第七十三話 蜘蛛の影
越後から大蜘蛛丸の情報が信濃国府にもたらされた
正季は、ほぼひと月ぶりに信濃国府に戻った。
同僚は以前にもましてよそよそしかったが正季は気にならなかった。目代の井上満実に、予め京に行く許しを得ていたが、長らく出府しなかったことを詫びた。満実は、目を合わせた後、小さく「うむ」と言っただけであった。
懸案は多かった。昨年の触書で、年貢米の代納を夏成とすることを許したため、徴収計画の詰めが必要だった。正季は溜まっていた仕事の処理に没頭した。
仕事に戻り、十日ほどしたころ、昨年の夏に大蜘蛛丸について対策を話し合った越後国府の少目、平照芳が信濃国府に正季を訪ねてきた。
「少目殿、よくお出でいただきました」
「越後の土地争いの裁定で、京の国司様の元にお伺いする途上です。昨年、相談に乗っていただいた大蜘蛛丸の件でお耳に入れたいことがあり、立ち寄りました」
「ありがたい。是非、お聞かせください」
「少掾殿とのお話で、大蜘蛛丸の一味が襲撃を行うのがいつなのか、ある程度見当がつきました。奴らの拠点が上野にあることは分かっていましたので、我らは、奴らが襲撃の際に通るであろう場所に兵を配して、迎え撃つことを考えました」
「なるほど」
「ところが、奴らは、我らの読みよりもはるかに用心深く、狡猾でした」
「と、いいますと?」
「奴らは斥候を放っていたようなのです。我らが兵を配した道を避け、越後領内に侵入されました」
「それは……まるで、軍勢を操るような手管」
「ええ。我らも生半可なことでは追捕できないと覚悟し、兵を集め、配する場所を増やしました」
「して、成果は?」
「大蜘蛛丸を捕らえることはなりませんでしたが、配した兵の一隊が襲撃から引き揚げていく彼らと出くわしました。ただ、奴らが全員騎乗でこちらには騎馬武者は一人しかいなかったので、ほとんどを取り逃がしました」
「それは、無念な」
「まことに無念です。しかし、奴らのうち二名だけは手傷を負わせ捕縛しました。一人はすぐに死にましたが、一人は尋問できました」
「何か新たに知ることができましたか?」
「はい。奴らは、どうやら坂東北部に拠点を持つ清和源氏の一族と通じているようです」
正季の中で大蜘蛛丸と父を殺めた源明国との繋がりが明白になった。明国は清和源氏頼光の流れである。
「それと、大蜘蛛丸が、短刀を振りかざし、自分は『すめろぎなり』と豪語するのを聞いたことがあるそうです」
「なんと……」
「平新皇(天慶の乱の平将門のこと)を気取っているのか、ふざけた輩です。もうひとつ、大蜘蛛丸がよく口にする言葉が『奪われたものを取り返す』だそうです」
正季の中で、大蜘蛛丸が白河院の落胤であるという推察は、確信へと変わった。
「我らが、大蜘蛛丸の手下を捕らえて以降、一味は越後に現れていません。用心をしているのか、別の場所に移ったのかは、まだわかりません」
京へと向かう照芳を見送った後、正季は、今後の大蜘蛛丸の動きについて考えた。
越後の守りが固いと分かった大蜘蛛丸は標的に別の地を選ぶと思われる。より北の地は、山が深く険しくなり上野からの侵入は難しくなる。となれば、再び信濃を狙う可能性は高い。
その時は長野方面か南下して上田、諸方面か……大蜘蛛丸の面に一太刀を浴びせたのは真貴の父と聞いている。龍神の巫女がかつて自分の目を奪った武者の娘と知れば、大蜘蛛丸は必ずや佐閑を標的にすると思われる。
正季は近いうちに北信、東信の巡察を兼ねて、佐閑を訪ね、真貴に知らせようと決めた。
芒種が過ぎ、夏至が近づく頃、真貴はきつね色に色づいた小麦の刈り取りを行った。ほぼ予想通り、四十二斤(約二十五キロ)を収穫することができた。刈り取り脱穀を済ませた麦藁は馬たちの大事な飼い葉になる。同じ時期に菜種の収穫も行った。手のひら一杯から始めた菜種は二年で、ほぼ一石(百五十キロ)となった。刈り取った菜種の葉や茎も馬の栄養価が高い飼い葉となる。良質な飼料を与えた馬の糞が、田畑の良質な肥やしになる。佐閑によい循環が回り始めた。
夏至の日に鍛冶の里の男が、佐閑の里にやってきた。
真貴は収穫した小麦を男に渡した。
「なんとか、これだけ収穫することができました。どうぞ、お持ちください」
男は、収穫した小麦から四斤を真貴に返した。
「いい出来だ。粒がそろって大きい。来年も頼む」
「承知しました。では、お薬を用意します」
真貴がユイに指示し、一緒に薬を取りまとめている間、男が話を続けた。
「そうだ、巫女殿の助言を入れて、鍛冶場の風の流れを整え、休みを取らせるようにした成果が現れ始めた。体を壊す者が目に見えて減ってきた」
「それは、ようございました」
「おかげで仕事がはかどりだした。この里で必要なものはないか?」
「秀柾が鏃を十個欲しいと申しています。私からもお願いしようと考えていたものがあります。薬をまとめてから絵図面で説明します」
「ほう、絵図面とはいい手配だ」
真貴が男に示したのは内径が五寸と四寸の輪だった。
男が真貴に尋ねた。
「これを、どう使おうとお考えか?」
「箍です。内側に、硬い木の厚板を打ち込んで、底を固く締めた頑丈な桶を作ります」
「不思議な桶だな。何を入れるんだ?」
「入れ物ではありません。これで道具を作ります」
「そうか……巫女殿のことだ。確かな当てがあるのだろう」
「うまくいくことを願っています」
戸外の夏至の陽射しが眩しい。木の濃い影を地面に落としている。
真貴は大蜘蛛丸の動静が気になっていた。
「以前、おうかがいした大蜘蛛丸について何か新たな話はございませんか?」
「いや、聞いておらんな。奴については我らも気にしておる。何か分かれば、すぐに知らせよう」
「ありがとうございます」
「ひとつ面白い話を聞いた。京の話だ。国府の橘様が兄上に呼ばれて京に上ったことは存じておるか?」
「はい。御頭祭のときにうかがいました」
「その折に、なんでも偉い方のお屋敷で、どこぞの姫と文を交わしたそうな。京では、その折の歌が噂になっているという」
「……」
「橘様は二、三度のやり取りの後、姫に、『地にこそありけれ、真と貴き』と結んだ文を残し、信濃に戻ったということだ」
「橘様らしい、信濃の地こそ貴いものだという意味かと思いますが」
「それだけかな?」
男は小麦と薬草を葛籠に収めて重そうに担ぎ上げた。
「では、次は……夏の終わりごろに来ようぞ」
男はゆっくりと街道の方に去っていった。
『地にこそありけれ、真と貴き』 真貴は正季の歌を聞いた




