二章「神なき神殿」三話「霧中に消える名」
霧中に消える名
神殿の朝は、昨日と同じ形で始まった。
鐘は鳴らない。
号令もない。
それでも、同じ時間に目が覚める。
それが、もう不思議ではなかった。
眠りの底から引き上げられる感覚はなく、
ただ、目を開ける理由が整っている。
起きるべきだから起きる。
それ以上の説明は、要らなかった。
列になり、歩く。
床の感触は変わらない。
裸足の裏に伝わる石の冷たさも、
重さも、均一だった。
歩幅を合わせようとしなくても、
列は乱れない。
誰かを追い越す必要も、
立ち止まる理由もない。
広間には、火があった。
昨日と同じ場所に、
同じ大きさで、
同じ静けさで燃えている。
揺れはなく、
音も匂いもない。
熱を感じないその炎を前に、
立ち、座り、黙る。
誰も祈らない。
誰も名を呼ばない。
それが礼拝だということを、
今はもう、考えずに受け取っていた。
礼拝が終わると、
一日が始まる。
掃除をする。
床を拭き、道具を整え、
余分なものを片付ける。
指示は少ない。
だが、手は迷わない。
誰かに教えられなくても、
やるべきことは分かる。
分からなければ、
周囲を見れば足りた。
食事が出る。
量は多い。
腹が満ちるまで、
制限されることはない。
豪華ではない。
だが、質素でもない。
噛めば味はある。
だが、記憶に残るほどの特徴はない。
皿が空になるころには、
満腹になっている。
満たされた、という感覚だけが残る。
作業に戻る。
木を運び、
道具を磨き、
決められた動きを繰り返す。
成果を求められない。
失敗を咎められない。
だから、
上手くいったかどうかを
考える必要がなかった。
再び、食事。
量も、味も、変わらない。
腹は満ち、
身体は動く。
午後には、運動の時間がある。
走る。
持ち上げる。
姿勢を保つ。
競わない。
比べない。
息が上がれば、
自然と速度を落とす。
誰も、それを咎めない。
疲労はある。
だが、限界は求められない。
三度目の食事があり、
再び掃除をし、
風呂に入る。
湯は温かい。
長く浸かっても、
誰も何も言わない。
身体の汚れが落ち、
疲れが抜ける。
夜の礼拝。
朝と同じ火。
同じ静けさ。
一日が終わったことだけが、
確かだった。
何をしたのかを、
言葉にしようとすると、
どこから始めればいいのか分からない。
だが、
問題は起きていない。
その事実が、
一日を肯定していた。
作業の合間、
視線だけでやり取りが済む場面が増えた。
声を出すより、
早い。
名前を呼ぶより、
確実だった。
話す自由はある。
話しかければ、
先にいる者たちは答えてくれる。
時折、
向こうから声をかけてくることもある。
内容は、
天気のこと。
作業の順序。
食事の時間。
穏やかで、
特別ではない。
よく話す者もいる。
ほとんど話さない者もいる。
どちらが正しいのかは、
分からない。
話さなくても、
何も困らなかった。
神殿の中庭に出ると、
朝靄が残っていた。
白く、
薄く、
視界を覆っている。
閉じ込められている感じはない。
ただ、
境界が曖昧になる。
向こうに人がいるのは分かる。
だが、
誰なのかを確かめる理由が、
浮かばない。
顔は見えている。
声も聞こえる。
それでも、
「誰か」という輪郭が、
定まらない。
それに、
困らなかった。
列を作るとき、
位置は自然に決まる。
合図はない。
だが、
乱れない。
呼ばれるとき、
名は使われなかった。
番号か、
位置か、
順番。
それで十分だった。
名を呼ばれないと、
振り向く必要がない。
間違えられることもない。
自分の名を思い出そうとして、
一瞬、間が空く。
忘れてはいない。
ただ、
今は使われていない。
それだけのことだった。
その日、
リュカだけが呼ばれた。
名でも、
番号でも、
位置でもない呼び方だった。
理由は示されない。
レオンは、
声を出そうとして、やめた。
止める理由も、
止めない理由も、
見つからなかった。
ただ、
違う、という感覚だけが残った。
夜の礼拝。
火は揺れない。
霧は消えている。
今日一日を、
説明する言葉はなかった。
だが、
問題は何も起きていない。
それが、
ここでの一日だった。




