13.海上にて
モナ女王は、かねての約束どおり、玲子にピアノ演奏を依頼した。演奏場所は、二千人を収容できる豪華客船の中である。
この客船は、サン・ライズS号といい、地中海の国々を周遊する外国の船である。スラノバ国に寄港するにあたって、三日間、スラノバ国でピアニストを推薦することができた。モナ女王は、そのピアニストとして玲子を指名したのだ。
玲子は、こんな豪華客船でピアノを演奏したことが無かった。
「立派な船ね」
「本当、夢みたいだわ」
船の中で玲子とマリアは、うなずき合っていた。
マリアは玲子の助手として乗船している。
玲子の演奏時間は、午前十一時と午後四時に一時間ずつである。それ以外の時間、玲子は自由に船の中を散策できる。
コンサートで玲子がピアノを演奏すると、必ず付近の魚たちが船の周りに集まってきた。イルカやクジラの姿も、船から見えた。
だから玲子の演奏は、別な意味で乗客に人気がある。観客は途中から席を立ち、甲板に出てクジラやイルカを眺めるのである。
そのため、最後までコンサート会場で玲子のピアノを聴いてくれる人たちは、半分もいない。それでも玲子は、最後まで聴いてくれる観客のために一生懸命に演奏した。
船上での三日目の演奏の日、船着き場でマリアは、意識を集中して船へ乗り込む人を一人一人確認していた。
なぜならば、今日はマリアが予言した玲子の危険な日だった。だが、マリアの能力を持ってしても、本日の乗船客で危険そうな人は一人も見つからない。
すると、乗船客の一人がマリアに手を振った。マリアが目を凝らして見ると、イブラハムだ。思わずマリアが駆け寄った。
「イブラハムさん。どうしてここへ?」
「今日が玲子の危険な日だとマリアが教えてくれただろう? 俺もいたほうが良いと思ってね」
「イブラハムさん、ありがとう」
マリアは、イブラハムの腕に思いきり抱きついた。イブラハムの心づかいが嬉しかった。
「ところでマリア、俺も乗船客を調べたのだが、不審な人はいないようだ」
「イブラハムさん。そうなのよ。私も調べたけど、誰一人として危険そうな人はいなかったの。私の予感、外れたのかな?」
「危険な予感なら、外れたほうが良い。そうすれば、俺は今日一日じゅう客船でのんびりできる」
イブラハムはマリアのおでこを人差し指で軽く押し、笑っている。
玲子も、イブラハムがわざわざ駆けつけてくれたことを知り、イブラハムに感謝した。
イブラハムは、午前中のコンサートを聴くと、玲子やマリアと一緒に昼食をした。
「マリア。邪悪な人から玲子が襲われるというよりは、玲子自身が誤って海に落ちるかもしれないな」
イブラハムが茶化すと、玲子が頬を膨らませる。
「おあいにくさま。甲板には手すりがついているので海に落ちる心配はありません」
確かに、この船の甲板は、全て手すりで覆われている。しかも、その手すりは定期的に点検されており、壊れることはなさそうだ。
「マリア。玲子が安全だと分かったので、俺は午後から船内のカジノで遊ぶとする。何か用があったら携帯電話へ連絡してほしい」
「イブラハムさん、わかったわ」
マリアに手を振り、イブラハムはカジノに向かった。
やがて、午後のコンサートも問題なく終了した。
演奏が終わり、玲子は、マリアと一緒に甲板の手すりにつかまり、夕陽を見ている。
玲子は、船から見る夕陽が大好きだ。一日目も二日目も、同じ場所で夕陽を見ていた。
地中海の水平線に沈む夕陽が美しい。特に船から眺める日没の瞬間は格別だ。何度見ても玲子は見飽きることが無かった。
不思議な感覚だった。以前にも船の上から沈みゆく夕陽を見ていたような気がする。だが、それがいつだったのか、玲子は思い出せない。ただ、懐かしい気持ちが呼び覚まされる。
すると、船内放送でマリアに呼び出しがあった。
落とし物のようである。
「なんだろう。玲子姉さん、ちょっと待っていてね。すぐ戻るから」
マリアは急いで船の総合受付に行った。
総合受付は、甲板から三階下ったところにある。
「マリア・フランクといいます。先ほどの落とし物の連絡で来ました」
すると受付の人が大きな封筒を開き、
「親切な人が届けてくれたのよ」
と、言いながら財布を渡した。
財布には、千ドルが入っており、次のように書かれていた。
『この財布を拾われた方は、連絡していただければ謝礼に二割差し上げます。マリア・フランク』
それを見てマリアは驚いた。自分の財布ではないし、自分の筆跡でもない。
「この財布は私のものではありません」
マリアが財布を返すと、受付の人が、
「でも、マリア・フランクと書いてあるわよ」
「私の財布は、ここにあります」
マリアはバッグから自分の財布をだした。
確かに色も形も違う。
「私と同じ名前の人は、この船に乗られていないのでしょうか?」
「さあ、それはわかりません。予約無しで乗船される人もいますし」
受付係の人がそう答えた瞬間、マリアの背筋に悪寒が走った。それは身の毛もよだつものだった。
(……玲子姉さんが危ない)
「失礼します」
マリアはそう告げると、デッキに大急ぎで向かった。
エレベーターがなかなか来ない。待ちきれないので階段を使い、駆け足で上った。
息を切らしながら、さっきまで玲子と一緒にいた場所に戻ってみると、玲子がいない。
「玲子姉さーん」
マリアは、大声で叫んだ。
だが、返事はない。
海上を見たが、薄暗くて見えない。
しかも、船は時速二十ノットの速さで進んでいる。玲子が海に落ちたのならば、既に後方の海上にいるはずだ。
周りを見渡したが、人影は無い。夕日が沈み終えたため、乗船客は、室内に入ったようだ。
マリアは、急いで総合受付に戻った。
「人が海に落ちました。今すぐ救命艇を出して下さい! 急いで!」
マリアの剣幕に圧倒され、受付の女性はチーフを呼んだ。
チーフのサダトは、マリアに尋ねた。
「落ちた人は誰ですか?」
「白井玲子。船のピアニストとして三日前から演奏していた女性です。年齢は十九」
「いつ海に落ちたのですか?」
「五分ほど前、私が受付に呼び出されたときです」
「落ちるところを、あなたは見たのですか?」
「見ていません。でもわかるんです」
「それでは落ちるところを見た人は、いるのですか?」
「いません。でも私にはわかるんです。玲子姉さんは、誰かから突き落とされた」
「まずは船内放送で呼び出しましょう。そしてマリアさんは、私と一緒に玲子さんの部屋を確認しましょう」
「そんな余裕はありません。今すぐ救命艇を出して下さい」
マリアは焦っていた。一分一秒の遅れが、玲子の命を危うくする。自分の言うことを信じてくれないサダトに対して、マリアは苛立った。
「マリアさん。これは規則です。誰も玲子さんが落ちるところを見ていないし、あなたは彼女の部屋に確認しにも行っていない。彼女が部屋に戻っているかもしれません」
サダトの説明は、マニュアルどおりの内容だ。しかし、マリアには、それが苛立たしい。
サダトと一緒に急いで部屋へ行った。だが、部屋には鍵が掛かっている。
サダトはマスターキーで扉を開け、室内を確認した。
「戻ってきていませんね。今度は甲板へ行ってみましょう」
サダトが言うと、マリアは、サダトをせかしながら甲板へ行き、玲子と一緒にいた手すりの場所まで案内した。
「ここです。ここで待ち合わせをしました。早く、救命艇を出して下さい」
するとサダトは、船の舵の上部に引っ掛かっているハンカチを見つけた。
「あれは?」
サダトの質問に対して、
「あれは、玲子姉さんのハンカチです」
確かに、玲子のハンカチだった。
「今から救命艇を出します」
サダトはマリアに告げると、携帯電話で隊員を集めた。
「私も一緒に探します」
マリアは素早く告げた。
まもなく甲板から救命艇が降ろされ、サダトとマリア、それに隊員二人を乗せて出発した。
マリアが受付に救助を依頼してから既に十五分経過している。玲子が落ちたと思われる時間からは二十分経過している。
船は、時速二十ノットの速さで進んでいるので、玲子が落ちた位置からは、およそ十二・五キロメートル離れている。玲子が落ちた場所まで到着するのに、さらに十分以上かかることになる。
「海面に浮いていれば良いが、海中に沈んだら見つからない。それに、この辺りは鮫が多い」
サダトの説明を苛立つ思いで聞きながら、
(だから急いでと言ったのに…)
と、マリアは心の中でつぶやいた。
しかし、今、サダトと喧嘩しても意味がない。それよりも、協力して探すほうが有効だ。
マリアはそう判断した。
「玲子姉さーん。どこなのー」
マリアたちは、必死に探した。
しかし、夕陽は沈み、海面は暗い。サーチライトで照らしても、明るい範囲は限定される。
すると、マリアは、イブラハムの言葉を思い出した。
『何か用があったら携帯電話へ連絡してほしい』
「私はバカだ。こんなときにイブラハムさんがいたら、玲子姉さんをすぐに見つけられるのに」
マリアは激しく後悔し、急ぎイブラハムに電話した。
しかし、イブラハムの携帯電話は、電源が入っていないようだ。
(おかしい。彼は、決して携帯電話の電源を切ることはしないはず…。イブラハムさんの身にも何かが起こっている…)
マリアは直感した。
話は、一時間前まで遡る。
マリアが船内放送で甲板から離れた後、玲子は一人で夕陽を見ていた。
さっきまであった夕陽が、ほぼ水平線に沈んでしまった。あたりは少しずつ薄暗くなっていく。
玲子は、まだ薄明るい西の空の景色に集中している。
すると、後ろから駆け寄ってくる足音がした。
思わず振り返ると、見知らぬ男が目の前まで来ていた。
男は、背が低いが体格が良い。その男は、いきなり玲子の両足を掴み、持ち上げた。
あっという間の出来事だった。玲子は、甲板の手すりから海に突き落とされた。
「きゃー」
叫び声とほぼ同時に、玲子は海面へ落ちた。
突き落とした男はマックである。
なぜ、マックがここにいるのか。
その理由を説明するには、昼時点まで話を戻す必要がある。
「マック。今日はクルーザーを貸し切って、地中海の海でバカンスを楽しもう」
ジョンが昼食を食べながら、マックに提案した。
「せっかくスラノバ国に来たのだから、たまには楽しもうぜ」
マックは釣りが趣味だった。
「ジョン、それならば、俺はクルーザーで魚釣りをしたい」
「よし、一緒に魚釣りをしよう。良い漁場を見つけたぜ。そこへ行こう」
ジョンはそう言うと、電話をかけ、クルーザーを予約した。
二人は、午後二時に予約した店へ行くとクルーザーに乗り込んだ。
「どこのボイントに行くのか?」
マックがジョンに尋ねると、
「じきにわかる」
ジョンは行先を告げず、船を操縦した。
一時間ほど航行すると、大きな船に遭遇した。
船の側面には、『サン・ライズS号』と書いてある。
「ここが漁場だ」
ジョンが告げると、マックは信じられない顔をした。
「こんなところで魚は釣れっこないよ。ジョン、気がおかしくなったのかい?」
「いや、まもなく魚が集まる。必ず釣れる」
ジョンは、自信を持って答えた。
やがて、午後四時になり、船からピアノの演奏が聞こえてきた。とても美しい音色である。まるで心にしみわたるような演奏だった。
「魚が集まって来たぞ」
ジョンの言葉どおりに、沢山の魚が船の周りに集まって来た。
釣糸を海面に入れると、すぐに釣竿に当たりが来た。
「本当だ。入れ食い状態だ」
マックは嬉しそうに、魚を釣り続けた。
約一時間後、船からのピアノの音は、聞こえなくなった。
「まもなく魚たちが船から離れる。もう釣りは終わりにしよう」
ジョンは釣り糸を引き上げ、釣竿を片づけ始めた。
ジョンの説明は信じられなかった。だが、海面を見ると、確かに魚たちは、姿を消していた。
「それにしても、大漁だったぜ」
マックは久々に釣りができて嬉しそうな表情だ。
「そうだな、ひさしぶりの大漁だ。毎日こんなに釣れるなら、漁師になってもいいな」
ジョンも、あいづちをうった。
ジョンは釣竿をケースに入れると、マックのほうを振り向きざま、
「いけない。タバコを切らしてしまった。マック、すまないがサン・ライズS号の甲板にタバコの自動販売機があるので、買ってきてくれないか。後片づけは俺がやっておく」
「買うといっても、どうやってあの船に乗り移るのか?」
マックが尋ねると、ジョンは船の側面を指さしながら、
「あそこに非常扉がある。このフックつきロープで、あそこの手すりに引っかければ、マックの体力ならば、簡単に船に乗り移ることができる」
ジョンは、フックつきロープをマックに渡した。
「しかたないなぁ」
マックは、渋々引き受けた。
「あっ、そうだ。甲板に行く途中に総合受付を通過するので、この封筒を受付の姉さんに渡してほしい」
ジョンが棚に置いてある封筒を取り出し、マックに渡した。
縦三十センチ、横十五センチほどの封筒だった。中には何やら固いものが入っている。
「封筒の中身は何だ?」
「中身は知らなくて良い。危険なものじゃない。受付の人から尋ねられたら、『俺も知らない。さっきの寄港地で見知らぬおばさんに頼まれた』と言えばいい」
マックは訳がわからないまま、ジョンの頼みを引き受けた。
フックつきロープを船の手すりにひっかけ、ロープを伝って、非常口から船内へ入った。
途中、ジョンが説明したように、総合受付があった。
「すみません。これを受付の人に渡してほしいと頼まれました」
マックは、封筒を受付に渡した。
「中身は何でしょうか?」
「実は俺もわからない。さっきの寄港地で、知らないおばさんから総合受付の人に渡してほしいと言われたので」
マックがそう告げると、受付の人は封筒の封を切り、中身を取り出した。現れたのは牛皮でできた茶色の財布だった。高級感があふれる色合いだ。
「落し物のようね。ありがとうございます。あなたのお名前を教えてください」
「名乗るほどの者では無いよ」
そう言うや否や、マックは甲板のほうに上って行った。
このときのマックは、善人そのものだった。さっきまで趣味の釣りに没頭できたため、目元が穏やかだった。人を殺すことに無上の喜びを感じるマックではなかった。彼は、休日のときの顔と仕事のときの顔とが、著しく違っている。
不思議なものである。マックの生活は、仕事の時間が三割で仕事以外の時間が七割だ。つまり、マックは人生の七割を穏やかで善良な顔をして過ごしている。そのときはもちろん、家族や仲間に親切だ。それどころか、見知らぬ人に対しても優しい。
プロの殺人者とは、案外そのような性格かもしれない。
マックが甲板に着くと、タバコの自動販売機があった。
しかし、ジョンが指定した銘柄のタバコは売っていない。
マックは、携帯電話でジョンに連絡した。
「ジョン、お前の指定したタバコの銘柄は、自動販売機では売っていないぜ。何を買えば良い?」
すると、ジョンは、マックが驚くことを告げた。
「マック、今から言うことをよーく聞いてくれ。一度しか言わないから」
「ジョン。いきなりどうしたのだ?」
「甲板の後部の手すりに、玲子がいるはずだ。マリアは、今、総合受付にいる。今なら玲子を殺れる。但し時間は無い。間もなくマリアが戻ってくるからな」
マックは、甲板の後方を見ると、確かに玲子がいた。
「でもどうやって殺るのだ。おれはナイフも銃も置いてきているぞ」
「簡単だ、海に突き落とせばいい。玲子は夕陽に集中している。一気に玲子のところまで駆け寄り、海に突き落とすのだ。ためらっている時間は無いぞ。間もなくマリアが来る」
「でも、玲子を海に落とした後、俺はどうやって逃げるのか?」
「玲子と一緒に海に落ちれば、俺が船ですくい上げる」
ジョンは、それだけ告げると電話を切った。
(ジョンの奴は『ためらっている時間は無い』と言っていたな)
マックは、ジョンの言葉を思い出し、決心した。マックの目つきが急に変わった。殺人者の目つきになった。
マックは、玲子の場所に駆け寄った。そして、振り向いた玲子の両足をつかみ、海に突き落とした。さらに、マック自身も海に飛び込んだ。
まさに、一瞬の出来事だった。
玲子は、あまりにも突然のことだったため、何が何だかわからなかった。自分がどんな状況かもわからないまま、海に落ちた。かろうじてあげた悲鳴は、海面に落ちたため、途中で途切れてしまった。
マックが着水すると、直ちにジョンがクルーザーで迎えに来た。マックが非常口にかけておいたフックつきロープは、ジョンが既に回収しており、それをマックのほうへ投げた。マックはロープにつかまり、いとも簡単に船に上がった。
マックが着水してからクルーザーに上がるまで、わずか十二秒だった。そのことだけでも、ジョンがいかに念密に計画を立てていたかがわかる。
マックが海面を見ると、手足をばたつかせて必死に浮いている玲子がいた。
「今なら銃で玲子を殺れるが、どうする?」
ジョンに尋ねると、
「銃を使ったら証拠が残る。じきに玲子は溺れるか鮫に食われる」
ジョンは玲子を無視し、舵を切り、クルーザーを急発進させ、この場から離れた。
しばらくするとジョンは、クルーザーを自動運転にした。
「マック。騙すような真似をしてすまない」
ジョンはマックに詫びた。彼が自分から謝るのは珍しい。
「ジョン、最初から玲子を殺るつもりだったのか?」
「アセフからの報告で、玲子がこの船に乗っていることは知っていた。俺は一昨日と昨日、船に乗り込み、玲子の行動パターンを調べた。その結果、夕陽を見ている最中ならば殺ることができると判断した」
「それならば、なぜ、俺に教えてくれなかったのか?」
マックは、ジョンが教えてくれなかったことが不満のようだ。長年マックはジョンとパートナーを組んで、多くの仕事をこなしてきた。マックにすれば、ジョンは何でも話せる最高の友達だと思っていた。その最高の友達に隠し事をされたことが、マックには許せなかった。
「マック、すまない。だが、マリアに見つからないようにするには、殺気を消して船に乗り込む必要があった。だから、あえてお前には、最後まで教えないようにした。決してお前のことを裏切ったわけではない。俺だってお前を最高の友達だと思っている」
ジョンの真摯な態度に、マックの感情は幾分落ち着いた。そして、ジョンが秘密にした理由も、マックは理解した。
「だから、マリアに気づかれずに、甲板まで上がって行けたのか」
「そうだ。マックが殺意をいだいたとき、マリアは総合受付に呼び出されていた。だから、おそらくマリアは、マックの殺気を感じ、急いで甲板に戻っただろう。だが、マリアが甲板に戻ったとき、既に玲子は海に落ちていた」
説明を終えたジョンは、マックを乗せたクルーザーで港に向かった。
今から十分前、海に落ちた玲子は、突然の出来事で、頭の中が混乱していた。わかっているのは、船から突き落とされたということだけである。
玲子はすぐさまハイヒールを脱ぎ捨てた。そして足を前後にバタつかせ、何とか浮くことができた。
海上を見ると、玲子を突き落した男がクルーザーに乗り込んでいた。
「私も助けて!」
玲子は溺れながら叫んだ。
だが、クルーザーは去ってしまった。サン・ライズS号も、玲子が海に落ちたのに気づかず、去って行った。
その後、玲子は途方に暮れた。岸までは、五十キロメートル以上離れている。海面はだんだん暗くなっている。このままでは救助船が来ても、誰も玲子に気づいてくれそうにない。
「ああ、私は、ここで死ぬのね…」
玲子は、絶望感に苛まれ、諦めかけた。
すると、遠くから、
「玲子―」という声が聞こえる。
「誰だろう?」
声に励まされ、玲子は生きる希望を持った。
声は、少しずつ近づいてきた。声の主は、イブラハムだ。イブラハムは、泳いで玲子のところへ辿り着いた。
「玲子すまない。俺がついていながら」
イブラハムは息を切らしながら、玲子に謝った。
「イブラハムさん、来てくれてありがとう」
玲子は、イブラハムにしがみつき、涙を流した。
「もう、誰も助けに来てくれないと思っていた。でも、あなたが来てくれた。それだけで嬉しい」
玲子の言葉は、切実だった。
「でも、どうして私が海に落ちたと分かったの?」
「突然、船内に殺気を感じた。そして、玲子の悲鳴が俺の心に聞こえた。俺は玲子が海に落ちたと直感した。だから俺は迷わず海に飛び込んだ」
イブラハムの説明を聞いた玲子は、思わず噴き出した。
「イブラハムさん、直感だけで海に飛び込んだのですか? 私が海に落ちていなかったら、イブラハムさんだけが溺れ死ぬことになりますよ」
「そのときは、そのときだ」
イブラハムも笑った。そして続けて、
「俺は玲子を守るとマリアに約束した。俺は約束を破らない。だから安心してくれ」
と、玲子の両肩を優しく抱きしめた。
玲子は、イブラハムの誠意が嬉しかった。玲子は泣きながら笑い、イブラハムにしがみついた手に力を込めた。
イブラハムの心は暖かい。イブラハムと一緒にいると、それだけで何とかなると安心する。さっきまで絶望感だけが渦巻いていた玲子の心に希望の灯が灯った。たとえ岸から五十キロメートル以上離れていても、全然気にならない。
人間は希望さえ持っていれば、どんな困難な状況でも生きていける。イブラハムはまさに希望の源だ。
「玲子、これから南西の方角へ二キロメートルほど泳ぐ。疲れたら言ってくれ。そのときは休憩する」
「えっ。でも海岸は南の方角よ。しかも五十キロメートル以上あるわ」
「だから南西へ向けて泳ぐ。そこには建設中の浮体式風力発電施設がある。距離にして二キロメートルほどだ。玲子にも建設中の灯が見えるはずだ。頑張ろう」
イブラハムの説明を聞き、玲子はさらに希望を持った。確かに南西の方角に灯が見える。しかも二キロメートルであれば、休みながらなんとか泳げる距離かもしれない。玲子のペースに合わせ、二人は南西へ向けて泳ぎだした。
だが、一キロほど泳いだ時点で、玲子が疲れきってしまった。
無理もない。玲子は元々運動が得意ではない。しかも、スカートを穿いており泳ぎづらい。さらに、外海は極めて波が高く、息継ぎをするのも大変だ。
「玲子、俺の背に乗れ」
なんと、イブラハムは、玲子を背に乗せて泳ぎだした。驚くべき体力である。
玲子を背に乗せると、当然イブラハムの体が沈む。イブラハムは息継ぎをするときだけ口を海上に出し、それ以外は海中に体を沈めて泳ぎ続けた。
泳ぎ始めて二時間ほど経ったとき、二人はようやく建設中の浮体式風力発電施設に到着した。
建設中なので夜間は無人だ。それに浮体部分は九平方メートルほどしかない。しかも水面から三十センチメートルほどの高さだ。波が来れば当然波しぶきを受ける。それでもイブラハムと玲子は浮体部分に体を乗せた。二人で寝そべり体を休める。
「これでようやく休憩できる。朝までこの状態でいることができれば良いが…」
イブラハムにしては珍しく、心配顔だ。
「何か心配ごとがあるの?」
玲子が尋ねると、イブラハムが重い口を開いた。
「この辺りは鮫が多い。この高さだと、大型の鮫ならば海面をジャンプし、俺たちを襲うことも可能だ」
「鮫に見つからないように祈るしかないわね」
「そうだな。俺が見張りをする。玲子は寝て体を休めてくれ」
「イブラハムさん、ありがとう」
そういうと玲子は目を閉じた。よほど疲れていたのだろう。瞬く間に玲子は深い眠りにおちた。
一時間ほど経ったとき、玲子はイブラハムに起こされた。
「イブラハムさん。どうしたの?」
寝ぼけまなこをこすりながら尋ねると、イブラハムは、意外なことを告げた。
「誰かが迎えに来る」
「えっ。誰?」
「…わからない…。だが、間もなく来る。俺の勘がそう叫んでいる」
すると突然、目の前の海面が割れ、陸地が浮かんだ。いや、よく見ると、陸地ではない。鯨の背中のようだ。
「クー」と、鯨が鳴いた。
懐かしい声だった。
「ピンキーか?」
イブラハムの声に対し、鯨は返事をするように頭を上下に振り、
「クー」と鳴いた。
「そうかピンキーか。大きくなったな」
イブラハムは、ピンキーの頭を撫でた。
イブラハムたちを迎えに来たのは、マッコウクジラのピンキーだった。ピンキーは久しぶりにイブラハムに会えたため、頭を上下に振り、喜んでいる。
全長は、以前四メートルだったが、今では六メートル近くになっている。
ピンキーは、背中に乗るようイブラハムに言っているようだ。
「ピンキー。俺たちを乗せてくれるのか。ありがとう」
イブラハムは玲子の手を取り、ピンキーの背中に乗せた。それからイブラハムもピンキーの背中に乗った。
「さあ、出発だ!」
イブラハムの掛け声とともに、ピンキーは、
「クー」と鳴き、港へ向けて出発した。
ピンキーの背中で、イブラハムが前に座り、後の玲子は、落ちないようにイブラハムの腰に手を回している。
「ピンキーって、以前、クレタ島でイブラハムさんが助けた赤ちゃん鯨の名前ですよね」
「そうだ。あのときに比べて大きくなっている。俺たちを港まで連れて行ってくれるそうだ」
「ピンキー。ありがとう」
玲子が言うと、ピンキーも、
「クー」と返事した。
「ピンキーは、どうやら玲子のピアノ演奏を聴いていたようだ」
「えっ。本当ですか?」
「多分そうだ。そうでなければ、玲子の言葉にピンキーは反応しない」
「ピンキー。あなた、私のピアノ演奏を聴いていたの?」
「クー」
ピンキーが返事した。
「嬉しい。私、鯨さんとお話しできちゃった」
玲子は、とても嬉しそうな表情をしている。
やがて、ピンキーは二人を乗せて、最寄りの港に入った。
「ピンキー。向こうの桟橋のところで下してくれないか」
イブラハムが桟橋を指さすと、
「クー」
と、ピンキーが頷き、桟橋へ向かった。
桟橋では、フェリーの出航準備をしており、多くの人でにぎわっていた。
「あれは何だ!」
誰かが沖を指さして叫んだ。
周りのものが指さす方を見ると、沖には何か黒いものが見える。しかも、それが近づいてくる。
「鯨だ。しかも、背中に人が、二人乗っている」
「こちらに向かって来るぞ」
桟橋の人たちは、背中に人を乗せた鯨が沖あいから近づいてくるのに驚いた。桟橋は瞬く間に騒然となった。
偶然、野外音楽祭が港の公園で先ほどまで催されていたため、テレビ局のリポーターが取材に来ていた。
テレビ局の人たちは、テレビカメラでイブラハムと玲子が桟橋に到着する様子を撮影した。
玲子とイブラハムは、桟橋にいる人たちの手を借りて、ようやく陸地を踏むことができた。
「ピンキー。ありがとう。おかげで助かったわ」
「ピンキー。ありがとう。助かったよ」
玲子とイブラハムが、ピンキーにお礼をいった。
それを合図に、ピンキーは「クー」と鳴き、桟橋から離れ、沖に向かった。
「ピンキー。また、会おう!」
去っていくピンキーに向かって、イブラハムは大声で叫んだ。
「クー」
ピンキーも大きな鳴き声で返事した。




