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灰燼年代記  作者: kira
第一部 「鎖と刃」
15/21

一章「幸福の価値」 一話「鎖の音」

第一章「幸福の価値」

鎖の音



意識が浮上する前に、音があった。

乾いた鉄が、床を引っかく音。

それは遠くではなく、すぐそばで鳴っていた。


レオンは、目を開けた。


動こうとして、気づく。

動けない。


正確には――

動く必要が、なかった。


身体はすでに、最小限の姿勢で固まっている。

起き上がろうとも、抗おうともしていない。

考える前に、そうすることをやめていた。


それでも、違和感だけが残っていた。


足元が、重い。


視線を落とす。


そこにあったのは、鎖だった。


太くはない。

だが、軽くもない。


子供が振り回すことを想定していない重さ。

抗うことを想定していない重さ。


足首に巻かれ、鉄環で固定され、

床の輪に繋がれている。


引けば、鳴る。

力を込めれば、さらに大きく鳴る。


鳴れば、きっと不幸が来る。


レオンは、そっと足を引いた。

音は、わずかに鳴った。


胸が、一瞬だけ強く縮む。


だが、何も起きない。


誰も来ない。

怒鳴り声も、殴打もない。


そのことが、逆に不気味だった。


見張られていないわけがない。

放置されているわけがない。


ここでは、鎖が見張りなのだ。


レオンは、鎖を見つめた。


名前は、刻まれていない。

番号もない。


所有者を示す印は、まだない。


――まだ、誰の物でもない。


だから、

まだ、処分できる。


その考えが浮かんだ瞬間、

胃の奥が冷たくなった。


隣で、誰かが小さく身じろぎをした。

鎖が擦れ、音が重なる。


複数の鎖の音。


それは、偶然ではない。

ここにいる全員が、同じ状態なのだ。


価値が決まる前の存在。

使うか、捨てるか、選ばれる前の素材。


その中に、自分も含まれている。


レオンは、声を殺したまま視線を動かした。


隣。

さらに隣。

鎖と鎖のあいだ。


人の背中。

肩。

うずくまった影。


――違う。


胸の奥で、嫌な感触が広がる。

名前を呼ぶことは、できなかった。

呼べば、音になる。

音は、ここでは罪だ。


それでも、探さずにはいられなかった。


灰の中で、手を掴めなかった。

炎と悲鳴のなかで、振り返れなかった。

声は出たが、身体は前に出なかった。


動かなかったのではない。

動けなかった。


その事実だけが、

鎖よりも重く、足に絡みついている。


視線を巡らせる。


どこにも、いない。


同じくらいの背丈。

同じくらいの細い腕。

それらは、いくつも見えるのに、

探しているものだけが、ない。


喉の奥が、ひくりと鳴る。


――守れなかった。


理解した瞬間、胃の奥が冷えた。


あの夜、

抱えて走れたかもしれない。

転んだとき、引き返せたかもしれない。

名前を呼ぶことも、できたかもしれない。


だが、それはすべて、

あとから生まれた考えだ。


あの瞬間の自分は、

見ることしか、許されていなかった。


それでも、責める声は止まらない。


できなかった理由を、

奴らのせいにするのは簡単だった。

だが、それより先に浮かんだのは、

動けなかった自分の姿だった。


何もできなかった。

見ているだけだった。

生き残って、ここにいる。


そう言い切ってしまえば、

楽になれる。


だが、胸の奥は、それを許さない。


価値があるから、生きている。

そう選ばれた瞬間を、

どこかで受け入れてしまった感覚。




鎖の音が、また重なる。

誰かが身じろぐ。


違う。

また違う。


もし、ここにいないのなら。

もし、選ばれなかったのなら。


その先を、考えることができない。


考えれば、

ここで鎖につながれている意味が、

ほんのわずかでも軽くなってしまう。


レオンは、奥歯を噛みしめた。


探す視線を、やめない。

希望ではない。

祈りでもない。


これは、罰だ。


何もできなかったことを、

忘れないための行為だ。


鎖が鳴るたび、

胸の奥で、何かが削れていく。


それでも、探す。


見つからなくても、

それだけは、やめなかった。


夜明けは、もう終わっていた。


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