第七十二話 山滴る
正季は京から初夏の信濃に戻った
橘正季は神坂峠を越えて美濃から信濃に入った。
暦はすでに立夏が過ぎ、峠は青々とした草木が新芽を伸ばしていた。峠を越え少し進むと眺望が開ける。眼下には木曽谷が諏訪へと延び、左手には木曽の山々、正面には赤石の峰々が連なっている。
街道は神坂峠から曲がりくねりながら園原川沿いに下っていく。正季は夕暮れ、小寺に着き一夜を過ごした。
翌朝は、阿智の里へと進んでいく。谷が次第に開けてくると、小さな畑をあちこちに見うけるようになり、さらに進むと斜面に小さな田も見えてくる。植えられたばかりの苗が風に揺れ、水面には山々が映り込んでいる。
正季にはたまらなく愛しい風景だった。
正季は国府に戻る前に、諏訪の風間家に立ち寄ることにした。御頭祭に招待されていたが、辞退したことを詫びるためと、京に行っていた間の信濃の出来事を知っておきたかった。
風間家に着くと、すぐに応接の間に通され、清光が現れた。
正季は頭を下げ詫びを述べた。
「御頭祭をお招きにあずかりながら、参ることができず申し訳ありませんでした」
「いやいや、詫びを申されるようなことではございません。橘様は京に上られていたと伺いました」
「はい、兄に呼ばれました。それと、橘家の菩提寺に、父の供養に詣でてきました」
「それは、父上もお喜びでしょう」
「父と会えたような気がしました」
広間には気持ちの良い初夏の空気がゆったり流れ込んできている。
「今年、御頭祭では、弓比べを行いませんでした。代わりに射の奉納を行いました。佐閑の里の秀柾殿に弓を引いてもらいました」
「それはよき武者を選びましたな」
「まことよき武者です。最早、望月秀柾の名は信濃に聞こえております」
正季は和田峠での秀柾の活躍をありありと思い出した。
清光が話を続けた。
「祭りの折には、巫女殿にもお出でいただき、昨年生まれた姫を診ていただきました。巫女殿から『健やかなり』と言っていただき、我らは心が和らいでおります」
「巫女殿のお言葉なら心強い限りです」
清光がふと思い出したように言った。
「そう……巫女殿の佐閑の里では生業に新しい試みが行われていると聞きました」
「ほう、どのような?」
「まずは、里山に近い辺りを開いて、菜の花を植えているそうです。見事な黄色の広がりとなっているそうで、美しいと評判になっています。それと、何枚かの田に、周りの里より十日ほど早く苗を植えたそうです」
正季は昨年真貴が育てていた田を思い出した。佐閑ではあの田を村でやろうとしていると分かった。
下働きの者が膳に小皿と小ぶりで深い椀を載せて持ってきた。小皿には白く細いものが載せられ黄色い粉ととろりとした汁がかかっていた。椀には、やや黄味がかった透明の湯が入っていた。
「どうかお試しください。祭の折に巫女殿から教えていただいた菓子と飲み物です」
正季は小皿を手に取り、添えられていた箸で白く細いものを汁を絡め黄色の粉にまぶし口に運んだ。つるりとした食感と爽やかな甘さが広がり、遅れて懐かしさのある風味が口に溢れた。椀の湯も飲んでみた。香ばしくさっぱりしており、後味が良かった。甘みのある菓子との相性がとても良かった。
正季は京の橘家でも富家殿でも菓子を口にしていたが、それらを遥かに上回る味わいと上品さだった。
驚いて正季が顔を上げると、清光が微笑んでいた。
「やはり驚かれましたな。京育ちの妻も、京のいかなる菓子をも凌ぐと言っております。当家にとって、かけがえのない方にだけ出しております」
「それは、かたじけない。それにしても……これらはいかなるものなのでしょう?」
「飲み物の方は桑の葉を煎じたものです。これが妻の病を癒すのに役立ちました。菓子の黄色の粉は、煎った大豆を細かく挽いたものです。粉以外のものについては、巫女殿は、ただ、佐閑の里で採れたものから作りました、とだけ教えてくれました」
「巫女殿のなされることはまったく……」
「ええ、まったく、我らの考えが及ばぬものですな」
二人は顔を見合わせて笑った。
佐閑では村を挙げての二度目の田植えが終わった。保温苗代で育て、最初に植えた苗は、しっかりと根付き勢いよく葉を伸ばしていた。これまでの田と違う様子に、村人たちは勢いづいていた。何としても豊作にしようと、皆、労をいとわず田に出ていた。
真貴は、鍛冶の里に渡す小麦の成長を注意深く見守り世話をしていた。二斤の小麦を蒔いた六十歩の畑からの収穫量は少なくとも四十斤(二十四キログラム)程度は見込めそうだった。
菜種の収穫時期も近づいていた。一面黄色だった菜の花畑から黄色の花が消え、菜種の入った莢が次第に膨らんでいた。今年は、なんとか油を搾れそうだと真貴は期待していた。ただ、油を搾る方法が問題だった。
以前に諏訪大社の祭で見た搾油法は、薬研で菜種を潰し、布袋に入れて硬い木の板で挟み、槌で叩くというものだった。少量なら油は取れるが、搾りかすにはまだ多くの油が残るはずだった。この時代の鍛冶では、精度の高い仕掛けを作ることはできない。
真貴は連日、どうすればよいか考えていた。
セイはなんとか役に立てるようになろうと懸命だった。昨年秋に手伝いに来た時に気付いたことだが、真貴は、こまかく仕事の指示をすることはほとんどない。やるべきことは自ら明らかであるかのように、次々に仕事を進めていく。
ユイも、多くの仕事は自分で考え、先を見て進めている。セイが驚いたのは、ユイは難しい漢字の読み書きができることだった。たまに、真貴に確認をしているが、薬草を束ね、木札に名前と用途、処方を書き込んでいる。セイはユイに習って、漢字が読み書きできるよう努め始めた。
もうひとつセイがユイに驚いたのは礫縄だった。
野草を一緒に採りに行った際、急にユイが立ち止まり、石を拾った。声を出さず静かに座るよう、動作で指示され、いぶかしく思っていると、ユイは懐から紐のようなものを取り出し、石を収めて振り回し始めた。次の瞬間、紐が解け、石が唸りを上げて藪に消えた。何か鈍い衝突音がして、獣が逃げていくのが分かった。
秀柾と重平は、村を守るための柵作り、畑地の開墾に加え、新たな小屋作りと寺の改修とをはじめた。
村長や和尚も加わり、計画が立てられた。
まず、真貴の薬草を保管し、作業のできる新たな小屋を建てる。寺を補修し、人が寝泊まりできる場所を増やす。こうすることで、冬までには、真貴とユイは新たな小屋に移り、重平は寺に住み、秀柾とセイが一緒に住めるようにできる。村人の手も借りて、住いの改善が進みだした。
立夏を過ぎ、季節は春から初夏へと移ろっていく。空の青さが増し、燕が飛び交い、山には緑が滴り始めた。
真貴は、この春からの生業がとりあえず無事に始まり胸をなでおろしたが、いずれ訪れるであろう災厄を考えると気が重かった。
里には平和な時が流れていたが、真貴は気が重かった




