二章「神なき神殿」 二話「慈愛の楽園」
慈愛の楽園
神殿の朝は、礼拝から始まる。
鐘は鳴らない。
号令もない。
合図に使われるものは、音ではなかった。
それでも、同じ瞬間に目が覚める。
眠りが破られる、という感覚ではない。
身体の奥に沈んでいた重さが、
一斉に持ち上げられるような感覚だった。
列になり、歩く。
誰かを追い越すことは、最初から想定されていない。
床は冷たくない。
裸足でも、痛みはない。
石の感触が、どこを踏んでも均一だった。
歩くたび、
自分の足音が、他の誰のものとも重ならない。
揃えようとしなくても、
乱れようがなかった。
広間には、火があった。
中央に置かれ、周囲から隔てられている。
炎は大きくない。
揺れも少ない。
音も、匂いも、ほとんどない。
熱を感じないことで、
そこに「意味」があるのだと、
身体のどこかが理解していた。
誰も祈らない。
手を合わせない。
名を呼ばない。
それが、この場で定められた作法だった。
ただ、そこに在る火を前に、
立ち、座り、黙る。
それで、礼拝は成立していた。
言葉がないことで、
考える余地も、
感情を向ける先も、
最初から用意されていなかった。
静けさの中に、
いつの間にか、男が立っていた。
足音は聞こえなかった。
気配だけが、そこに残る。
男は落ちついた声で、サミルと名のる。
「ここには、皆さんを脅かすものはありません」
約束ではなかった。
断言でもなかった。
外の世界との違いを、
淡々と並べただけの声だった。
それでも、その言葉は、
胸の奥に、抵抗なく沈んだ。
「外で皆さんが経験してきたことは、
ここにはありません」
殴られること。
怒鳴られること。
理由もなく扱いが変わること。
一つ一つを言われなくても、
身体が先に理解してしまう。
「皆さんは、守られています」
その言葉で、
空気の張りが、わずかに緩んだ。
守られる、という言葉は、
理由を考える前に、
安心として届いてしまう。
「迷うことがあれば、
神殿が判断します」
選ばなくていい。
間違えなくていい。
そう言われていないのに、
そう受け取ってしまう余地が、
言葉の中に残されていた。
礼拝の後、生活が始まった。
引率の女がついた、ナディアと言うらしい。
回廊を進む途中で、
レオンは気づいた。
自分たちの列だけではない。
別の集団が、
別の方向から流れてくる。
互いに視線を交わさない。
干渉もしない。
動きに迷いがない。
歩く速度も、立ち止まる位置も、
すでに身体に染み込んでいるようだった。
作業場では、
すでに作業に入っている者たちがいた。
こちらを見ない。
確認もしない。
だが、全員が笑みを浮かべていた。
不自然ではない。
引きつってもいない。
穏やかで、柔らかい。
ここにいることを、
疑っていない表情。
ただ、その笑みには、差があった。
角度。
目の開き方。
口元の力の抜き方。
揃いすぎているものもあった。
作り物のように、
完璧なものもあった。
それに比べて、
自分たちの列には、笑みはなかった。
あるのは、
不安と、
まだ言葉にならない戸惑いだけだった。
その対比が、
安心と違和感を、
同時に胸へ運んでくる。
列を作る。
合図はない。
だが、自然と位置が定まる。
昨日より、
少しだけ静かな気がした。
隣との間隔が、
わずかに詰まっている。
確信できるほどではない。
気のせいだと、
自分に言い聞かせられる程度だった。
誰も止まらない。
誰も数を確かめない。
レオンも、
一拍遅れて、歩き出した。
呼ばれるとき、
名は使われなかった。
位置だった。
順番だった。
それに、
不便はなかった。
名を呼ばれないと、
振り向く必要がない。
間違えられることもない。
その軽さに、
身体が先に慣れかけて、
遅れて、何かが引っかかる。
自分の名を思い出すのに、
一瞬、間が空く。
忘れてはいない。
ただ、
今は使われていないだけだった。
一日が終わる。
再び、礼拝。
火は、揺れていない。
欠けたものがあった気がした。
だが、
それが何だったのかは、
もう、はっきりしなかった。
ここは、
人を壊す場所ではない。
人であることを、
静かに、遠ざけていく場所だ。
その理解は、
まだ言葉にならない。
だが、
戻る理由だけが、
確実に、減っていた。




