第七十話 橘遠陞(たちばなとおます)
正季は十三年ぶりに京の橘邸に戻った
信濃を発って十日後、橘正季は京の南、綴喜の橘本家の屋敷に着いた。父とともに信濃に向かって以来、十三年ぶりの帰京となった。
屋敷に着くと、奥に通された。すぐに、腹違いの兄であり、今の橘一族の長である遠陞が現れた。
「よう戻った。わしのことは覚えておろうな」
遠陞は正季よりも十二歳年上で、橘家の正嫡として育てられていたので、正季と接する機会はさほどなかったが、節句の折々、一族の子らが居並ぶ際には、遠陞が子どもらをまとめていた。
「むろん、覚えております」
「うむ、話したいことはいろいろあるが、まずは風呂殿に参り、旅の垢を落とされ、ゆっくり休まれよ。幾人か、そなたの世話をするものをつけようぞ。まあ、募る話は、夕餉ののちに、酒でも酌み交わしながら行うとしよう」
「ありがとうございます」
正季は背後に人の気配がしたので振り返ると、下働きのもの二人が控えていた。
「その者たちが、案内するでな。では後ほど」
遠陞は立ち上がり部屋を出て行った。控えていたものから声をかけられた。
「こちらでございます」
正季は、京の流儀を少し思い出した。
正季が風呂殿から出ると、信濃から着てきた直垂と折烏帽子はすでに片付けられ、代わりに小袖と指貫、狩衣、立烏帽子が用意されていた。小袖を羽織ったところで、控えのものが進み出て、正季の髪を整えた。
衣装をすべて身に着けると、庭が見える一室に案内された。御座と脇息が置かれていた。
「殿より、こちらのお部屋をご用意するよう、仰せつかりました」
正季は、内心うんざりしながら、御座に座った。
しばらくすると、夕餉が運ばれてきた。食材ごとに小皿に盛られ、塩や酢といった調味料が入れられた小皿とが、脚付き膳に載っていた。食べ始めると、いかにも雅なものであったが、さして旨いとは思えなかった。どこか、遠い味がした。
食事が終わる。何をするでもなく時間が過ぎ、日が落ちて、あたりが暗くなってきた。
静かな足音がして、下働きの男の一人が現れた。
「殿がお呼びです」
正季は、屋敷の奥にある小部屋に案内された。
遠陞が円座に座り、膳に載せた酒を飲んでいた。
正季が少し離れて板の間に座ろうとすると遠陞から声をかけられた。
「そちらの円座に座れ。もう少ししたら酒が来る」
やむなく、遠陞近くに置かれた円座に座ると、先ほどの下働きの者が瓶子と杯を載せた膳を持ってきた。黙って正季の前に置き、お辞儀をして部屋から出て行った。
「待たせたな。やっと厄介な客を帰したところだ」
「……左様ですか」
「うむ……そなたには、いろいろ聞きたい話がある」
正季は暗い部屋で見る遠陞が不気味に見えてきた。
「まずは近々のことだが、信濃守に出された解状の始末は上手くいったのか?」
「……なぜ、兄上が信濃の解状のことをご存じなのです?」
遠陞が口元にだけ笑いを浮かべた。
「解状を源重時殿に繋いだのは、わしだ」
正季は真貴が解状を出したことは知っていたが、いかにして国司まで届けたかは知らなかった。
「そうでしたか」
「解状を持ってきた者が、『解状は正季殿の考えでもある』と言っておったから、重時殿に繋いだが、驚いておったぞ。『先に受け取った信府からの上申書と解状の中身が近い』と」
「どうか、そのことは胸にお納めください」
「もとより、そのつもりじゃ。まあ、この件で、そなたの信濃での仕事ぶりが分かった」
「……おそれいります」
遠陞が杯を飲み干し、瓶子を手に取った。
「そなたも飲め」
やむなく正季も杯を取った。遠陞が酒を注いだ。
「そなたを呼んだわけを話しておこう」
遠陞の目が光を帯びた。
「わしは二つのことをやり遂げねばと思っておる」
正季は形ばかり杯を口にした。
「ひとつは、この国の形を正すことじゃ。院の長きにわたる専横によって、今や政に義は失われておる」
遠陞は新たに杯を飲み干した。
「今一つは、橘家の再興じゃ。南都の御代には我が一族は太政官首班も務めておったが、時とともに力を失ってきた。ことに、我らが父が信濃で殺められてから、我が一族は冷遇されておる」
正季は遠陞が望んでいることは分かった。しかし、その望みを果たすため自分が呼ばれたと思うと面白くなかった。
「兄上のお考えは分かりました。して、私にどうせよと仰せでしょうか?」
遠陞は、また、口元にだけ笑みを浮かべた。
「そう、身構えずともよい。橘の者として振る舞え。それでよい」
正季ははぐらかされたと思った。
遠陞は黙って杯を重ねた。正季は兄の意図を測りかねていた。
遠陞が少し首を傾げ、正季に問うた。
「ところで、そなた、龍神の巫女を知っておるか?」
正季は目代の井上が同じことを訊いてきたのを思い出した。
「存じております」
「龍神の言葉を伝え、凄まじい術を使うという話が京にまで届いておる。死者を生き返らせるとも聞いた。そなた、見たことがあるか?」
正季はどう答えるか迷った。この兄のことだから、龍神の巫女についてはある程度調べがついているのであろう。その上で、自分に龍神の巫女の技量を尋ねてきたのは、自分と龍神の巫女の関係を測ろうとしているとも考えられる。
「私は見ておりません。重篤の者を手当てしたところは見ましたが、死者を生き返らせたことはないと思います」
遠陞が意外そうな表情を見せた。
「そうか……。うむ、今宵はここまでだ」
正季は部屋に戻った。
月の光だけが、庭に落ちていた。
翌日、昼を過ぎたころに正季は遠陞から呼ばれた。昨晩の狭い部屋ではなく、広間で遠陞が待っていた。
「正季、もう少ししたら出かける。そなた、ともに参れ」
この屋敷内で正季はほかにすることはない。遠陞の命とあれば従うしかない。
しばらく部屋で待っていると、下働きのものが呼びに来た。案内されるままに行くと牛車が用意されていた。 正季は、乗り心地が悪く、歩くよりも遅い牛車が嫌いだった。
「さて、参ろうか」
遠陞が先に乗り込んだ。やむなく正季も乗った。
牛車に乗り、しばらく進んだところで、正季から尋ねた。
「どちらに参られるのですか?」
「宇治だ。そなたを会わせておきたいお方がいる」
宇治までは四里、牛車で行けば着くのは暗くなったころになる。
いきなり遠陞が真顔になった。
「我らの父の死について、そなたと話しておきたい」
「どういうお話でしょうか?」
「わしは、父は院の謀によって殺められたと考えておる」
正季も、その見解には異論はなかったが、遠陞が何故、今、この危険な話を始めたのかわからず警戒を強めた。
「何故、そうお考えでしょうか?」
「あの温厚な父が、源明国のような粗暴な輩と諍いを起こすはずはない。しかも明国は、下野からわざわざ信濃国府まで出向き、ことに及んでおる。国司をして国司を殺めるよう仕向けられるのは院だけじゃ。そのあと院は橘一族の就官を拒んでおる」
遠陞のここまでの推論は正季も同じである。
「わしは、何故、院が父を殺めたのか知りたい。そなたもよく存じているように、父は文章得業生を経て、国司に任じられ、すぐ信濃に赴いておる。院の不興を買うようなことはもちろん、院に目通ったこともないかもしれん。それなのに、院は父を殺めることにした」
遠陞の疑問はもっともである。
「わしは、父は信濃国司を務めている際に、院が隠しておきたいことを知ってしまったからではないかと考えておる。そう考えなければ筋が通らぬ」
正季は遠陞の推察力に驚いた。
「そこでだが……そなた、信府において、何か掴んでないか?院がひた隠しにしたいことを」
正季は大蜘蛛丸のことを告げようかと思ったが、兄がその話をどう使うかわからないのは危ないと考え、とどまった。
「……いえ、私も気にはなっていますが」
「そうか、そなたもか」
遠陞は黙った。
兄の遠陞は政治的野望、家の再興、父の死の真相に気を使っている




