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31. 魔女と宿

ʄʄʄ


「顔色が悪い」


多分そんなことを言われたのだと思う。

かつて大陸の共通語だったグランタイル帝国語がまだわずかな残滓ざんしを留めているお蔭で、大陸ではどこへ行ってもある程度は言葉が通じた。


夕暮れに乗合馬車が着いた場所には大勢の客引きが待ち構えていた。こちらの意思など無視するような強引な客引きをされたけれど、なんとか一人と料金で合意して、宿まで案内されて来たところだった。


高い期待を持ってはいなかったけど、細い路地に面した宿は、壁も扉も長いこと古びるままにされているようで、どんよりと薄汚れていた。


安全を考えて最安の宿は選ばなかったのに、こんな所になってしまうのね、と思う。


伝手つても予備知識もない場所を女一人で旅するのは、昔も今もやっぱり怖いものだった。


その地の物価が分からないし、荷物を強引に奪って自分の宿に連れて行こうとする客引きもいた。

荷を奪われずに済んだのは客引き同士で喧嘩になったからで、自分の力だけではどうすることも出来なかったと思う。


「大丈夫?」


今度は多分、そう訊かれた。宿で倒れられでもしたら困る、と思われているのかもしれない。受付けのカウンターには、顔立ちも表情も厳しい中年の女性がいた。


年寄りは懸念される存在ではある。汽車にも乗合馬車にも大勢の旅客がいたけれど、老女一人の旅人なんてわたし以外にいなかった。


表情を硬くしてうなずくと向こうも頷いたので、一応会話は成り立っているようだ。


疑わし気に一瞥いちべつされるも追い返されはしなかったので、冷淡な人ではないのだと思う。もしかしたら階段を上らなくていいように気遣ってくれたのかもしれない。彼女が渡してくれたのは、一階の部屋の鍵だった。


ʄ


扉を開けた時、ちょっとだけ口元を抑えた。


壁も床も汚れており、小さな部屋はお世辞にも清潔とは言えなかった。ベッドも微かにかび臭い。


老女の一人旅の難しさを突き付けられているようで、なんだかどっと疲れてしまった。体中の力が抜けて、染みが付いたベッドにどさりと座り込む。



あれはなんだったの――――――――――――?



汽車を降りた時に胸に感じた衝撃が頭から離れない。座るとそれ以外に考えることがなくなってしまい、鼓動が速くなった。



アルト………どこにいるの?



左手で胸を抑える。


もしかしてもう迷宮に着いてしまったのでは。


いても立ってもいられなくなった。だけどどんなに気持ちが急いても寝ずに歩き続けることは出来ない。結局次の街までは、朝一番の乗合馬車に乗る方が早かった。


沸き上がる不安で息が苦しい。そのまま重りを付けられたかのように動けなくなる。


体が重い。


汽車を降りる前から体が辛かった。


これが年齢としのせいなのか疲れのせいなのか、自分でも分からない。


宿の食堂へ行って何か食べるべきなのかもしれないけれど、疲労が空腹を上回って動けなかった。食欲もあまりない。



魔法が解けてしまった体はなんて大変なのだろう。



でもこの世界ばしょで「生きる」と決めたから逃げまい。



「――――――――――――――――――」



脇に投げ出していた鞄を引き寄せて蓋を開けた。

中から布包みを取り出して膝の上で広げる。布張りのケースを更に包んでいたのは、容れ物も傷めたくなかったからだった。木の葉の模様のそのケースを開けると、翡翠色の万年筆が乱れなく納まっていた。


ケースの溝から、柔らかに光る軸をそっと持ち上げる。


アルトにそんな意識があったのか分からないけれど、これを贈られた時、ケースも万年筆もアルトの瞳の色だと思った。それからずっと、宝物のように大切で。


胸に当て、それを両手で抱き締めた。



どうしてもっと早く、素直にあのひとの気持ちに応えなかったのだろうと、何度も何度も思う。


あり得ないと目を逸らし続けて。




もし自分の想いを伝えられないまま二度とアルトに会えなかったら。




胸がきりきりと痛む。




怖かった。


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