深淵③
ユリは少年の怒りを優しくいなすと、そのまましゃがんで視線を合わせる。
「ねぇ、名前は?」
少年は一瞬、口をつぐんだままこちらを見つめ返してくる。しばらくして、ポツリと答えた。
「……ホタフーキ」
「……ホタ……?」
不思議な響きに、タツヤが眉をひそめる。
「ホタフーキ……? 聞いたことのない名前だな。現代人って、こういうネーミングが普通なのか?」
隣のナツキが肩をすくめる。
「ダストハイブじゃ“タケシ”とか“ワタナベ”とか、割と普通の名前のやつもいたぞ。多分、この街のローカル文化ってやつだろ。そういう部族みてぇなもんだ、多分」
「ホタフーキくん、か……」
ユリは微笑を浮かべながら名を繰り返し、そしてそっと問いかける。
「お父さんやお母さんは?」
その言葉に、少年は首をブンブンと振った。
「母さんは……分からない。でも、父さんは一緒に暮らしてる。僕や街のみんなに“闘う技術”や“人が生きる意味”を教えてくれるんだ。父さんはすげーんだぞ!」
どこか誇らしげなその言葉に、ユリもタツヤも自然と耳を傾けていた。
「それと……今は“アニキ”って呼んでる、“同じ時代の兄ちゃん”と一緒に暮らしてる!」
「同じ時代……?」
その一言に、タツヤの眉がピクリと動く。
“同じ時代”という言葉。それは、"旧世代人"がしばしば背負わされる重たい断絶を表すかのような単語だった。
「ホタフーキくん……君は、“旧世代人”なの?」
ユリが静かに問いかけると、少年は一瞬、沈黙する。
その目はどこか、迷子のように揺れていた。
「……俺はその、“旧世代”だか“旧時代”っての、よくわかんねぇんだ。何も覚えてねぇし……気がついたら、父さんが助けてくれて、“今日からお前は家族だ”って言ってくれた」
タツヤは目を伏せる。
過去を持たない子供。誰に生まれ、どこで捨てられ、なぜ今ここにいるのか分からない。だが彼は今、このスラムで“ホタフーキ”として、確かに生きている。
「そうか……君は、ここで育ったんだね」
「そうだよ!」
ホタフーキは胸を張る。
「だから、この街を守るのは俺の仕事なんだ!」




