一章「幸福の価値」 二話「幸甚の秤」
幸甚の秤
朝か夜かは、分からなかった。
ここでは、光が時間を示さない。
天井の裂け目から落ちてくる薄い明かりは、ただ「見える」という最低限の条件を満たしているだけで、始まりも終わりも告げなかった。
鎖が鳴る。
誰かが立たされる音。
誰かが倒れる音。
誰かが戻ってこない沈黙。
それらは順序立てられず、意味づけもされないまま、同じ空間に積み重なっていく。
レオンは、床に座らされたまま、それを聞いていた。
足首の鎖は外されている。
だが、自由になった感覚はなかった。
立て、と言われれば立つ。
座れ、と言われれば座る。
鎖がなくても、身体はすでに命令を待つ形に出来上がっている。
視線の先に、列があった。
人の列だ。
だが、並んでいるのは人ではない。
大きさ。
姿勢。
目の動き。
息の乱れ。
それらが、順に見られていく。
声は少ない。
質問もない。
あるのは、指差しと、短い合図だけだ。
「次」
その言葉が落ちるたび、列の形が変わる。
誰かが前に出され、
誰かが脇へ寄せられ、
誰かが消える。
理由は、示されない。
レオンは、自分の番を待ちながら、床を見ていた。
石の色。
削れた跡。
染みついた黒ずみ。
何度も洗われ、
それでも落ちなかった痕。
それが何かを考えるのを、途中でやめた。
考えたところで、意味はない。
代わりに、胸の奥で別の感覚が動いていた。
――測られている。
重さではない。
力でもない。
もっと曖昧で、もっと残酷なもの。
生きたいと思う強さ。
壊れずに立っていられる限界。
まだ泣けるか、もう泣けないか。
そういうものが、見えない秤に乗せられている。
名前のない秤。
慈悲のない秤。
それでも、人はそこに置かれる。
「前へ」
声がかかった。
レオンは、顔を上げた。
初めて、視線が合う。
見ているのは、人ではなかった。
目はある。
声もある。
だが、その奥に、測る以外の意志がない。
秤そのものだ。
立たされる。
肩を押される。
顎を持ち上げられる。
抵抗する理由は、もう残っていなかった。
痛みはない。
殴られもしない。
それが、かえって怖かった。
壊す必要がないと判断されたからだ。
「――」
何かが記された。
板か、紙か、それすら分からない。
合図が出る。
レオンは、脇へ動かされた。
列の一部が、分断される。
こちら側。
あちら側。
数が、違う。
こちらは、少ない。
あちらは、多い。
少ない方にいることが、何を意味するのか。
考える前に、身体が理解していた。
生き残った。
その事実が、胸の奥に沈む。
喜びは、ない。
安心も、ない。
あるのは、重さだけだ。
なぜ自分なのか。
なぜ、あちらではないのか。
理由は与えられない。
与えられないからこそ、
人は勝手に意味を作る。
強かったから。
壊れなかったから。
使えるから。
そう考えた瞬間、
胸の奥で、何かが静かに崩れた。
生き残った理由が、幸福ではなく、
価値として処理されたと理解したからだ。
幸福は、選ばれない。
価値だけが、残る。
それが、この場所の秤だった。
レオンは、無意識に周囲を見回した。
探しているのは、人影。
ここにいるかどうかも分からない、
あの細い輪郭。
だが、視線が触れるたび、
違う、という感覚だけが積み重なる。
呼ぶことはできない。
呼べば、ここでは音になる。
音は、価値を下げる。
だから、黙る。
黙ったまま、探す。
それが許されている唯一の行為だった。
やがて、秤は片付けられる。
選ばれた者たちは、別の場所へと連れて行かれる。
背後で、何かが閉じる音がした。
重い。
だが、鎖よりは軽い。
レオンは、歩きながら思った。
――生き残ったことに、値段がつくなら。
――その支払いは、きっとこれからだ。
幸福は、もう測られない。
測られるのは、
どこまで壊れずに使えるか。
それだけだった。




