45. からくり小箱
真っ白な水の粒子以外何も見えなくなり、魔法の鎧を纏わない体に冷気が直接触れる。だがほんの数秒のことだった。
突然視界が晴れた時には目の前に何かが迫っていた。
「……!」
ベキベキベキッ!!
咄嗟に空気の塊をぶつけると、障害物は激しい音を立てて砕けた。だがすぐ後ろにまた次の障害物が現れる。
木……?!
行く手にたくさんの木があるのだと分かっても、勢いが付いていたためすぐには止まれなかった。自分の体で枝を砕きながら数秒進み、高度を下げようとしてバランスを崩して落下する。
「…………!!」
背中で受け身を取った。服に掛けた強化魔法のお蔭で衝撃はそれ程でもなかったが、折れた枝が今度は大量に降り注いだ。やはり空圧でそれを払う。
森……?罠を突破した……?
先刻までとは違う場所にいると頭上に拡がる緑を見て思った。重なり合う葉の隙間から白い空が見える。
「合格」と言うことか。
だがまだ魔道具に辿り着いていない。
辺りを見回しながらふらつく足で立ち上がった。息が荒い。地面にボタボタと血が落ちた。どちらを向いても木立だったが、自分が来た方向にだけは霧が出ていた。木々は少し先で白く霞んでおり、その奥はもう真っ白で何も見えない。
「………」
しばらく警戒したが、その霧の中に光が生じることはなかった。
突破したのだ。
「――――――――――――」
魔道具の気配は背中に感じる。
保護魔法で自分を包んで振り返った。足にも腹にも穴が開いていたが構わずに、草に覆われた地面を歩き出した。
出血は少しずつ落ち着き出してはいたが、まだ止まらない。自分が歩いた跡が点々と赤く染まる。傷が深いせいで治りが遅かった。変な話だが、わたしはこの時自分に治癒魔法を掛けることを思い付かなかった。
本当なら死んでいた筈の怪我を幾度もしてきたせいで、わたしは怪我や痛みに鈍感になり過ぎているのだと思う。
もっとも思い付いていたとしても、多分治癒魔法は掛けられなかっただろう。帝国魔法使いにとっては基礎中の基礎魔法である保護魔法を維持することさえ精一杯なくらいに消耗していた。
魔道具までそれ程遠くない。歩ける、としか思っていなかった。ただ無意識に左胸に手を当てて握り締めていた。
まるで本物の森の中にいるようだった。森閑と深い場所に木漏れ日が落ちて美しい。だが生き物の気配はなく、鳥の声一つ聞こえなかった。それでも完全な静寂ではなかった。何かの音が微かにしている。
水音……?
霧の東屋で聞こえた水音より更に微かだったが、また水音のようなものが聞こえている。
その正体はすぐに分かった。
ふいに木立が途切れる。小さな川が流れていた。そして向こう岸に、それは佇んでいた。
小さな白い東屋。霧の東屋よりもまだ小さい。円柱が丸屋根を支えているのは同じだったが、これまでと違って建物の左半分程に壁がある。だがそれ以上に、その東屋にはこれまでとは異なる部分があった。
建物の右側の屋根や柱が一部崩落しているのだ。
若木が瓦礫と東屋を抱き込むようにして根を張っており、その姿は遺跡めいていた。
静謐で美しい光景だった。木々の葉を通過する光が世界を淡く緑色にけぶらせている。橋はなく、代わりに飛び石がこちらの岸と東屋を繋いでいた。
あそこだ――――――――――。あの中に魔道具の気配がある。
宙を飛ぶ余力がなかった。ふらふらと岸まで歩く。そのまま飛び石を渡ろうとして踏み出し掛けた。
「――――――――――――――――――」
寸前で、微かな魔力に気が付いた。空中で足を止める。体力の限界まで追い込まれていたせいで、感情が半ば麻痺していたのだと思う。あまりの意地の悪さに、思わずふっ、と笑ってしまった。
光魔法だった。
飛び石の位置がずれて見えていた。気付かずに足を踏み出したていたら何が起こっていたのだろう。史上最強の魔法使いのやり方を知りたい気持ちはあったが、わざわざ罠に掛かる危険は冒せないし、そんな余裕もない。
気力を振り絞って光の歪みを修正し、飛び石の位置を見極めた。
実際の飛び石は少しだけ右―――上流寄りにあった。足を引き摺るように数歩だけ移動して、改めて歩を踏み出す。ここに見る者はいないが、傍目には水上を歩いているように見えるだろう。
血が落ちる音がそこが水面でないことを知らせている。わたしが歩いた跡を示すかのように白い石にぽつぽつと血が落ちた。足も射抜かれていたため、跳ねるように歩かなければならない「橋」はきつかった。
だが僅かな距離だ。他に罠はなかった。遂に対岸へと渡り切る。遺跡のような東屋は、渡った場所のすぐ左に建っていた。
建屋右側の壁のない場所から中を覗いた。柱は五本しかなかった。半分壁に覆われているせいで少しだけ薄暗い。ここまでに獲得してきた魔道具は建物の中央の台座に置かれていることが多かったのだが、この東屋の真ん中には何もなかった。
魔道具を探して視線を巡らせる。
それが目に入った時、心臓がどくりと打った。
三枚の壁の真ん中の一枚。その中央に、浮彫りで飾られた小さな掘り込みが見える。そこに置かれていた物―――――――――――――木製の小箱。
「――――――――――――!」
東屋を囲む三段の石段を駆け上がっていた。
「……!」
中に飛び込む直前で反転し、段上から転がり落ちかける。
自分に腹が立ち、叫んでいた。
最後まで気を抜いてはならないと何度も自分を戒めていたのに!
胸許をまた握り締めた。やっと鎮まりかけていた呼吸が荒くなり、全身から汗が噴き出す。
「扉」と光魔法が仕掛けられていた。実際に壁があるのは東屋の右側だ。しかもその壁に空間転移の扉が仕掛けられている。
この迷宮で目指しているたった二つの魔道具。
その内の一つを目前にしてどこかに転移させられるところだった。
落ち着け!気を抜くな!
胸が激しく打ち続けていた。数回深呼吸をしてから前屈みになっていた体を起こし、円の縁を半周した。
光を調整すると、壁の位置が建物の左右で入れ替わる。
本当の入口の前で、全神経を集中して他に罠がないかを探る。
一歩一歩、踏み締めるように階段を上がった。
鼓動が治まらない。痛い程だった。三段を上りきり、中を見据える。そしてゆっくりと、建屋の中に踏み入った。
朽ちかけた建物の中に設えられた、ささやかな祭壇のような掘り込み。鍵が差し込まれたままの小箱がそこに置かれていた。
本当に小さな、両手にすっぽりと収まる大きさの木の箱。
天面の真ん中と四隅に真鍮細工があしらわれているだけだった。レベルゼの魔道具とは思えないくらい簡素な木箱は、忘れ去られているかのようにひっそりと置かれていた。
慎重に両手を伸ばす。だがその手が震えた。
震えを抑えようとして呼吸を止める。
限界まで神経を張り詰めながら、小さな箱をそっと手に取った。
「――――――――――――――――――――――」
『人に若返りをもたらすからくり小箱―――――――――』
頭の中に古代の言葉が流れ込んで来る。
体から力が抜けて壁に背を付いた。胸に小箱を抱き締め、そのままずるずると崩れ落ちる。
胸ポケットがその時、温かくなった。その現象がなんなのかはもう考えなかった。
リスタ―――――――――――――――――………!
リスタを抱き締めているように感じた。
それからしばらく、そこから動けなかった。
ʄʄʄ
「アルト―――――――――――――――?」
薄暗い馬車の中で思わず呟いていた。自分の右腕にそっと左手を添える。いる筈がないと分かっているのに周囲を見回した。
どうしてだろう。
アルトに抱き締められている気がした。




