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第六十一話 新目代

中原兼経が目代を罷免され、新年から井上満実を目代として信濃国府にやってきた

 信濃国府では、その年の末に京から告示が届いた。年末で中原兼経を罷免し、新年から井上満実を目代とすると書かれていた。


 井上氏は頼季流と呼ばれる源氏の一族で、高井郡井上を本貫としている。高井郡では、いくつかの里が大蜘蛛丸に襲撃され被害を出していた。

 橘正季は、野盗の被害調査や逃散の状況把握など用件で出向いた折、井上満実の顔を見たことはあったが、実務は満実の配下が担っていたため、満実がどういう人物かまでは把握できていなかった。


 国府の新年は、元日節会がんじつのせちえで始まる。


 本来であれば国司が政庁に座し、官人や郡司から新年の挨拶(拝賀)を受け、拝賀宴はいがえんを催すが、国司は京にとどまっているので、目代が代行する。

 新任の井上満実は、国府詰めの官人の中で最も古株の大掾の指導に従い、粛々と儀式を行った。


 新年の儀式は一日で終わり、翌日からは実務が始まる。目代は、前年の秋成までの収税状況のまとめの報告を受け、新年の夏成の徴収予定、秋成の徴収見込み、その他、国府の果たすべき仕事、すなわち年頭の国務を確認する。

 

 概要の説明は大掾が行い、詳細の説明は少掾の正季が行ったが、満実はときおりうなずくだけで、特に質問することはなかった。


 続いての目代の新年の仕事は神事の主催である。国の一之宮に赴き、その年の平安無事を祈る。信濃の一之宮は言うまでもなく諏訪大社である。


 新年五日目、井上満実は国府の主な官人を率いて朝から諏訪大社に向かった。


 年末から厳しい寒さが続いていた。諏訪湖の近くまで来ると、諏訪大社の神職たちが新任の目代を出迎えに来ていた。国府の一行は神職の案内で諏訪湖岸まで来た。諏訪湖には御神渡りが現れていた。一同が下馬し、額ずいたところで神職が祝詞を奏上し祓串はらいぐしを振った。


 国府の一行はそのまま諏訪大社を参った。


 大社で一行を出迎えた武者たちの中央には、風間清光がおり、正季が佐閑の里で見かけた米沢重平も控えていた。


 清光は正季と目が合うと会釈し、重平は深くお辞儀をした。

 

 井上満実は静かだった。必要以外は誰とも話そうとしない。話し声も小さい。席に着くと、提出される書類を淡々と裁可する。席にいないときは、書庫で過去の政務記録や京とのやり取り書簡、触書といった書類を読んでいる。正季は、書庫で、一度、書類のありかを尋ねられて答えたところ、満実は「うむ」と言っただけで、自分で閲覧に行った。

 

 新年に入って二十日ほどが経った。

 正季が新たな書類を書庫に収める作業をしていると、満実が現れ、声をかけられた。

「少掾殿、ちょっとよいか?少し話を聞いておきたいことがある」

「かしこまりました」


 二人は別室に移り、対座した。

 正季は満実の掴みどころのない顔つきが危ないものに思えてきた。


「何をお知りになりたいのでしょうか?」

「なに、たいした話ではない。昨年、京の国司様への上申書を書いたのはそなたか?」

「目代様の指示に従い書きました。大掾様にお確かめいただき、目代様の裁可を得てお送りしました」

「手続のことを訊きたいのではない。文案を起こしたのは、そなたかと尋ねておる」

「私でございます」

「左様か……東信の凶作に際し、年貢として種籾まで集めるという策を出したのもそなたと聞いたが?」

「はい、そうです」


 正季は警戒を高めた。


「見事な献策であったな」

「いえ……窮余の策にございます」

「うむ」


 満実が右眉だけを少し上げた。


「そなた、龍神の巫女を存じておるか?」


 正季の警戒感は急速に高くなった。


「存じております。いまや信濃では評判の巫女殿です」

「その評判は、わしも知っておる。たちどころに病を癒す、死にかけた者を蘇らす、とかな。しかし、わしが訊いておるのは、そなたは龍神の巫女と言葉を交わしたことがあるのかということだ」

「……ございます。昨年の夏越の流民による襲撃の際に、生島足島神社にお出でだった巫女殿とともに、現場に参りました」

「そうであったか。巫女殿は馬に乗り、太刀を振るって、賊を倒したのか?」

「いえ、我らが着いた時には、賊は去っていました。巫女殿は傷ついた者を助けておられました」

「そうか……」


「龍神の巫女が、何か気になりますか?」

「少しばかりな」

「といいますと?」

「昨年、年貢として種籾まで集めるという触書を国府が出した。それからいくらもしないうちに、龍神の巫女が生島足島神社で『死穢のついた籾を一粒残らずこの地から運び出せ』と神託を告げた。しかも、そのあとすぐに京の国司様に解状が出された。まるで、誰かが書いた筋書きのように事が運んだ」


 正季は思った。『この男は危険だ』。


 満実は立ち上がりながら、口元だけ緩めて言った。

「まあ、国府としては好都合であったし、解状で年貢の代納が夏成まで先送りされ、民心も落ち着いた。すべて上手くいったのだから言うことは無いのだがな」




井上満実は頭の切れる男だった 正季は警戒を高めた

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