第七十一話 地にこそありけれ
正季は摂関家の藤原忠実の屋敷に連れていかれた
牛車は、春の午後をゆるゆると進む。
遠陞が簾越しに外を見たまま、正季に言った。
「これから会うのは、富家殿、 摂関家の藤原忠実殿だ」
正季はよもやの大物に驚いた。
「富家殿は先ごろ院の不興をこうむり、内覧(天皇に奏上される文書を見る職務)を拒まれておる」
遠陞が、依然として簾越しに外を見たまま呟いた。
「夏の日は、いつ暮れるともわからぬほど長いが日暮れは必ず来る。院も近々古希をお迎えになる」
摂関の地位にありながら内覧を拒まれたとなると、事実上の罷免である。正季は遠陞の考えていることが見えてきた。
陽が落ちかけたころ、牛車は大きな屋敷に着いた。
遠陞が出迎えの者と短い会話を交わすと、二人は屋敷の奥の一間に案内された。薄暗い部屋に灯明が揺らめいている。
しばらく待つと、豪華な白っぽい狩衣をまとったやや恰幅のある壮年の男が現れ、御台に座った。遠陞が両手を突き深く頭を垂れた。正季も倣った。
男が口を開いた。
「これは蔵人殿、この詫び人の元へ、よう来てくれた」
「何を仰せになりまする。院のご不興はよくあることではございませんか」
「いやいや、今回ばかりは、少々のことでは済みそうものうてな」
「しばらくお骨休めの時期を得たとお考えになるのがよかろうかと」
「そうよなあ」
言葉が途切れた。
正季は御台の男が自分を見ていることに気付いた。男から声がかかった。
「その者か、先日、そなたが申しておったのは」
「左様にございます。八郎正季にございます。父に付いて信濃に下向し、今は、信府に詰めております」
「信濃か……そなたの父は気の毒であったな……」
正季はとりあえず頭を下げた。
「昨年の夏であったか、信濃に関わる不可思議なことを耳にしたぞ。中宮がひどく怯えておる。ずぶ濡れの童女が、信濃の山奥から京へ歩いて来るとな」
遠陞が答えた。
「その話は私も耳にしましたが、何故、中宮様が恐れられるのか……」
「中宮が、その子を始末するよう命じた……何か不都合か、嫉妬かゆえに」
「あり得ましょう」
再び言葉が途切れた。正季は、ここには、長く居てはならぬ気がした。
遠陞が、ふいに振り返った。
「わしは富家殿と少々込み入った話がある。その方は、しばし外しておれ」
御台の男が言った。
「そうだ。当家の庭をゆるりと回られよ。月も明るい。案内の者を付けよう」
男が人を呼んだ。
案内されるまま、正季は庭へ出た。
庭は広大で、豪奢であった。宇治川から引き込んだ流れが、一部の建物の下をくぐり、大きな池となって広がり、また流れ出ている。池には蓮が植えられているようだった。池の周りには大小の木が植えられ、その合間合間には大きな石が配されている。
ただ、正季は、この庭に気持ち悪さを感じた。庭を形作るすべての木、石、流れが人に支配されている。美しいとはこういうものだという押しつけがましさを感じる。正季は、人の営みなど顧みぬ、気高く、ときに残酷な信濃の山河の美しさを思い出した。空にかかる月だけが真の貴さを伝えていると正季は思った。
正季は案内に従い、ゆっくりと庭を回る。
釣殿の前に鑓水をまたぐ小さな橋が架かっていた。その橋を渡ろうとしたとき、釣殿に明かりが見えた。思わず目をやると、女の姿があった。侍女を従えていた。正季は小さく会釈し、目を逸らした。
庭の散策を終えると、正季は屋敷の一間に案内された。円座が用意されていて、案内の男から座るように促された。座ると酒と豪華な料理が運ばれてきた。給仕の者がついて、杯に酒が注がれる。そのうち、屋敷内のどこかから琴の音が聞こえてきた。
正季にとって無聊の時間が過ぎていった。
翌朝、正季が朝餉を取り終わったころ、遠陞が部屋に現れた。
「昨晩はどうであった?」
いきなり問われたが答えようがない。
「どう、と申されましても……」
「信濃では味わうことができない雅な宵であったろうが」
「……左様でございます」
遠陞の表情が少し変わった。
「そのほう、昨夜、庭を回っているとき、女を見なかったか?」
正季は、昨夜、釣殿で女を見かけたのは偶然ではないと知った。
「はい、お見かけしました」
「そうか……それで?」
「由緒ある家の姫とお見受けしました」
「うむ。村上源氏の流れと聞いておる。そなた、文を考えておるか?」
「……文、にございますか?」
「わしの顔を潰すでない。富家殿のご配慮であるから、ひとまず、それらしく文をしたためよ。返りが来ることは、まず、あるまいが」
橘の屋敷に戻り、正季はしぶしぶ筆を執った。しばらく考えて和歌ではなく漢詩を書き送ることにした。礼を失さず、婉曲に遠慮を述べる意図である。
遣水流光映月明
疑是花香遠嶺生
回首欲求山上月
琴聲猶在春宵清
使いの者に持たせた。
不本意な務めを果たした後、正季は下働きの者に、自分が着て来た直垂や烏帽子はどうなっているのか、自分の馬はどうなっているのかを尋ねた。尋ねられた男はしばらくして、直垂は洗い張りの最中であること、馬は邸内の厩舎で世話をされていると報せに来た。
翌朝早く、正季は厩舎に赴き、馬を引き出した。
目指すのは奈良明日香近くにある一族の菩提寺、橘寺である。
正季は春盛りの大和路を南下する。左手に広がる笠置の山々にはところどころ薄紅色の塊が見える。馬の背に揺られ、野の風を顔に受けて、正季は久々に生気が戻るのを感じた。
橘寺には夕刻に着いた。
僧に名乗り、父の供養に来たと告げると墓所に案内された。しばし手を合わせ、本堂に戻った。
粥と漬物の夕餉を寺が用意してくれた。
寺では日没後の例時作法が行われていた。正季は僧の背後に座し、手を合わせた。
その後、宿坊に戻り横になったが、正季は寝付けなかった。本堂に戻り、阿弥陀如来像に手を合わせ目を閉じた。静かだった。堂外の木々が風にそよぐ音さえ聞こえた。
しばらくすると、背後に気配を感じた。正季は、父だと分かった。声が聞こえた。
「信濃から出てきおったか」
「はい。兄に呼ばれ、参りました」
「京はいかがじゃ?」
「私には向かぬ所と承知しました」
「これからどうする?」
「信濃に戻ります。なすべきことがあり、あるべきところへ」
「それでよい。そなたは、知恵も、力も蓄えた。あるべき地にて、なすべきことをなせ」
「父上なら、そうおっしゃられると思っていました」
「信濃のことは、そなたに任せておる」
父の気配が消えた。
正季は宿坊に戻り、ようやく眠りにつくことができた。
翌日の夕刻に正季は橘屋敷に戻った。夕餉を済ませた頃、兄から呼び出された。
「寺に行ったそうじゃな?」
「はい。父の墓所に参りました」
「うむ、父も喜んだであろう」
「はい」
遠陞の傍らに小盆が置かれ、文が小枝に結ばれていた。
「なんと、源氏の姫から返りがあった。そなた、何を書き送ったのだ?」
「詩を一篇」
「詩?歌ではなく詩か?」
「歌は不得手にございます」
「次は歌を送れ」
「……はい」
正季は部屋に戻り文を開いた。流麗な仮名が並んでいた。
比翼とも
連理の枝とも
聞きしかば
我が大君の
いづれをか見む
正季は、すでに次の手を決めていた。
まず、信濃へ戻る支度を整えた。膳部に干飯と漬物を用意させた。洗い張りが終わった直垂と折烏帽子を部屋に戻させた。
文を、二通、書き起こした。
一通は兄への置手紙である。「橘寺で考えているうちに、父の死の背後にある秘密について思い至るものがあった。確かめるために、信府に戻る。事情が分かれば知らせる」と記した。
もう一通は、姫への返歌である。悩みながら書き上げた。兄への手紙に、源氏の姫に届けてほしいと、書き足した。
遠陞は、三日間、屋敷を留守にした。
帰ってみると、正季はおらず、置手紙と、託された姫への返歌が残されていた。
手紙に目を通した後、姫への返歌を読んでみた。
さがせども
天をぞ望む
月なきに
地にこそありけれ
真と貴き
遠陞は、使いの者に、正季の返歌を源氏の姫に届けるよう託した。
「地にこそありけれ 真と貴き」と書き残し、正季は信濃へ戻った




