第五十九話 嫁ぎ先
風間家に戻った重平とセイはつらい日々を過ごしていた
重平とセイは立冬を前に諏訪の風間家に戻った。
風間家内で、重平は国興配下の武者、セイは国興の娘の侍女だったが、国興が出家し、娘が亡くなったため、二人の位置づけが変わった。重平は国興の息子、時興の配下になり、セイは国興の側女の侍女となった。
時興は右足と左腕が不自由になった。顔にも鼻を折られた歪みが残った。時興は人前に出なくなった。部屋に籠り、時折、大声をあげて暴れるかと思うと、食事もとらず臥せっている。
国興の側女は三十路半ばの派手な女だったが、国興が屋敷を去った後は、一日中不機嫌な顔をして、座っているだけである。
国興がいなくなったために、風間家中で重平とセイに、ことさら距離を置く者はいなくなったが、重平とセイは、気持ちが塞ぎがちだった。
小雪が近づくと、諏訪も寒さが厳しくなる。その夜、セイは、女主の膳を膳部へと引いた後、戻ろうとしていた。
薄暗くなった回廊を進んでいると、遣戸が開き、人影が現れた。時興だった。セイはその場に跪き、時興が通り過ぎるのを待とうとした。しかし時興はセイに近づいてきた。いきなり左腕を強く掴まれた。
「来い」
時興が低い声で言った。
セイは掴まれた手を振りほどこうとした。再び時興が、やや大きな声を出した。
「来ぬか!」
セイは時興の顔を見た。薄暗くとも、時興が下品な笑いを浮かべているのが分かった。セイは手を振りほどこうとしながら、低い声で言った。
「おやめください」
時興は手を放そうとしない。セイは声を高めて繰り返した。
「おやめください!」
なおも時興は手を放さない。セイの心の中のタガが外れた。こんな者のために命を削って来たのかという怒りが噴き出した。大きな声が出た。
「だれか—っ、お助けを—っ!」
時興が声に驚き、目を剥いて、手を放した。
重平を先頭に、ばらばらと武者が駆けつけてきた。
「何でもない!」
時興は武者たちに叫び、遣戸の中に消えた。重平も武者たちも、何があったのかすぐに分かった。
重平がセイの傍らに膝をついた。
「大事ないか?」
セイは少し震えながらうなずいた。
人の口には戸が立てられない。邸内で起きたことは、すぐに知れ渡る。
数日後、セイは当主清継の妻、静子に呼び出された。
自分には落ち度はないと思ってはいたが、セイは不安で押しつぶされそうだった。身を小さくして待っていると、静子が部屋に入って来た。セイは深く頭を下げた。
静子の落ち着いた声がした。
「セイ、顔をあげなさい」
セイが顔を起こすと、静子が悲しそうな顔つきで座っていた。
「話を聞きました。時興が……済まぬことをしました」
セイは黙って、小さく頭を下げた。静子は、しばらく黙っていた。
セイが顔を上げると、静子は少し首を傾げ、セイに尋ねた。
「セイ、そなたもよい年になりました。嫁ぐことを、考えませぬか?私は、幾人か、そなたに相応しいと思える殿方が思い当たります」
セイは、突然の話に驚き、うろたえた。次の瞬間に、心に、秀柾の姿が浮かんだ。
セイはうつむいたまま、両手で膝を掴んだ。涙が、ぽろぽろと膝に落ちた。
その様子を見ていた静子が、ややあって言った。
「セイ、そなた、もしや、どなたか、心に懸かる殿御がいるのですか?」
セイはうつむいたまま、ただ、涙を落とし続けた。
セイは、その夜、武者長屋に兄の重平に会いに行った。重平はセイが来るのを予期していたようだった。
「兄様……すぐにでも、佐閑の里に行きとうございます」
「何かひどいことでも言われたのか?」
「いえ、大奥様に呼ばれ参りましたところ、先日のことを詫びられました。そして……」
「そして?」
「嫁ぐことを、考えませぬかと言われました」
「……」
「兄様、私は、私は……」
セイが顔を伏せて泣き出した。重平はセイの思いが分かった。
大雪が近づいたころ、セイは兄の重平とともに静子に呼ばれた。兄もともに呼ばれたということは、いよいよ具体的な嫁ぎ先について示されるのであろうと思われた。
二人が呼び出された部屋で待っていると、引き戸が開いた。二人が顔を伏せていると、静子に続き、もう一人部屋に入ってきたのが分かった。
静子の声がした。
「二人とも、顔をあげなさい」
二人が恐る恐る顔を上げると、正面に座っていたのは清光で、静子がその横に座っていた。
静子が話をはじめた。
「セイ、重平。先日、少し話しましたが、セイの嫁ぎ先の話です。清光とも相談しました」
「恐れながら申し上げます!」
突然、重平が静子の話を遮るように大きな声を出した。セイは驚いて、兄を見た。重平は顔を伏せたまま、言葉を続けた。
「我が妹、セイにお暇をいただけるよう、伏してお願いいたします」
清光の声がした。
「ほう、それは、どうしてじゃ?」
重平は、顔を伏せたまま続ける。
「セイは……セイは佐閑の里に参らせとう存じます。ふ、ふつつか者ゆえ、佐閑の里の巫女様のもとで、再度、修行を積ませとうございます」
清光がセイを見て言った。
「セイはどうじゃ?」
セイは慌てて顔を伏せて答えた。
「兄の申す通りにございます。巫女様のもとでの修行をお許しください」
清光の声がした。
「修行か……。母上、困りましたなあ」
静子の声もした。
「困りましたねえ」
ただ、言葉は「困った」と言いながら、その響きは少しも深刻さが無かった。
静子が穏やかに続けた。
「二人とも、よくお聞きなさい。私は清光と相談し、すべて合点が行きました。私が、今、セイの嫁ぎ先にと考えているのは、佐閑の里の望月秀柾殿です」
セイが驚いて顔を上げると、静子が微笑んでいた。清光も、微笑みながら、小さくうなずいた。
重平も顔を起こしたが、呆然とし、言葉が出なかった。
清光が続けた。
「母から、先日、セイに嫁ぎ先の話をした時の様子を聞いた。わしは色恋には疎いが、そなたらがしばらく佐閑で過ごしたこと、秀柾殿の好ましき人柄を考えれば、セイの思いがどこにあるのか、さすがに分かる。違うか?」
セイは真っ赤になって顔を伏せた。
「ただなあ、そうすぐにはセイを嫁がせるわけにはいかん」
セイ、重平は急に不安になった。
清光が話を続ける。
「この年の瀬の寒い時期に、いきなり嫁いで参りましたと押しかけることはできまい。まだ皆には話していないが、お館様は、この年の瀬に隠居される。新年からは、わしが当主になる。そこで、まず、わしが秀柾殿に書状を書く。当家のセイを嫁がせたい、とな」
二人は清光の話に聞き入った。
「それと、わしは、セイを秀柾に嫁がせるには、ひとつ足らないものがあると思っている。秀柾殿には、支えとなる郎党がまだおらん。この先、巫女様、秀柾殿、セイ、そして佐閑の里を守るにあたり、命を懸けて、秀柾殿を助ける者が要る」
重平は清光の目が自分に注がれていることに気付き、身が震えた。
「米沢重平、そなた、望月秀柾殿の郎党になる覚悟はあるか?」
重平は清光の目を見て答えた。
「覚悟いたします。喜んで郎党になります。命を懸けて守ります」
「では、それも書状に記そう」
静子が言った。
「お館様が退かれる話は、まだ、皆には黙っておいてください。あなたたち二人は、これまでほんとうに命がけで風間家に尽くしてくれました。二人を送り出すにあたっては、いろいろ支度を整えようと思います。新年の如月の初め頃、使者を送るとして、春分の頃に送り出すことになりましょうぞ」
セイと重平は武者長屋に戻った。二人とも、あまりの展開に、しばらく言葉が出なかった。ひとごこちついたところで、セイが静かに涙を流しはじめた。重平は、ただ黙って、妹の嬉しそうな顔を眺めていた。
佐閑への嫁入りを提案されたセイは嬉しさに涙が止まらなかった




