15. 手が触れる想い
目を瞠り、ただその人の瞳を見上げる。アルトは無言だった。
胸の奥から、感情が波となって押し寄せる。
出てもいいの?
魔法図書館を出たらわたしは長くは生きられない。
それでも構わない?
アルトの腕を掴んでいるわたしの手。
皺だらけのわたしの手――――――――――それでもいいの?
このまま一緒に、外へ――――――――――。
一瞬だけ想像した。そして凍り付いてしまった。
ここを出る――――――――――五百年外の世界を知らないわたしが。
「―――――――――――――――――――」
動けなくなる。湧き上がる不安に呑み込まれていた。
「………」
数秒、アルトはわたしの様子を見つめていた。そして静かに、わたしの手を自分の腕から外した。
何も言われなかった。
何も言わずに、ただアルトは手に取ったわたしの指に唇で触れた。
「―――――――――――!」
「………リスタ」
初めて逢った日から変わらない甘く優しい声が囁くようにわたしの名を呼ぶ。それからそっと手を離すと、彼は一人で扉を潜って行った。
アルト………!
行かないで。
止めたいのに足が動かない。
聳え立つ書棚の中の痛い程の静寂に立ち尽くした。
閉ざされた扉を見つめる。
今なら魔法図書館を出られそうな気がして、でもやっぱり足が動かなくて、意気地なく体が震える。
ただアルトの問いかけはわたしの心を深く打っていた。
わたしが外に出ることをアルトは止めようとはしていなかった。
アルトの優しさはわたしが思っていたよりもずっと深かったのだと、今になって知る。
この世界に独りで残されると分かっていても、あのひとはわたしがここを出る自由を否定はしないのだ。
出てもいいの?
震える手で扉に触れた。
もしかしてあなたは、わたしがこの外に出ることを望んでいる?
この外であのひとはずっと、どんなふうに暮らしていたのだろう。
優美な浮彫りで“外”とだけ記された扉。
この扉を潜るだけで、と思う。
この扉を潜るだけで図書館の外に出てしまう。
魔法図書館に百年以上在籍する職員が少ないのはこの扉の仕組みのせいもある。
外の世界が恋しくなったりして、衝動的に扉を出てしまう人がたくさんいた。
でもわたしは。
五百年の間、わたしがそんな衝動に駆られることはなかった。
五百年――――――――――――
沢山の人達が図書館を去って行った。絵本作りの人達も何度も入れ替わったし、馴染みとなったお客様もいつしか見なくなり、大抵は、知らない間に亡くなった。
魔法図書館に来た時、自分が「魔法図書館の魔女」と呼ばれるようになるとは思っていなかった。
ほとんどの人達が百年も経たずに辞めると聞いた時には、自分もそれぐらいで辞めるのだろうと思っていた。思い入れとか決意とか、そんなものがあった訳ではない。
父よりずっと長く生きた母が亡くなり、きょうだい達もぽつぽつと世を去り出して、自分の命の終わりも見えて来た時。家族を持たなかった自分の人生を少しだけ後悔して、最後にちょっとだけ楽しいことをしようと思っただけだった。
人生の最後に大好きな本に囲まれた暮らしをしよう。
それだけだった。
まさか「魔女」と綽名される程長く在籍することになるなんて。大勢の同僚達が「生きている気がしない」と言って退職して行ったけど、どうしてかわたしは平気だった。
なぜ、と考えた時にすぐに気付いた。
魔法図書館に来る前から、わたしは生きていなかったのだ。
出ようと思えばわたしはもっとずっと以前に図書館の外に出られたと思う。
ただ外の世界に執着を覚えるものがなかったわたしには、魔法図書館を出る理由がなかっただけ。
でも今、わたしは。
「――――――――――――――――――――――」
“外”と刻まれた扉の上の手。
アルトの唇が触れた指が熱くて、でもその手は皺だらけで、五百年は長くて。
わたしは動けなかった。
ʄ
―――――――図書館を出られない彼女とここで過ごした。
自分の部屋の書棚を見て思う。
ここに来た時には空っぽに近かった書棚はたくさんの色で埋まっていた。
―――――――――――――十四年。
魔法書を読む合間に、リスタが読んでいた本や薦めてくれた本を読んだ。図書館で読み終えられなかった本は、街の書店で手に入る物なら買って帰った。
学術的な本の時でも小説のような娯楽本の時でも、感想を言い合う時はリスタの瞳はきらきらとしていて、彼女のそんな表情を見ると心が和んだ。知的な関心が高い人間はリスタのこういう所に参ってしまうのだろうと思うと、どこかの学者が彼女に会いに来る度、本当は不安で、苦しかった。
リスタが選んでくれる本は分野が幅広くて飽きなかったなと、彼女と過ごした日々を思い返す。ずっと昔はそう言えば、自分も読む本の分野を問わない方だったと思い出したのはいつだっただろう。
今はこの部屋が少しだけ自分の居場所と感じられる。
左手を伸ばし、並んだ背表紙に触れる。
そこにリスタの存在を感じて、自然と微笑んでいた。
「リスタ――――――――――――行って来る」




