64. 初めての宿
ʄʄʄ
「アルト……」
思い詰めた表情をされて咄嗟に身構えた。
何を言われるのだろう、と思った。
「……わたしお金があまり残ってなくて……」
「――――――――――――えっ」
五階建ての宿の前で向かい合っていた。
近辺で最大のこの街に、わたしは何度か滞在したことがある。宿の候補をいくつか挙げられる程度には土地勘があり、悩んだ末に一番信頼のおける宿を選んだ。街の中でも上位に入る宿ではあったが、まさかリスタは宿代の心配をしているのか。
わたしを追うために財産を使い果たしてしまったリスタに宿代を出させようなんて思っていない。
「リスタ……わたし達は夫婦ですよね?」
確認するように言うとリスタは少し驚いた表情をして、それからおずおずと頷いた。
初めてその言葉を口にした自分自身も叫びたいくらいに動揺したが、平静を装い続ける。
「――――――わたしが払います」
するとリスタはやや逡巡した後にひどく小さい声を出した。
「―――――――――――――――でも、ここ、高いのでは……」
「大丈夫です」
きっぱりと言い切る。有無を言わせぬものがあったのかもしれない。曖昧に頷いたリスタは納得したと言うより気圧された雰囲気だった。
平民の出だったと言うリスタが委縮してしまうかもしれないと、宿を選ぶ時正直少し迷った。この五百年で庶民の暮らしぶりもかなり向上しているのだが、リスタはその変化を経験していないのだ。
迷った末にこの宿を選んだのは、半分はわたしの身勝手だ。
初めて二人で過ごす場所だ。それなりの場所にしたかった。
ただ宿に入る前に、もう一つ確認しなければならないことがある。今度は緊張した。
「――――――――――――体調がよくなるまで付き添いたいのですが」
誤解を与えないように先ずそう言った。
「わたし達は夫婦と言うことでいいんでしょうか――――――――――」
先刻と同じ質問をゆっくりと繰り返す。
リスタは一端戸惑い顔をしたが直後にはっとして、それから見た目にも分かるくらいに動揺した。
だがそれも数瞬で、彼女は次にはなぜか唇を引き結ぶようにしてぐっと頷いた。深く。
えっ?
今の覚悟しているかのような表情は一体?
体が弱っているリスタにそんなことをするつもりはないのだが?
自分も今は体力の限界に近いしとか色々なことが嵐のように頭を過ったが、最後には全て黙殺してわたしも頷き返した。
ʄ
ロビーのソファにリスタを座らせて、受付の大きな白いカウンターに向かう。
格式の高い宿になると身なりで客を門前払いすることもあるので、それも宿選びに迷った理由だった。服なら買ってもいいのだが、今は買い物よりもリスタを休ませることが優先だ。
この宿にしたのは、客が富裕層に見えなくても即座に無礼な態度を取ったりしないと知っていたからだ。代わりに通常より多めに前払いを求められたがそれは予想通りだったし、その方が都合がよかった。
「部屋に食事を運んでほしい」と告げて、部屋代と食事代に色を付けて金貨を支払うと、あっさりと最上クラスの部屋を用意してくれた。
街なかと言うこともあったが、宿の入り口で呼び止められることを避けたくて、リスタを一時的に降ろしていた。待たせていたリスタを再び抱き上げようとすると「歩けます」と言われて、そこから二階の部屋までリスタは実際に危なげのない足取りで歩いた。
ʄ
宿の入り口の両脇に、扉の開閉をするためだけの男性達がいた。
恭しく扉を開けられて、その時点で気後れしてしまう。
中に入ると小さな家なら数軒建てられるだろう巨大な空間が広がっていて息を呑んだ。優美に弧を描く大階段や浮彫りのある白い柱で飾られた場所はまるでお城だった。
アルトは平然としていてその姿は違和感なく馴染んでいたけれど、わたしはどう見ても場違いだわ。
でもここまで場違いだとアルトの女中に見えて逆に自然かもしれない、なんて変な形で落ち着きかけていたのに、美術品のような瑠璃色のソファの前で、アルトに優しく「座っていて下さい」と言われてしまった。
「―――――――――――――」
これに座ったら「女中の設定」が崩れてしまいそうなのだけど。アルトは本気なのかしら。
結局おずおずと座った。
アルトの家のソファもそうだったけれど、あまりに座り心地がよくてびっくりする。でもその分だけ居心地が悪い。
夫婦……
今更怖くなり、膝の上でスカートを握り込んだ。
アルトの家でも怖いと思った。
あの時の経験がなければ、住む世界の違いが恐ろしくなって逃げ出していたかもしれない。
わたしはなんとか逃げずにいられた。
アルトを待つ間、自分の髪と手を見て、頬に触れた。肌の真珠のような輝きに、本当に若返ったのだとどきどきした。
街道に倒れた時はもう助からないと思ったのに――――――――――。
疲労感はまだ微かにある。でも若返る前とは違って、疲れていても生命の火が体内に力強く灯っているのを感じた。
戻って来たアルトはまたわたしを抱き上げようとしてくれたけど、歩けると思ったので遠慮した。
アルトに付いて来て荷物を持って下さった男性は、場違いな身なりのわたしにもとても丁寧に接して下さった。そんな風にされると、「女中の設定」で行こうと思っていたわたしはどんな顔をしていいのか分からない。一体わたしはなんだと思われているのかしら……。
部屋まで案内して下さったその男性が両開きの扉を開けると、横を歩いていたアルトが足を止め、またわたしを優しく促した。
わたしが先に通るのね……
もう「女中の設定」は諦めて扉を潜る。
「……!」
一歩中に入って目を瞠った。
眩い白い部屋。大きなテラス窓が正面に三つ並んでいた。シャンデリアに暖炉まであり、豪奢としか言いようがない。白いソファセットの奥にあるベッドには天蓋が付いている。
――――――――――そしてベッドの横の壁面に鏡が埋め込まれていた。
案内の方が部屋を出て行くまでわたしはその場に固まっていた。
「リスタ……」
わたしの視線の先を追い、アルトは察した。動けずにいたわたしに手を差し出してくれる。
「……」
その手の上に右手を重ねる。指先をきゅっと握り、そうしてやっと足を踏み出した。
鏡が近年、一般的な家庭にも手が届く値段になったと言うことだけは知っている。でも今でも安い物ではないので、全身が映せるこんなに大きな鏡があるのは凄いことなのだと思う。
予期していない状況だったので余計に緊張してしまう。
自分の若い頃の顔をわたしはもうあまり覚えていない。
その場所にゆっくりと近付き、鏡の中に若い娘の姿を見た時、声が出なかった。
これが本当にわたし………?
まるで他人を見ているようで、自分でも綺麗だと思ってしまった。無意識にアルトの指を強く握る。すると鏡の中の女性も同じようにしたので、本当に自分なのだと思った。
数秒、まじまじと自分を見つめた。
綺麗だった。でもしばらく眺めていると少し悲しくなった。せめて魔法図書館の制服だったらまだアルトに相応しく見えたのに。五百年前の老女の服は、やっぱりこの場所にそぐわなかった。
「――――――そのままでも綺麗ですが」
ふいにアルトが言う。
「若い女性の格好ではないと思うので、明日体調が良ければ服を買いに行きませんか」
優しく言ってくれたひとを見上げる。
「…………でも」
「……わたし達は夫婦ですよね?」
それから運ばれてきた食事を摂って少しの間体を休めて、わたし達が色々なことを話し合えたのは日が暮れ始めてからだった。
読んで下さった方本当にありがとうございます!
今作は次回かその次で完結予定です!行けそうだったら明日続きを投稿します。
よろしければ下の☆☆☆☆☆を押して頂いたりブックマークして頂けたりすると物凄く嬉しいです!




