第四部4
「はい、書記長をお助けするためにやむなく。また、人の目に触れては問題があるものの可能性を考慮して、恐らくそこから出されたのだろう引き出しにしまうために。申し訳ございません、そうせざるをえませんでした」
あっさりと。
やはり全く一切の揺らぎもなく答えた。
「そうか。封印と密閉はしかとやってくれたわけだな」
「私以外の人間の目には一切触れることはなかったはずです」
「正直にいってほしい。書かれた言葉は何かわかったかね」
「恐らく中国語か……日本語かと」
「……君はそれらも理解しているのか」
「ほんの日常語程度ですが。幼いころに少しだけ、触れたことがありました」
「そうか。では……内容についてはどうか?」
ここでエレーナは初めて一拍置いた。
高度な知的プログラムが、より正確かつ価値ある情報を出力するためのタイムラグ。
「何がしかの年表、過去と将来における事象についての計画、あるいは予想についてではないかとお見受けいたしました」
そう、優秀さに見合った、限りなく正解に近い、かつ致命的な回答を口にした。
そしてこれが俺たちの終焉の始まりのはずだった。
「そうか……。ありがとう。そして、残念だ」
俺は常日頃から枕元に置いていた、トカレフを手にすると、数センチの距離を置いて、エレーナの胸先へと突きつけた。
病み上がりの体力ではいささか持て余し、数瞬ぶれる様な時間の後、ピタリと定まる。
シンと静かにその銃口をみやる貌。
明らかに命の危機が迫っているこの状況にも関わらず。
鋼鉄の香りがする女は、どこまでも自分自身の在り方に忠実らしかった。
「……わかりました。私も残念ではありますが。不束でしたが、お世話になりました」
この後に及んで、普段と全く変わらぬ語調、僅かな乱れもない抑揚で言う。
あたかも帰宅の挨拶をするかのように。
淡々と。
もう撃とうというギリギリまでトリガーを引きながら、聞かずにいられなかった。
短くない時間を、肉体も精神も共にあったといって過言ではない女を前に、せずにはいられない衝動めいたものだった。
「いいのかね? 私に対して恨み言や怒りなど一切ないとでも?」
すると、初めて感情らしきノイズが浮かぶ。
さも意外そうな、きょとんとした、あどけなささえ感じるイノセンスな貌。
「? それが『必要なこと』ならば当然のことかと。書記長がそう判断されたのなら否やがあるわけがありません」
ああ、なんて。
どこまでコイツは至っているというのか。
何を躊躇っているのかと、単純に理解できないという風情で見つめ返す、碧青の瞳に魅入られるような思いに包まれる。
そこで俺は初めて、原理的な思考を捨てて、相対的なリスクへと思いをはせた。
見られたら必ず殺さなくてはいけないという、己自身に課したはずの不文律を外側から俯瞰して検討しはじめた。
本来ならありえないはずの変節。
ただ、目の前の存在が放つ、あまりにも透徹して完成された在り様に圧倒されたのかもしれない。
「ふ、ふふっ」
馬鹿馬鹿しいように笑ってしまった。
もう、取り返しのつかないところまで来ていることを思い出す。
およそ、やるべきことの大半は終ったといっていい状態なのだ。
今更。
こんな情報が漏れたところで何ができるというのか。
どれだけ超常的で異様なものだとしても、誰か何かがどうこうできる段階はもう完全に過ぎ去っている。
そこまで冷徹に計算をしつくした。
いや、単に納得させようとしただけかもしれない。
どちらでもいい。
「……」
かちゃりと。
剣呑な機能を持つ、手のひらサイズの物体を脇に置いた。
「よろしいのですか?」
心からこちらを気遣うように言う。
いや、心なんてない。
エレーナという構造体のあるべき反応だけ。
「君の価値はこんな風に失うほどには小さくないらしい」
改めてクッションに身を沈めながら、疲れたようにやっとそれだけを口にする。
確かなのは、どうやら俺はこの女を処理せずに済んだことを、想像以上に安堵しているということだけだった。




