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第六十九話 葛切り

佐閑に田植えの季節が近づいていた

 佐閑の米作りは、昨年の真貴とユイの、荒田から予想の倍の収穫を得るのを目の当たりにし、すでに変わり始めていた。


 昨年秋の終わりに、真貴は村長とともに、失敗を避けつつ増産も狙う作付けを計画した。すなわち二反はすべて真貴に倣い新しいやり方で行う。残りは施肥と水管理だけを取り入れる。真貴が御田の農作業を先行し、村人はこれを見学して追随して行う。


 秋のうちに、二反の田に、スズメノエンドウが蒔かれた。春の訪れとともにスズメノエンドウは芽を出し、田は緑に覆われていた。


 真貴は昨年同様に種蒔きに先立ち保温苗代を準備した。見学に来た村長をはじめ村の主だった者が、同じ仕様の苗代を、村の田のために作り始めた。


 真貴はユイと里に来たばかりのセイに手伝わせて、十二斤の種籾の塩水選別と温湯処理を行った。昨年は塩水選別で二割近い籾が浮いてしまったが、今年は浮いてきたのは一割以下に収まった。


 和田峠に秀柾と重平が加勢に行っている間も農作業は進み、種籾は芽を出し、保温苗代に移され、村人が交代で見守る中、順調に育っていった。


 秀柾と重平が佐閑に戻った翌日、諏訪の風間家からの使者が来た。真貴に、諏訪に来て昨年生まれた姫を診てほしいと要請があった。御頭祭が近づいていた。


 真貴はユイ、セイとともに三合の水飴を作り壺に収めた。さらに冬の間に作りためた葛粉と粒の良い大豆を選び小袋に収めた。

 

 昨年と同様に、真貴と秀柾は東雲と西風に乗り諏訪に向かい、祭りが始まる酉の日の前日の昼に風間の屋敷に到着した。二人が来客を接待する部屋に入るとすぐに清光と静子が現れた。

 まず、清光が挨拶をした。

「巫女殿、秀柾殿、よく来てくださった」

 秀柾が答えた。

「お招きいただき、ありがとうございます」


 静子が待ちきれないように真貴に要請した。

「巫女様、どうか我が家の姫を診てください。昨年の秋に生まれてから、二度ほど熱を出しましたが、健やかに育っていると思います。この子は一点の曇りもなきよう育てとうございます」

「承知しました。姫様を診ました後、膳部を少しばかりお貸しください。お祝いの菓子を献上する準備をしてまいりました」

「膳部のものに伝えましょう。では、こちらにお願いします」


 静子が真貴を誘って行った。


 清光が秀柾に尋ねた。

「重平とセイはお役に立っておるかな?」

 秀柾がうなずいて答えた。

「それはもう、たいへん助かっています。ことに、今年の春は、いろいろございまして」

「うむ。わしの耳にも、聞こえてきておる。そうだ、秀柾殿。今年は弓比べを行わないこととした」

「左様でございますか」

「弓の引き手が、そなたしかおらんのじゃ。風間の当主は慣例で見届け役と決まっておる。国府の橘様は、なんでもしばらく京に赴かれるとのこと。それに、時興は……」

「申されますな」

「うむ……そこでじゃ、明日は射の奉納を行うことにした。そなたに任せたい」

「私でよかったら、お引き受けします」

「よろしく頼む」


 真貴は姫を診た後、膳部に入った。持参してきた材料を取り出し調理にかかった。


 まず、葛粉を鍋に入れ水で溶く。これを沸騰しないよう注意深く加熱し、少し深みのある皿にとって冷やす。次に大豆を煎った。香ばしい匂いが膳部に立ち込める。少し冷やして固くなったところで、石うすで粉に挽く。皿で冷やしていた葛粉が白く固まったところで、まな板に載せて細く切りそろえる。これを一人分ずつ皿に取り、水飴をたっぷりかけて、最後に大豆を挽いたきな粉を振りかけた。透明な葛が、光を受けてかすかに揺れた。


 菓子の献上ということで、広間には、当主となった清光と姫を抱いた妻の経子が御座に座り、傍らに前の当主の清嗣と妻の静子が座した。さらに、家中の主だったものが居並んだ。

 真貴は膳部の女衆の手を借り、脚付き膳に菓子を盛った皿を載せて広間に運び、五人の前に膳を配した。


「清光様、経子様、姫様を、しかと診させていただきました。健やかにお育ちになられていること、間違いありません。おめでとうございます」


 皆の顔に笑顔が浮かんだ。


「お祝いの菓子を献上いたします。葛切りと申す菓子にございます。すべて佐閑で採れたものでお作りいたしました。どうぞ、召し上がりください」


 銘々が箸をとって葛切りを口に運んだ。

 まず、静子が驚きの声を上げた。

「これは……なんという甘さ」

 清嗣、清光父子は、驚くばかりで言葉が出ない。


 経子は一口食べた後、しばらく目を閉じて味を確かめ、真貴に言った。

「巫女様、この優しい甘さといい、なめらかな口触りといい、どこか懐かしい風味といい……これは私が京の親元で食べたことがあるいかなる菓子よりも美味しゅうございます」


 真貴は傍らに膳を置き、その上に水飴の入った壺を置いていた。

「皆様のお口に合い、嬉しゅうございます。菓子にかかっております甘さの元になる水飴は、まだこちらの壺に入っております。これは献上いたします。餅に絡めても合いますし、肉を焼くとき、表に塗って塩と合わせるのもよいかと思います」


 清光が微笑みながら言った。

「巫女殿、たいへんなものをいただきましたな。この甘さは、妻、母のみならず、父も私も虜になってしまいましょうぞ」


 真貴が頭を下げて答えた。

「お褒めの言葉、かたじけのう存じます」


 翌日、御頭祭の神事の後、風間家の射の奉納が行われた。

 祝詞が奏上され、大声で射手が呼び出される。

「弓を引きまするは、佐閑の里の武者、望月六郎秀柾殿にございます」


 秀柾が、黒漆塗り伏竹三枚打の弓を左手に、右手に鏑矢を持って進み出た。纏う直垂は濃緑に蛟の模様の風間家から贈られたものである。


 居並んだ武者の間から、「あれが望月秀柾よ」「あれが、かの若武者か」という声が漏れる。ことに、先日の雪の和田峠で見事な指揮ぶりを見せたと聞いた武者たちの注目を集めた。昨年の弓比べまで、全くの無名であった秀柾は、今や、信濃で一目を置かれる武者として知られるようになっていた。


 秀柾は、作法に則り、片肌を脱ぎ、弓を構えた。


 観衆が静まり返った。


 弦音を立てて鏑矢が放たれた。

 矢は、諏訪大社の境内に響く大きなうなりをあげて飛び、的を射抜いた。


 境内がどよめきに包まれた。


 真貴と秀柾は、射の奉納を終えたのち、直ちに諏訪を発った。風間家からは引き留められたが、佐閑の仕事が溜まっておりますと固辞した。


 薄曇りの空の下、穏やかな春の風が吹くなかを進む。日が傾き始めた赤岳南西麓に芒が芽吹き始めていた。


 真貴が秀柾に言った。

「射の奉納、御苦労でございました。立派に果たされましたね」

「はい。清光様から直々に頼まれました。今年は射手がそろわず、弓比べができなかったそうです」

「そうなんですね。そういえば橘様もお出でになっていませんでしたね」

「ええ。清光様によれば、しばらく京に赴かれるとのことです」

「それはまた……今、しばらくは、ご自愛いただきたかったです」

「私もそう思います」


 二人は日が落ちたころ夕暮れ時に小淵に着き、寺に一泊し、翌日に佐閑に戻った。


真貴と秀柾は御頭祭に合わせての諏訪・風間家訪問を終えた

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