35. 扉の罠
六百年近い月日が流れると、親の顔もよく思い出せないくらい記憶は薄れる。だが胸の奥深くに刻まれた感情はまだ時折生々しく傷口を開いた。
あの時石畳に座り込んでいた仲間の顔立ちまでは明瞭に思い返せなくても、その顔に宿っていた虚無は今も苦しいくらいに胸に迫る。
「………」
冷静を保たなければいけないと分かっているのに、沸き上がる怒りと憎悪が内側から体を圧するのを抑えられない。
吞まれるな。
丘の麓に立ち、もう一度深呼吸を繰り返してから「夜の神殿」を見上げた。
そこに魔道具の気配がある。あの時わたし達が「あと少しの距離まで近付けた」唯一の魔道具だ。
丘を一周する石段が足元からその場所まで同心円を描いて繋がっていた。
「――――――――――――――」
多分石段に足を掛けた時が「試験」の始まりだ。この「試験」には時間制限がある。
五百六十年前より遥かに早く突破出来る筈だが、前回と全く同じようには進行しないと分かってしまった今、安心はない。
一度丘の周りを歩いて回り、それから宙に上がって上から神殿を見降ろしてみた。
罠に変化はない。五百六十年前と同じだ。
結局、覚悟を決めて地上に戻った。
石段を登らなければあの魔道具には辿り着けない。「夜の神殿」に上空から降りることは出来ないと分かっていた。
気持ちを鎮める。
そして一歩目を踏み出した―――――――――――「試験開始」だ。
§
さあぁぁぁっ………
風が頬を撫でた。
宙に浮かぶ灯に照らし出される灰色の「神殿」。
そこに初めて魔道具の気配を感じて、皆息を呑み立ち尽くした。
失われていた隊員達の表情と感情が微かに揺らいだのを感じたが、誰も動かなかった。どうするべきなのか皆判断に迷ったのだ。「魔道具の獲得ではなく迷宮からの脱出を目指そう」と決めた直後だったからだ。
ここに辿り着く前に仕掛けられた幻影魔法で更に仲間を失い、部隊は既に出発時の三分の一にまで人数を減らしていた。
幻影魔法は、仕掛けた魔法使いがどんなに強力でもそれが幻影だと気付けさえすれば破れる可能性がある一方で、一度深く掛かってしまうと術者の程度が低くても簡単には抜け出せない特性を持っている。
最初の広間で、落ちて来る巨大な質量から逃げるために扉の一つに逃げ込んだ。その直後に仕掛けられた幻影魔法にわたし達は心の用意がなかった。幻影を退けることが出来たのはわたしを含めて数名だけだった。隊員のほとんどは手もなく幻影に落ちてしまった。
古代の邸宅の広間のような場所。仕掛けられていると気付いた時にはもう遅かった。
最初に一人が炎で空間を埋めた。
逃げ場のない閉じられた場所で起きた、帝国最強クラスの魔法使い同士の殺し合い。
炎が渦を巻き、氷の矢が四方から襲い掛かり、空気の塊が人間を吹き飛ばした。
正気を保っていた数人で「幻影だ」とどんなに叫んでも無駄だった。そのたったの数人で、「深刻な怪我を負わせずに」帝国魔法使いを無力化するのは至難の業だ。かと言って退路もない。
あのまま全滅してもおかしくない状況だった。
部隊の三分の一だけでも生き残ることが出来たのは、多くの隊員を失った後、唐突に幻影が解除されたからだ。
時間で決まっていたのか、犠牲者あるいは生存者の人数で決まっていたのか、魔法が解除された理由は分からない。
とにかくわたし達は全滅を免れた。だがそれをよかったと思うことも出来ない。
あんなに残酷な瞬間はなかったと思う。
魔法と叫び声が段々と小さくなり、視界を遮っていた粉塵が落ちて行き、やがてどちらも静かになった。
「え…………?」
強張った声と愕然とした表情。
「あ………あ、あぁ………」
幻影の中にいた者達はその惨状が自分達の仕業であることを、ゆっくりと理解した。
「あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!!」
破壊し尽くされた部屋の中で魔法から解放された者達は崩れ折れ、狂ったように泣き叫んだ。
彼らの絶望を救える言葉などなかった。
レベルゼの迷宮を制圧するために編成された部隊には、多くの反対の声を押し切り女性も投入されていた。
男女で魔力に差はないが、ほとんどの国で危険な任務に女性を就けることは避けられて来た。衝撃に耐えなければいけなかったり瞬発力が求められたり、魔法を用いた戦いであっても物理的な力が必要な場面は想像以上に多いからだ。
部隊に女性がいたことは悲劇を大きくした。
魔力の量はほぼ血筋で決まっていたため、強力な魔法使い同士は関係が近いことが多かった。結果として兄弟姉妹や婚約者同士、恋人同士が隊の中には何組もいたのだ。
死者のほぼ全員が生き残った誰かの大切な存在だった。
それだけでも受け止めきれないことだったのに、遺体の損傷の激しさも生き残ってしまった者達を更に打ちのめした。遺体の半数は外観で個人を特定出来ず、あまりに惨い状態だった。
生き残った者達も無傷ではなく、中には重傷者もいた。
古代の魔法使いの中には人体の欠損ヵ所さえ再生する者がいたと言われているが、一体どうしたらそんなことが出来たのか今も分からない。
治癒魔法で傷口を塞ぐことは出来ても、失った手足や目はどうしてやることも出来なかった。
人間の感情には限界があるのだと思う。
それから数時間が経つと、わたし達はただ機械のように淡々と動いていた。何かを感じたり考えたりすると狂ってしまいそうだったからだ。
そこに留まっていても全員餓死するだけだった。
全員で閉ざされた部屋からの脱出口を探した。
一定以上の魔力がなければ見ることも触れることも出来ないその「扉」を見付けたのはわたしだった。
迷宮にしか存在しないその特殊な「扉」には、実体がない。わたしにも床の上の陽炎のような揺らぎが、意識を集中してなんとか見えただけだ。レベルゼが求めるだけの魔力を注がなければ通ることが出来ず、体を擦り抜けてしまう「扉」は、ほとんどの人間にとっては存在していないも同じだ。それを視認出来た者はわたし以外にはいなかった。
もしわたしにすら見えなかったら出口のない空間に全員閉じ込められていたのだと思った時、ぞっとした。
そしてその「扉」を通って、わたし達はそこに立っていた。
仲間の遺体は全てその部屋に安置して来た。生存者より多く、損傷の激しい遺体を抱えて進むのは、魔法を使ってさえ困難と判断せざるを得なかった。
数秒の間、全員声もなくただ立ち尽くしていた。
こんな状況なのに、宙に浮かぶ灯と星空に抱かれている神殿を美しいと感じて、そんな自分の感性が恐ろしかった。
と。
ふいに大隊長が動いた。
部隊の総指揮官であった大隊長は50代の男性で、魔力と経験の多さを買われてその任に就いた人だった。人望も厚い方で、わたしだけではなく隊員達にも慕われていた。
何も出来ない内に部隊の三分の二が失われ、あの時大隊長はどんな思いでいたのだろう。あまりにやるせなかったのかもしれない。
その行動は不用意だったとは思う。だが批判など出来ない。
丘の頂上を睨み付けながら進み出て、大隊長は石段に足を掛けた。
次の瞬間。大隊長の姿がそこから消えた。
「大隊長!!」
その場所へ駆け寄った隊員に「待て」と叫んだが間に合わなかった。そして彼の姿も一瞬で失われた。
「―――――――――――――――!」
それ以上の絶望などないと思っていたのに。
数名がその場に座り込んだ。
また仲間を失ったが、喪失の意味合いがそれまでと違った。
起きたことを理解したわたしは、意識を集中して急いで丘を見直した。
「扉」だった。
丘全体が陽炎に包まれていた。




