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灰燼年代記  作者: kira
第一部 「鎖と刃」
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一章「幸福の価値」 三話「運命の定価」

運命の定価



数えられるようになったのは、つい最近だ。


ここでは人はただの塊だった。

鎖につながれ、声を奪われ、名前も与えられず、

使うか、捨てるか、その判断が下される前の素材。


秤に掛けられ、選別された。


並ばされる。

一定の間隔で。

間違えないように、間違われないように。

床は冷たく、裸足の裏にじわりと張りつく。

湿った石の匂いが、息を吸うたび喉の奥に残った。


視線を上げれば、前にも後ろにも、同じような背中がある。

隣との距離は、腕一本分ほど。

触れないが、近い。

近すぎて、他人の体温が空気に混じる。


その距離に、彼女がいた。


――リュカ。


煤で汚れた髪。

乾いた土の匂い。

だが、立ち方だけは、村にいた頃と同じだった。


彼女は、そこにいた。


だが、こちらを見ていない。


視線が合わない、というより、

周囲に意識が向いていない。


列に並んでいるのに、

リュカは列の中にいないように見えた。


足は床に着いている。

身体も、ここにある。


それなのに、

意識だけが、ほんの少し後ろに下がっている。

影だけが、身体から遅れてついてきているように見えた。


レオンは、その違和感を言葉にできなかった。

胸の奥が、浅く冷える。

冬の水に足を入れたときのように、

触れた場所だけが、急に遠くなる。


彼女は、震えていない。

歯を食いしばってもいない。


怖くないはずがない。

だが、その怖さが、表に出てこない。


恐怖を感じていないのではない。

感じる前に、切り離している。


そんなことが、できるはずがない。


村にいた頃のリュカは、

よく笑い、よく怒り、

感情がそのまま顔に出る少女だった。


今、目の前にいる彼女は、

感情を隠しているのではない。

感情に、触らないようにしている。


名前を呼びたい、と思った。

喉の奥で、音になりかけたものが止まる。

だが、できない。


呼べば、音になる。

音は、ここでは罪だ。


前方には見慣れない大人。


一人ずつ、前へ出される。


歯を見る。

腕を見る。

足を見る。


痛みを与え、

逃げるか、耐えるか、

目を逸らすか、睨み返すか。


視線が、意味を持って落ちてくる。

上から下へ。

声掛けなどはない。

ただただ反応を見る。

空気が、少しずつ重くなる。


――値段を付けられている。


「次」


低い声が、場を切る。

その声が落ちるたび、胸の奥がわずかに沈む。


今は何人目だろうか。

前方には小柄な少女。


突如、殴打の音がした。

鈍く、短い音。

乾いた音ではなく、

肉に当たる、重たい音だった。


「……良い」


短い言葉。


少女は別の場所に消えて行った。

足音が、途中で途切れた。


その後も値付けは続き、何人かは消えて行く。

残る者の呼吸だけが、少しずつ荒くなる。


次は、リュカだった。


殴られる。


だが、彼女は、瞬きすらしなかった。


耐えた、のではない。

逃げなかったのでもない。


ただ、受け取った。


痛みを、感情として処理しなかった。

受け取った衝撃だけが、身体を通り抜けたように見えた。


それを見た視線が、わずかに変わる。


「……ほぅ」


大人の視線に興味の色がうつる。


――殴られた。

リュカも向こうに行くのだろう。

進む者と、残る者の違いはそれだ。


再度の殴打音。


リュカの身体が、わずかに揺れた。

だが、目は揺れなかった。


涙も、声も、怒りもない。


ただ、

「そうなることを知っていた」

という目だった。


その瞬間、

レオンの背中を、冷たいものが走った。

汗が、出ていないのに、背中だけが冷える。


――もう、始まっている。


壊れる前の段階。

だが、戻れる場所からは、

すでに一歩、外れている。


評価の言葉が、落ちる。


短く、感情のない声。


その言葉を、

リュカは聞いていない。


聞いていないのではない。

聞く必要がない場所に、

自分を置いている。


痛み。

恐怖。

悲しみ。


それらを、

自分のものとして持つのを、

やめ始めている。


レオンは、拳を握った。

爪が掌に食い込み、

痛みだけが、今ここに自分がいる証のようだった。


叫びたかった。

名を呼びたかった。


だが、それはできない。


声を出せば、

彼女が“こちら側”に戻ってしまう。


戻ってしまえば、

もっと深く壊される。


そのことを、

理屈ではなく、本能で理解してしまった。


だから、何もできない。


見ることしか、許されなかった。


リュカが消える。


その瞬間、

リュカが、初めてこちらを見た。


目が、合った。


ほんの一瞬。

確かに、合った。


だが、その目は、

レオンの知っているリュカのものではなかった。


そこには、

助けを求める光も、

怯えも、

怒りもなかった。


あるのは、

静かに定めを受け取るような、

冷えた透明さだけだった。


――ああ、と。


レオンは、理解してしまった。


運命は、もう決まっている。

そして、その定価を、

最初に支払わされたのは、

リュカ自身だったのだと。


彼女は、まだ生きている。


だが、生きたまま、

一部を差し出し始めていた。


その事実だけが、

鎖の音よりも、

重く、胸に残った。


――そして、僕等の命には値段がついた。


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