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第六十八話 春宵

和田峠で倒れた正季は寺で目を覚ました

真貴が傍らにいた

 正季は夢現ゆめうつつに読経を聞いていた。

 (誰ぞの枕経であろうか……もしや、自分の)

 止めさせなくてはと焦り、目を開き、身を起こそうとした。暗い天井が目に入ったが、体に力が入らず、起き上がれなかった。うめき声が漏れた。


「お気づきになりましたか?」

 かろうじて首を回すと、真貴が傍らに座っていた。

 どうやら寺のようだ。線香の匂いがして、離れた部屋から読経が聞こえる。

「籾は……どうなった?」

「籾は無事、上田と諸の郡代屋敷に届き、それぞれの里へと運ばれていきました。ご安心ください」

「そうか……ここは?」

「長和の里に近い菩提寺です。和田峠で倒れられたところを、皆で運んできたそうです」

「なぜ、そなたが……?」

「秀柾から教えられました。『橘様が倒れられた。高熱を出している』と」

 正季は和田峠で倒れた状況を思い出した。

「体が動かぬ……私は……どうなっているんだ?」

「おそらくは体も頭も心も、すべて使い果たされたのです。今は、とにかく、お休みください。それが一番の薬です」

「そうか……そなたには、今回も助けられた。礼を言いたいのだが、この状態では……」

「礼は、あとからお聞かせください。今は休まれることが何よりです」

 遠くから真貴を呼ぶ声がした。

「煎じ薬ができたようです。貰ってきます」

 真貴がすっと立って出て行った。正季には仏画の天女のように見えた。


 真貴が若い僧二名を伴って戻って来た。手には湯気の立つ椀を持っている。二人の僧が、正季を支えて起こした。真貴が傍らに膝をつき、正季の口元に椀を運んだ。薬臭さも残っていたが、生姜の香りと甘い味わいが口から入り、胃の腑へと落ちていった。

「……これは……薬とは思えぬほど旨い」

「ようございました。葛根に生姜や芍薬を加え、さらに水飴を加えています」

「生まれて初めて薬を旨いと思った」

「もう少しお飲みになりますか?」

「ああ、いただきたい」

 真貴がうなずき、また、碗を口元に近づけた。

 正季の腹の奥に、ゆっくりと熱が広がっていった。


 正季は僧の肩を借りて厠に立った。その後、再度、煎じ薬を飲んだ後、眠りに落ちた。


 目が覚めたのは、夕暮れ時だった。真貴の姿はもうなかった。

 正季は僧に尋ねた。

「龍神の巫女殿は?」

「はい。薬草を置かれ、処方を告げられた後、里に戻られました」

「そうか……私はどのくらい寝込んでいたのだろう?」

「ここに運び込まれまして、今日で三日目です」

 正季は、顎に手をやった。髭がかなり伸びていることに気が付いた。


 雨上がりの空気だった。堂内に柔らかい暖かさが感じられた。


 さらに一日を寺で養生した後、正季は馬に乗り、和田峠を越して諏訪側へ戻った。峠の雪はほとんど消えて雨上がりの土の香りがした。陽射しが暖かく、ゆったり揺れる馬の背から見える景色が霞に包まれ、山々がどこか春めいていた。その日は諏訪の小寺に泊まり、国府近くの小さな自分の屋敷に帰り着いたのは翌日の夕方になった。


 正季はほぼ二十日ぶりに国府に出仕した。


 予想していたことではあったが、同僚はよそよそしい態度で接してきた。正季は気にすることはなく、国庫から東信への籾の貸し付け、移送に関する報告書をまとめ始めた。


 午後になって、正季は目代の井上満実から呼び出された。叱責を予想して席に着いたが、満実の表情に怒りの感情は見当たらなかった。

 満実から話が始まった。

「東信への籾の貸し付けの件、ご苦労であった」

「費えが嵩みました。申し訳ございません」

「やむをえまい。それより、わしは、二百五十石の籾を、雪の和田峠を越して運んだことに驚いておる。いかなるやり方を用いたのか?」


 正季は、責を問おうとしない満実に内心驚いた。同時に満実の関心が別のところにあることもわかり、警戒を高めた。

「はい。橇を作り、馬に曳かせ、人手で押しました」

「橇か……そなた、よく橇を知っておったな」

「私の案ではございません。上田側から加勢に来た者の策にございます」

「ふむ……誰の策か?」


 正季は危険なものを感じた。龍神の巫女の名を出すことがためらわれた。

「なんでも、里の武者の一人が存じておったとのことです」

「そうか……わしは、冬を越後で過ごしたことがある。あの地は雪深く、冬の間、物を運ぶ際には人が曳く橇が使われる。小さなものだ。それを大きくして馬に曳かせたか……冬の間でも、かなりの荷が運べるな……兵もな」

「……」

「報告がまとまったら目を通したい」

「承知しました」

 満実は小さくうなずくと立ち上がり部屋を出ていった。


 数日後、京から使者が来た。

 携えていた書状は、国司から目代への、事務連絡やこまごまとした信濃内の揉め事についての国司の裁定についてのものだった。ただ、使者は橘の本家の当主、遠陞から正季への書状を預かって来ていた。


 正季は屋敷に下がってから書状を開いた。内容は「一度、京に来られたし」ということだった。こまかい事情は書かれていなかった。どう返事をするか迷ったが「近々参る」と返事をすることにした。本家の当主からの呼び出しとあれば無下にはできない。加えて、諏訪大社の御頭祭が近づいていた。正季は弓比べに出たくなかった。


 セイは上田からの急な呼び出しに秀柾と重平が出て行ったから、ずっと心配をしていた。

 十日余りして、二人も二頭の馬も、雨の中をよろけるように帰って来た。ところが、秀柾が真貴に何かを告げると、今度は真貴がすぐさま薬草を手配し馬で駆けだして行った。


 秀柾と重平はセイに馬に飼い葉をありったけやってくれと頼むと、自分らも粥をかきこみ泥のように眠ってしまった。


 翌日の夕方ごろになり、二人が目を覚ました。二人は川で体を洗い、セイが用意した衣服に着替えた。二人の手足は傷だらけで、頬がこけるほど痩せていた。恐ろしく辛い目に遭ったのだろうとセイは気遣ったが、二人はとても機嫌がよかった。セイは兄のこれほど晴れやかな顔は見たことが無かった。


 暗くなる前に真貴が帰って来た。


 秀柾が「橘様は?」と問うと「大丈夫です。ひどくお疲れになっただけです」とだけ真貴が答え、秀柾はそれ以上何も聞かなかった。


 少し落ち着いたところで、セイは兄に何があったのか尋ねたところ、兄は雪の中の荷役について語った。

「まったく命がけの仕事だった。秀柾様は将の器を示された。近在の武者は、誰もが自然に秀柾様に従った。俺はほんとうによい主を得たと思う」


 あの日以来、拭き取ることのできなかった重平の顔の曇りがきれいに晴れていた。


重平は大仕事を終えた誇りが胸に満ちていた

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