祝福されない種子
祝福されない種子
出口を抜けた瞬間、世界の音が戻った。
風が木々を揺らす音。 遠くで金属がぶつかる、乾いた響き。 土と葉の匂いが、肺に流れ込む。
夜明け前の森は、静かだった。 あまりにも、静かすぎた。
エルネシアは、無意識に足を止めた。
胸の奥に張り付いていた何かが、わずかに緩む。 城の石壁はもうない。 あの閉ざされた空間からは、確かに出た。
――生きている。
その事実が、遅れて形を持つ。
なぜ、自分は生きているのか。 なぜ、あの城に残されなかったのか。 なぜ、逃げることを許されたのか。
答えは、まだまとまらない。 だが、思考は始まってしまった。
その瞬間だった。
風を切る音。 短く、鋭い。
次の瞬間、前を行く近衛が崩れ落ちた。 胸を射抜かれ、声もなく倒れる。
続けて、もう一人。
悲鳴はない。 矢は、正確だった。
森の奥から放たれた二射。 姿は見えない。
伏せる間もなく、隊列が乱れる。
「殿下!」
残る近衛が、即座に動いた。 盾を掲げ、王女の前へ出る。
衝撃。
矢が肩口を貫き、鎧の内で止まる。
それでも、彼は立っていた。
王女を背に庇いながら、振り返る。 そして――ここで初めて、笑った。
「……殿下は、生きてください」
それは願いではなかった。 選択肢を、奪う言葉だった。
二射目が放たれる。
低い音。 矢は喉元を正確に射抜き、声を断つ。
近衛は何かを言いかけ、息を吸い―― そのまま、前のめりに崩れ落ちた。
笑みだけが、顔に残っていた。
生きることを、他人に押し付けた者の表情だった。
その直後、森の奥で動きがあった。
影が、複数。 規律を持った足音。
小隊だ。
ゆっくりと姿を現した男は、剣を抜かなかった。 整えられた装備。 帝国の紋章。
第二皇子――カイネウス・ヴァルディア。
彼は、倒れた近衛と王女を一瞥し、 状況を把握するのに、言葉を必要としなかった。
「……なるほど」
短く息を吐く。 そこに感情はなく、判断だけがあった。
彼の視線が、エルネシアに向けられる。
恐怖ではない。 だが、救いでもない。
測るような目だった。
その前に、ひとつの影が進み出る。
肩に矢を受けたままの老将。 バルドゥス。
膝を折らない。 剣も、構えない。
ただ、立つ。
血が、足元の土に落ちる。
「ここで止めるか」
老将の声は、低く、掠れていた。
「それとも―― 帝国として、続けるか」
問いではなかった。 選択肢の提示でもない。
カイネウスは、わずかに首を傾ける。
「カイネウス・ヴァルディア第二皇子殿下、 この老骨めに話をする時間を頂きたい」
彼の背後で、兵たちは一斉に動きを止めていた。
「承諾いただけるなら、この首を殿下に献上させていただく。」
命令が下るまで、 世界そのものが、待っているかのように。
森は、沈黙していた。
風が止まり、鳥の声も消え、 枝葉の擦れる音すら、どこか遠い。
カイネウス・ヴァルディアは、老将を見ていた。
敵としてではない。 障害としてでもない。
ただ、 この場に立つ「要素」の一つとして。
「……話せ」
短い言葉だった。
許可でも、情けでもない。 必要だと判断した、それだけだった。
バルドゥスは、わずかに息を整える。
矢は、肩口を貫いていた。 骨に触れた感触が、遅れて腕を鈍らせる。
血は止まらない。 鎧の内側で温度を失い、 太腿を伝い、土に落ちる。
それでも、倒れない。
倒れれば、この場に残るものが 王女だけになると知っていた。
「殿下は――」
声は掠れていたが、揺れはない。
「この場で王女を殺せる」 「それは、疑いようもありません」
カイネウスは、否定しない。
沈黙が、肯定だった。
「だが、それは最も安い結末です」
森の奥で、葉が一枚、落ちた。
「王女を殺せば、王国は終わる」 「同時に、帝国は“語られる側”になる」
カイネウスの視線が、わずかに細くなる。
「死んだ王女は、意味を持ちます」 「語られ、悼まれ、やがて――象徴になる」
バルドゥスは、王女を振り返らない。
「生きた王女は、違う」 「逃げた者として、生き続ける」
息を吸う。
肺が、軋む。
「誰の希望にもならず」 「誰の旗にもならない」
沈黙。
それは、拒絶ではなかった。
計算だった。
カイネウスは、エルネシアを見る。
恐怖ではない。 哀れみでもない。
ただ、 生かした場合の重さを量る目。
「……なるほど」
短く、そう言った。
結論は、すでに出ていた。
「王女と、残る近衛二名」 「ここを去れ」
命令だった。
森が、わずかに息を吹き返す。
その瞬間、 バルドゥスが初めて、振り返った。
エルネシアを見る。
言葉はない。
だが、その目は明確だった。
――生きろ。 ――背負え。 ――祝福されずとも。
王女は、何も言えない。
腕を引かれ、後退する。
一歩。 二歩。
背後で、剣が抜かれる音がした。
乾いた、迷いのない音。
バルドゥスは、再び前を向く。
カイネウス・ヴァルディアを見据え、 深く、頭を下げた。
「……心より、感謝を」
本心だった。
彼の役目は、ここで終わる。
刃が振るわれる。
音は短く、 重さだけが残る。
首が落ち、 身体が、土に崩れる。
その顔には―― 役目を果たした者の、静かな満足があった。
それを、エルネシアは見ていない。
見ないまま、森の奥へと連れ去られていく。
彼女の背に残ったのは、
生かされた事実と、 選ばれたという罪。
祝福されなかったが、 否定もされなかった――
ひとつの、種子。
――それは、誰にも祝福されなかったが、 世界を変えるには十分すぎるほどの始まりだった。




