18. 魔女が人間に戻る日
一瞬、何か間違えてしまったのかと思いどきりとした。誰もいない。白く光る巨大な空間にいたのはわたしだけだった。人でごった返しているだろうと思っていたのに。開館したばかりの時間だったと思い出す。出口に向かう場所にまだ誰もいないのは当然だった。
遮るものがないためにその景色は真っ直ぐに目に飛び込んで来てしまった。
真っ白な場所のそこにだけ色がある。
息が苦しくなった。
ずっと前方に三つ、後方に二つ。図書館を囲む五つの橋と同じ位置取りで、出口が四角く口を開けていた。霧がかっているかのようにぼやけているけれど、その中に見えているのは外の世界だった。
「……!」
外だ。五百年振りの。
今入って来た扉は独りでに閉まって消えてしまっていた。もう引き返せない。
心臓がどきどきする。
外へと繋がるこの空間は、魔法図書館の他の場所と比べても特殊な異空間だった。この場所では目に見える距離感と身体的な感覚が一致しない。どんなに大勢の人がここにいてもひしめき合うことにはならないし、出口ではない方向に向かって走っても、自分の体は五つの出口に囲まれた円の中心にい続ける。足の下もふわふわとしていて、地面を踏んでいる感覚があまりなかった。
そして「あの扉の外に出よう」と考えればそれだけで、次の瞬間にはその扉の外に出てしまう。
アルトの家は水路の北側だと聞いていた。だから前方に並ぶ三つの出口のどれかを潜らなければ。
橋の袂のエントランスホールにはそれぞれ五つずつ、全部で二十五の扉がある筈だけど、図書館の内から外へ出る時は五つの方角を選べるだけで、どの扉から出ることになるかは分からない。
右端にしよう、と思った直後に、わたしの体は外に出ていた。
!
「アルト……」
思わず呟いていた。
白いエントランスホールに人がひしめいている。係員が数人いて、何かを大声で案内している。
外だ。
魔法が解けた。
そう思った瞬間、体に異変を感じた。
荷物の重さががくりと増したように感じる。足も腰も痛い。体中が不調を訴えた。
―――――――――――――ああ、これが生なのだ。
五百年間忘れていたけれど、わたしの体は老いている。
わたしは人間に戻ったのだ。
まだ間に合いますように。
震えを押し殺して足を踏み出す。
人波を搔き分けた。アルトの姿を探しながら。
入り口と出口の扉が別々でないことは「パウセ唯一の失策」とまで言われている。でもその言いようはさすがに酷だと思う。創造者パウセもまさか魔法図書館が世界中から人が集まる観光名所になるとは思っていなかっただろうから。
退場者が外に出る瞬間の位置が適当に調整されて、入場者と出合い頭にぶつからないようになっているだけ凄いことだった。係員が一つの扉の中の右半分とかに入場者を誘導しておけば、退場者は自動的に左半分を通って出て来るようになっていた。
でも今外に出ようとしているのはわたしだけ。人の流れに逆らって進まなければならなかった。
人が凄まじく多い。外の世界で最初に感じた五百年前との違いはそれだった。一体今ここにどれだけの人がいるのだろう。
エントランスホールを出て、魔法図書館と橋の間の広場を突っ切り、橋の袂に辿り着くまでに既に百人以上の人と擦れ違った気がする。
不安に押し潰されそうになりながら、五百年振りの世界を見つめた。
なんて大きな空。ずっと四角く切り取られた小さな空しか見ていなかったから少し酔ってしまう。
図書館を目指す大勢の人達が橋の上を途切れることなく続いていた。水路と対岸の街。八角形の魔法図書館。
――――――――――これがアルトが見ていた景色。
「アルト―――――――――――」
お願い、間に合って。
ʄ
それから何度も何度も人に道を尋ねた。
アルトの家の住所は以前に聞いていたけれど、それが図書館からそんなに遠いだなんて思ってもいなかった。あのひとはいつもどうやって図書館に来ていたのだろう。
体の中で焦りと不安が膨れ上がる。なのに昼を回った頃、飢餓を覚えて足が止まってしまった。自分の胃の中には何も入っていないのだと気が付く。何か食べるべきなのかもしれない。でもわたしは五百年前のお金しか持っていなかった。
ようやくアルトの家に辿り着いた時にはわたしは倒れそうだった。
既に夜で、街灯が灯っていた。
門番が四人もいる大きなお屋敷を見て途方に暮れる。
こんな所に住んでいたなんて。
取り次いで貰えるかしら。
アルト直筆の封筒を見せて交渉してみると、門番の方達は困った表情をした。
「主人は今朝屋敷を発たれ、しばらくこちらには戻っていらっしゃいません」
間に合わなかった――――――――――――――――!
その場でふらりと倒れ掛けて門番の方に支えられた。
それから門番の一人が玄関までの長いアプローチを走って屋敷の中へと入って行った。しばらくすると門番と一緒に女中らしき方と初老の男性が駆け出して来た。
「リスタ様――――――――――――――」
初老の男性に血の気の引いた顔でそう呼ばれて、息を呑んだ。




