠かせぬ塩や布、さらに、鍋釜、農具といった鉄の道具、墨や筆の類を手に入れるには、市場で交換して手に入れるしかありません。米麦といった作物は、どこの里でも作っておりますので、価値のあるものを作りたいと考えておりました」
「うむ……たしかに価値がある。しかし、巫女殿の作られた価値は、あまりに高すぎる」
「どういうことでしょうか?」
「水飴については、京でも、巫女殿の水飴ほど優れたものはない。それを使った菓子もだ。貴族どもが知ったら、何としても手に入れようとするだろう」
「……」
「紙は、作れるところは限られている。油に至っては、朝廷の保護下にある油座を脅かすことになる。つまり、京に波が立ち、巫女殿とこの里を狙うものを招きかねない」
「それほどのものでしょうか?」
「それほどのものだ。いや、それ以上だ。巫女殿は、光を生んでおる。だが光は、遠くからも見え、様々なものを引き寄せる。明るいほど影も濃くなる」
秀柾が驚いて尋ねた。
「では、姉とこの里を守るには、どうすれば……?」
「先ほどから、私もそれを考えておる。まず、紙と油については、うまくいっても、市場に出さず、村人には、しばらくは黙っておくことだ。私としては、すべて国府で受け取り、信濃のどこで作られたかわからぬようにして、京に運び込みたい。むろん受け取った分、村の年貢を減らす」
「なるほど」
「水飴については、市場に出すなら、団子や餅に絡めた菓子の形でだけ出すのはどうだろう。佐閑で水飴が作られているとは悟られないように」
真貴はしばらく黙って考え、静かに言った。
「承知しました。ただ、水飴は、風間様はご存じです」
「そうだったな」
正季は風間家で食べた葛切りを思い出した。
「風間殿には、私から口止めを願おう。ただ、葛切りの評判は、最早、広まっておるかもしれんが……」
真貴が小さくうなずいた。
「それと、大蜘蛛丸のことも伝えておきたい」
「なにか新たな動きがございましたか?」
「今は動きを潜めている。昨年、越後の役人が、奴の配下を捕らえて聞き出した話がある。奴は『すめろぎなり』と称し『奪われたものを取り返す』と言っているそうだ。奴の左目を奪った武者が、そなたらの父上と知ったら、奴はこの里に狙いをつける恐れがある」
秀柾は唾を呑み込んだ。真貴は少し正季を見つめ、ゆっくりとうなずいた。
正季は、その夜、妙泉寺の本堂に泊まった。穏やかな虫の音が聞こえていた。
この光の里と真貴を権力からも暴力からも守らねばと強く思った。
正季は佐閑と真貴を守らねばと強く思った




