第六十五話 菜の花
重平とセイは風間家を発ち佐閑に着いた
春分の日の朝、重平とセイは風間家を発った。
風巻に二人の荷物を載せ、諏訪から茅野、小渕、赤岳の裾野の野辺山を経て、海尻に進む。風間家の庭には梅の花が咲いていたが、高原の道は陽射しこそ春だが、芽吹きはまだであり、冬枯れの芒が広がっている。
二人は、海尻から千曲川沿いの道を北に進む。川幅が広がり湖となり、佐閑の里が近づく。二人の耳に懐かしい呼子の音が聞こえてきた。
しばらくすると里の方から馬に乗った武者が速歩で来るのが見えた。馬の足元には、四匹の犬が先を争いながら駆けて来る。犬たちが先に重平のところまでやって来た。再会を喜び、尾を振りながら周りを走り廻る。
秀柾が東雲から降り、二人を迎えた。
「よく来てくれた。疲れたであろう」
重平とセイは跪いた。
「米沢重平、セイ。秀柾様にお仕えすべく参りました。どうかよしなにお願い申し上げます」
「二人とも、そのような挨拶はせんでくれ。若輩者の私のところに、ほんとうによく来てくれた。私こそ、よしなに頼むぞ」
三人はそろって妙泉寺に向かった。
本堂で良真和尚が二人を迎えた。
「二人とも、よう佐閑に戻ってきてくれた。頼もしい限りじゃ」
「我ら、今日から秀柾様にお仕えいたします。どうかよろしくお願いいたします」
和尚は笑みを浮かべ、繰り返しうなずいた。
セイが尋ねた。
「巫女様はいずれかにお出かけでしょうか?」
「呼子の音がしてから、ユイとともに、何やら支度をしに小屋に行ったが……なに、すぐに戻ろう」
いくらもしないうちに、真貴とユイが寺に戻ってきた。手にした大きな平たい笊に、小皿を載せている。
真貴が柔らかく微笑んで二人に言った。
「二人とも、よう来てくれました」
ユイが小皿を皆の前にひとつずつ置き、箸を添えた。小皿の上には半透明の半寸四方の四角く薄く柔らかそうな食べ物が数切れ置かれ、琥珀色のとろりとした汁がかけられ、黄色い粉がまぶしてある。
和尚が真貴に尋ねた。
「これが『葛切り』というものなのかな?」
「ええ、そうです。重平とセイとが来たお祝いに作ってみました。皆で試してみましょう」
皆、用心深くそっと口に運んだ。
セイは口の中に、はかなく、柔らかく、溶けるような舌触りを感じ、穏やかな甘さとどこか懐かしい風味が広がるのが分かった。風間家で侍女をしていた時に、何度か甘味を下賜されたことがあったが、比べ物にならない美味しさである。
びっくりして、顔を上げ周りを見渡したが、兄も秀柾も和尚も驚いている。
和尚が真貴に言った。
「驚いたぞ。わしは京に居った頃、何度か貴人の館で菓子を食べたが、これほどのものは口にしたことがない」
秀柾も驚いている。
「姉上、私には、この旨さを言い表す言葉がございません」
重平はただ目を丸くして、食べ終えた皿を見つめている。
セイは何を言ったらいいのか分からず、真貴とユイを見た。真貴とユイは、少し食べてから顔を見合わせて大きくうなずいた。
真貴が説明した。
「皆さんの評判が良くて、よかったです。これは、村で手に入るものだけで作りました。これから、佐閑の名物として評判を得られ、我々が手に入れたい塩や布と交換できるものにしていきたいと思っています。セイ、手伝ってくださいね」
セイは名前を呼ばれて嬉しかった。
「はい。巫女様のお役に立ちますよう、力を尽くします」
重平が礼をして言った。
「馬の荷を降ろし、水を飲ませて参ります」
セイも礼をして言った。
「私も兄を手伝います」
真貴が秀柾に目配せをした。秀柾が小さくうなずいて言った。
「いや、セイは私と一緒に来てくれ。見てほしいものがある」
「はい……」
秀柾はセイを連れて、寺から里山の方に向かった。セイが昨年秋に佐閑にいたときには、行ったことがない方角だった。
二人は青空の下、ゆったりとした斜面を登っていく。やがて、セイの目には黄色い広がりが見えてきた。近寄っていくと、それは黄色の小さな花をいくつもつけた植物が密生しているところだとわかった。かなり広い範囲にわたり、広がっている。
秀柾が振り返って言った。
「この黄色い花は菜の花というそうだ。姉上が蒔かれたものだ。この花の実からは油が採れると聞いている」
秀柾は菜の花の間に入って行く。セイも秀柾に従って入って行った。そして秀柾は、菜の花の畑を見下ろす所で立ち止まった。セイも横に並んだ。
二人の目の前には黄色い花畑が広がり、そのずっと先には輝く湖が見える。湖の向こうには午後の陽射しの中、八ヶ岳の峰々がそびえ、その頂から中腹あたりは雪を被ったままである。
秀柾がセイに言った。
「私がセイに見て欲しかったのは、この景色だ。私が佐閑で一番美しいと思う風景だ」
セイは眺望に息を呑んだ。
「美しゅうございます……」
「セイ、そなたが私の妻になってくれると聞いて、私はほんとうに嬉しかった。そなたに何かを贈りたいと思ったが、私は何も持っておらん。持っているのは、この里を愛でる気持ちと、明日への希望だけだ。そこで、この気持ちと希望を分かち合いたいと思い、見てほしいものがあると申した」
セイは初めて秀柾の口から自分を妻に迎える喜びの言葉を聞いた。
セイは午後の陽射しに青空にくっきり映える八つの峰々を見ながら答えた。
「私は秀柾様とともに、この景色を目にすることができ、幸せです。風間の殿様が言われていました。『佐閑は希望の地だ 』と」
春の光の中で、八ヶ岳の峰々は静かに二人を見下ろしていた。
「セイ、我が姉、龍神の巫女は、とてつもない知恵と人並外れた武の力を持っている。まるで、こうして仰ぎ見る八つの峰々のようだ。到底、自分があそこまで届くとは思えない……しかし、それでも、我らは二人で、少しずつ賢く、強く、優しくなって参ろう」
「はい。たゆまず、少しずつですね」
菜の花の黄色が、春の光の中で静かに揺れている。
セイがふと気づくと、いつのまにか足に猫が絡んできている。セイは身をかがめ、猫を抱き上げた。秋に佐閑を離れる前の晩に、抱きしめて泣いた猫だった。
「ああ、薄墨、私を覚えていてくれたのね」
セイの手に柔らかい猫の毛の感触と体温が伝わって来た。薄墨が小さな声で、ニーと鳴いた。
セイは佐閑に来れた喜びを噛みしめていた




