月下の約束
月下の約束
夜は静かだった。
昼の熱を失った空気が、ゆっくりと村を包み込み、虫の声だけが規則正しく続いている。遠くで犬が一度だけ吠え、また世界は元の静けさに戻った。
レオンとリュカは、村外れの小さな丘にいた。
昼間は羊が草を食むだけの、名前もない場所だ。それでも今夜は、二人にとって特別だった。理由はない。ただ、ここに来るのが自然だった。
並んで座ると、肩が触れた。
どちらも意識したが、離れなかった。近すぎて落ち着かないはずなのに、その距離が正しいと、身体のどこかが知っていた。
リュカは楽しそうに笑い、今日あったことを話し始めた。
昼間にも話したはずの内容だったが、レオンは何度でも聞けた。声の調子、言葉の選び方、笑うたびに少しだけ揺れる髪――それらがそこにあることが、何よりも嬉しかった。
レオンは、その感情に名前をつけたことがなかった。
リュカがそばにいると、胸の奥が軽くなる。沈黙が続いても不安にならず、世界が静かに整う。それは当たり前すぎて、失うという発想そのものがなかった。
リュカも同じだった。
レオンがいると、理由もなく安心した。嫌な夢を見た夜も、眠れなかった朝も、彼の声を聞くだけで大丈夫だと思えた。未来を考えることはなかったが、今日が続けばいいと、疑いなく信じていた。
好きだという言葉は、まだ二人には重すぎた。
けれど、同じ景色を見て、同じ時間を生きているという感覚だけで、それ以上の説明はいらなかった。
しばらく月を見上げていたあと、レオンは視線を外し、リュカの方を見た。
言葉にするつもりはなかった。ただ、胸の内に溜まっていたものが、零れただけだった。
「……俺が、リュカを守るよ」
力強さはなかった。
未来を見据えた覚悟でも、誓約でもない。今ここにいる彼女が、笑っていてほしい――それだけの、あまりにも小さな言葉だった。
リュカは一瞬きょとんとしたあと、すぐに笑った。
からかうように、けれど心から嬉しそうに。
「じゃあ、私もレオンを守る」
その返事に、レオンは思わず息を漏らした。
どちらも、守れない可能性を考えていなかった。
月が、異様なほど綺麗だった。
リュカは、しばらく黙ったまま月を見ていたが、やがて小さく息を吸った。
「ねえ……もし、どこかへ行かなきゃいけなくなっても」
一瞬だけ言葉が途切れる。
探しているのは答えではなく、問いそのものの置き場だった。
「レオンは、私のこと忘れない?」
幼い問いだった。
残酷な問いだった。
レオンは、すぐには答えなかった。
胸の奥が、ひどく静かだった。
「……忘れない」
言葉を選ぶように、一度息を吸い、
「忘れるなんてこと、できるわけないじゃないか……」
約束ではなかった。
誓いでもなかった。
ただ、そうとしか言えないという事実を、そのまま口にしただけだった。
未来が壊れる可能性を、
まだ知らなかっただけだ。
沈黙が落ちた。
だがそれは、不安を孕んだものではなかった。
レオンは月明かりに照らされたリュカの横顔を盗み見た。
昼間とは違う色を帯びた髪が、風に揺れている。触れてしまえば壊れてしまいそうで、けれど触れずにはいられない。その矛盾が、胸の奥で静かに膨らんだ。
リュカがふいに言葉を止め、少しだけ顔を近づけた。
理由はなかった。言葉もなかった。ただ、そうしなければならない気がした。
唇が触れた瞬間、世界が止まった。
長くはなかった。確かめるような、幼い温度のキスだった。それでも、二人にとっては十分すぎるほどだった。
離れたあと、どちらも何も言えなかった。
ただ、並んで座り、同じ月を見上げていた。
「……月が、綺麗だね」
リュカがそう言い、レオンは静かにうなずいた。
それ以上の言葉は、必要なかった。
この夜が、二人の人生で最も幸福な時間だということを、
まだ、誰も知らなかった。




