XIV.行軍 ――後編――
XIV.行軍 ――後編――
夜。今度は、この石だらけの世界で目を覚ます。
下宿で寝たときは、確かとっくに日が沈んで暗くなっていたはずだが、こちらの世界ではまだ空に夕日の最後の残照が西の空をうっすらと紫に染めている。テントを出てパンとソーセージの夕食を取り、珈琲を飲む。たまにはもっと豪華な食事がしたいと思うものだが、「必要の袋」から出てくるのはこんなものばかりだ。贅沢なメシは「必要」ではないということか?確かに、パンはしっかりと小麦の味がする本格的なものだし、ソーセージも深みのある味で、珈琲もそれに負けない風味を持っていて、これはこれで中々悪くはないかもしれない。
暗くなりゆく空を眺めながら食事を終え、荷物をまとめて緑の道を歩き始める。昨夜と同様、遠くに近くにと獣の気配を感じるが、ランタンの明かりを警戒してか近寄ってはこないようだ。腰の短剣を握りしめながら速足で歩き続けると、空には星がきらめきだし、月のない空いっぱいに輝きだした。
やがて、道の脇にひざ丈ほどの石が見えてきた。今夜一つ目の里程標だ。珈琲を飲んで短めの休憩を取り、すぐに歩き出す。相変わらず、獣の動く音が聞こえてくるが、だんだんとその数が増えてきたように感じる。
足を速めながら歩き続けるが、徐々に周囲の物音が近づいてきて、時折、ランタンの光がかすかに届くか届かないかの距離に動くものの影が見えるようになった。すぐに反応できるように、腰の小刀を抜く。ランタンの灯を反射して、銀色の刃がギラリと闇に光る。
そのまま、緊張状態のまま歩き続け、二つ目の里程標までやってきた。周囲の獣のことを考えると、歩みを止めるのは危険だが、かなり速度を上げて歩いたので疲労も大きく、どのみちどこかで休まねばならない。実際、既に足が重くなってきている。仕方がないので、この里程標を一区切りということにして、火を焚いて一度落ち着くことにした。
ランタンを地面において、「必要の袋」から薪と火打石を取り出し、小刀を握ったままで火を熾す。できるだけ薪をたくさん使って大きな焚火にして、そこから火のついた薪を何本か移動させて、小さな焚火を周囲にも数カ所めぐらせる。これで、比較的離れた場所まで見張ることが出来るようになった。野獣の群れからも、少し距離を広げられたように見える。これまで、ランタンの灯だけで周囲の獣との距離を取ってきたが、焚火を燃やして大きな火を拠り所にすると、少し安心感が訪れた。
周りを取り囲む獣たちは、大きな火を恐れて先ほどよりも距離をとるようになったが、その数はだんだんと増えてきている気配がする。そして、一度離れた距離も徐々に近づいてきた。明かりが届くところに、時折その獣の姿が見える。オオカミだ!或いは、コヨーテや野犬のようなものかもしれないが、犬に似た獣の姿が闇の中から見え隠れしている。
これはいよいよ、この小刀を使う覚悟をしなくてはならないようだ。「必要の袋」から薪を取り出して、焚火にくべて廻りながら周囲を警戒する。焚火の熱と緊張とで異常なほど汗が噴き出てくる。
やがて、「オオカミ」たちの中でひときわ大胆な一匹が、焚火の光の届く範囲に入ってきて、ジリジリとこちらに近づいてくる。小刀を前に突き出して、対峙するが、正直なところリーチが不安だ。
ついに、しびれを切らしたそのオオカミが跳びかかってきた。反射的に小刀で払うが、その刃先がむなしく空を切るのを感じ、強い痛みと共に左腕が地面に引っ張られる。オオカミが腕に咬みついて引き倒そうとしてきているのだ。思わず、その喉に小刀を突き刺す。刃物が肉に食い込むグニャリとした感触と共に、左腕が軽くなった。オオカミは、首から血をしたたらせて、よろめきながら後ずさりしていく。目の前の敵は退けたが、興奮した他のオオカミたちが唸り声をあげながら近づいてきた。一対一ですら腕をやられてしまったのに、二匹以上で来られたらひとたまりもない。
迫りくるオオカミたちとの間合いがギリギリまで縮んだかと思ったその時、焚火を取り囲む群れの動きがピタリと止まった。奇妙な静けさの中、パチリ、パチリ…と薪の燃える音が響き渡る。しばしの沈黙の後、オオカミたちが何かにおびえたように後退し始めた。
群れの背後から何かが近づいてくる。それと同時に、オオカミが苦しんでいるようなうめき声が聞こえ始めた。その何かが近づいてくるにつれて、うめき声が聞ける場所も近くなってくる。そして、その何者かが明かりの届くところに近づいたかと思われた時、目の届くところでもオオカミが苦しみだし、息荒く、口から涎を垂れ流し、そして、地面に倒れて痙攣し始めた。それと同時に、その何かの居る方角から黒い霧のようなものが漂って来ていることに気づく。腐臭が漂い、虫の羽音のような低い持続音が耳を捉える。
「始まりの森」の時と同じだ。あの時の黒い塊がここまでやってきたのだ。やがて、焚火の光が届くところまで、その何かがやってくる。光に照らされているはずなのに、そいつの姿は暗闇そのもので、その形を見ることはできない。二つの白い目だけが、はっきりとその黒い塊の中からこちらを見ている。
目が合った。そう思った時、そいつはこちらに向けて進みだした。小刀を向けようとするが、体が重く思うように動かすことが出来ない。一方、オオカミに噛まれた左腕は、恐怖のために全く痛みを感じなくなっている。
何とか腕を上げて切っ先を黒い塊の方へと向けた。刃先がそいつに触れるか触れないかというところまで接近している。手足の震えが止まらないが、逃げることも出来ない。
もうこれまでか…。
そう思って、小刀を持った右腕に意識を集中した時、刃先が眩く輝いた。同時に周囲にも光が射す。その光が目の前の黒い塊を包み込むと、その黒い塊は幻の如く消えていった。
一体どうしたことかと辺りを見回す。なんということはない、朝陽が射したのだ。朝の太陽の最初の一筋の光が全てを一掃したのだ。
周囲には、燃え残りの焚火がくすぶり、そのもっと外側には何体ものオオカミの死骸が無残に転がっている。生き残ったオオカミたちは、既に何処かに行ってしまったようだ。ようやく安堵することが出来、忘れていた左腕の傷が痛みだす。服を脱いで確認してみると、傷跡こそ皮膚が切り裂かれて見るも無残だが、傷そのものはそれほど深くはない。噛まれたのが服の上からだったのが幸いしたのだろう。「必要の袋」から包帯と壺に入った薬を取り出して手当をすると、痛みも和らいできた。
色々と安心して、急に疲れを感じ始める。しかし、この場所からは一刻も早く離れたいと思い、日が高くならない内にもう少し歩くことにした。まだ、足は元のようにしっかりしないが、一歩一歩、何とか歩く。次第に足に力が戻り、しっかりと歩けるようになった。
朝の光の中で道を進み、そろそろ休もうかと思っていたところ、「城壁の森」がかなり近づいていることに気づいた。遠くからでは水平線上に黒い線が続いているくらいにしか見えなかったが、ようやく遠目に森だと判るくらいの距離まで来たのだ。
体力を考えて小休止を取り、軽食に珈琲を飲む。これで、かなり気持ちが落ち着いてきた。昼の暑さを避けるために、大事を取ってここらで野営しようかと考えながら「城壁の森」の方を眺めていたが、思いのほか気温が上がる気配が無い。森が近づいたので、日中の暑さが少しマシになったのだろうか。砂漠を抜けたといったところなのかもしれない。そこで、思い切って日が沈むまでに森に着くのを目指すことにした。
森からの風のおかげで暑さに苦しまずにすみ、ここまでの道よりも楽に先に進むことができる。途中、里程標のところで短い休憩を取り、午後いっぱい歩き続けた。そして遂に、ここまで歩き続けてきた緑の道が「城壁の森」へと到達する。
森の入り口にはツルバラの小さなアーチがあり、そこでエルメスが俺を待っていた。




