第六十六話 残雪(一)
正季は国府の仕事に忙殺されていた。
そして大きな仕事、東信への籾の貸付の日限が迫って来ていたが、和田峠の残雪が移送を阻んでいた。
新年に入ってから橘正季は多忙であった。
国府から京への年貢の搬送、京上は、本来は、秋の収穫後からその年のうちに行われる。しかし、前年秋に北信と東信の不作からの混乱により、京上が遅れた。
美濃と信濃の国境にある神坂峠は標高が高く、厳冬の師走半ばから如月の終わり近くまで荷駄は運べない。正季は峠の行き来ができるようになるのを待って、搬送の遅れを取り戻せるように手配に努めた。
如月に入ると、新たな事務作業が発生する。東信のほとんどの里から種籾を年貢として回収したので、春の種蒔きまでに、種籾を準備して貸し付けを行わなくてはならないためである。
正季は、連日、早朝から暗くなるまで国府に詰めて、手を墨で真っ黒にしながら、貸付台帳になる木簡の記載を行い、出荷の手配に奔走した。
国庫からの種籾の搬出に際しては、自ら指揮した。病魔が潜んでいる可能性が高い東信から回収した籾が、種籾として貸し付ける籾に紛れ込むようなことは絶対に避けなければならないからだ。
上田や諸では、田植え時期は卯月の初旬から中旬であり、種蒔きは穀雨の頃である。
国府から東信への搬送路は、風間家の輿入れ行列がたどった道と同じく、諏訪を経て、和田峠、依田川流域を通り上田へと進むことになる。ただ、この年は春分を過ぎても山にはかなりの雪が降り、残雪が多かった。
米沢兄妹が佐閑に来て二日後、諸の郡代屋敷からの使者が佐閑に来た。用件は、種籾の搬送のために馬を出してほしいとのことであった。
秀柾と重平は、すぐに支度を整え、各々、東雲と風巻に乗り、諸へと向かった。
諸の郡代屋敷には、すでに近くの里の武者が数名と、農馬を曳いた百姓が数名来ていた。皆一緒になって、滋野を経由して長和に向かう。立科を過ぎて小さな峠を越せば長和だが、このあたりから次第に雪景色になってきた。長和からは依田川沿いに菩提寺を目指す。和田峠の東にある菩提寺に着いたころには、あたりは真っ白になっていた。
上田の郡代の配下の菅野紀久が指揮を執っていた。
「諸の方々、雪の中、ご苦労である。当初は、この先、三里の唐沢まで馬で進み、諏訪側から運ばれてくる種籾の俵を受け取り、上田、諸へと運ぶ手筈であったが、この残雪のため難渋しておる。今朝、長和の里の半田殿が、諏訪側の様子を見るために唐沢に向かった」
陽はすでに傾き、あたりはしだいに暗くなりつつある。菅野の説明を聞いて、秀柾は唐沢方面に向かった。
雪の上には半田が通った跡が残っている。次第に深くなる雪の上を一里ほど進むと、峠の方から馬に乗り降りて来る人影があった。秀柾は大声で呼びかけた。
「長和の半田様でしょうか?それがしは佐閑の望月にございます」
「おお、よく来てくれた」
近づいてきた半田の頭や肩、さらに髭には、少し雪がついていた。
「峠の方のご様子はいかがでしょうか?」
二人は菩提寺に戻りながら話をした。
「雪が深い。何も荷を載せないのであれば、馬ならなんとか峠を越せようが、俵を載せた馬は、まず、通れまい」
二人は菩提寺に戻った。
菩提寺の本堂に集まった者たちに、半田が和田峠の状況を説明した。
早速質問が出た。
「雪が融けるまで待たないと荷を運ぶことはかないませぬか?」
菅野が答える。
「そうできればいいのだが、種蒔きの時期が迫っておる。国庫から上田、諸へ運び込まねばならぬ種籾の量は、二百五十石あまりになる。雪が無い平地であれば馬一頭で一石は運べるが、雪が多少融けたとしても、この山道では半分も載せられまい。上田と諸の馬をすべてかき集めても、三十頭たらずであろうから、休まず働いても二十日以上かかる」
「ということは……」
「明日にでも雪が融ければ種蒔きには間に合うが……とにもかくにも、この雪の中、二百五十石の種籾を、あと十日ほどのうちに和田峠を越して長和まで運び込まなければ種蒔きは遅れることになる」
翌朝、日が昇らないうちに秀柾は起き出し、東雲を駆っていったん佐閑に戻った。
橘正季は和田峠の西、諏訪側にいた。諏訪側から昇り始めると、和田峠の手前一里半ほどのところからは残雪がどんどん深くなった。峠の先まで様子を見に行かせた者の報告では、この先はずっと雪が深く、馬の背に乗せての米俵の搬送はできない状況とのことだった。
正季は焦燥感を募らせていた。何としても、あと十日のうちに、二百五十石の籾を、和田峠を越して上田側に運び込まねば、春の種蒔きが遅れる。遅れは、そのまま不作になる可能性が高い。
和田峠を越さない経路を取るなら、諏訪、茅野を経て赤岳の裾野の野辺山を回り、海尻から佐閑に抜けて北上することになるが、五日以上かかるうえに、野辺山付近も残雪が多いことが分かっている。
最後の手段として、人の背で運ぶことを考えてみた。二百五十石は千二百五十俵になる。一人一俵として千二百五十人に二日以上働いてもらわねばならない。人足として、集めることができる人数ではない。
その夜、正季は少し下ったところにある熊野権現社に隣接する寺の宿坊に泊まった。寺の本堂に入りきれなかった国庫から運ばれてきた籾の俵が境内に積まれている。風雨にさらされる前に何とかしなければならない。
正季は、大声で叫び出したい衝動をかろうじて抑え、今、できることはないかを懸命に考えていた。
よく眠れぬ夜を過ごした、翌朝、正季はとにかく状況を把握しようと、再び峠に向かった。雪がある程度締まってきたので、馬で進むことは、幾分やりやすくなった。
峠に着いた。上田側から昇る朝日が眩しい。
ふと気づくと、上田側から峠を目指し馬で昇ってくる者がいる。正季は大声で誰何した。
「そなたらーっ、何者であるかーっ?」
蓑を着て笠をかぶった二人が手を振った。
「たちばなさま―っ!佐閑の秀柾と重平ですーっ!」
二人の乗った馬は、板に枠を載せたようなものを曳いていた。
切羽詰まった正季が和田峠で会ったのは、秀柾と重平だった。




