誓い
白い花が、多すぎた。
祭壇にも、その両脇にも、同じ白い花があった。参列者の手元にも、白い花が握られていた。誰かが選び、誰かが運んできた花だ。まゆりがこの花を好きだったのかどうか、俺は知らない。知らないまま、その白さを見ていた。
読経の声が、天井のあたりで続いていた。
意味を取ろうとは思わなかった。声は声のまま、頭の上を流れていく。人の話し声も、椅子の軋みも、足音も、その下に薄く重なっていた。どれも、俺の座っている場所まで、はっきりとは届かない。
遺影のなかで、まゆりは笑っていた。
いつ撮られた写真なのか、わからなかった。〈ゲート〉の制服ではない。三人で過ごしたどの日とも結びつかない笑顔だった。俺の知らないまゆりが額縁のなかにいて、こちらを見ている。その笑みに、俺は見覚えがなかった。それがこたえた。
俺の隣に、空いた席。
葬儀の席に三人で並んだことなど、一度もない。それなのに、隣が空いていることだけが、やけにはっきりしていた。何か言えば、まゆりが応える。その応えの返ってくる場所が、ずっと俺のかたわらにあった。いまそこには、椅子の背と、白い花があるだけだ。
祭壇のそばに、まゆりによく似た顔の女の人が立っていた。
焼香に進み出る参列者の一人ひとりに、その人はゆっくりと頭を下げていた。やがて俺の順が回ってきて、祭壇の前へ進んだ。香をつまむ手のすぐそばで、その人が俺にも頭を下げた。何か言ったのかもしれない。声は読経の下に沈んで、聞き取れなかった。俺は頭を下げ返すほか、できることはなかった。目もとの形が、まゆりとよく似ていて、見ていられず、俺は視線を伏せたまま、もとの席へ戻った。
膝の上で、俺の手は、何も握っていなかった。
遺影を見ているはずだった。
なのに視界の端へ、別のものが交ざってきた。演習場の透だ。模擬戦のあと、汗を拭きながらくだらないことを言って笑っていた。何を言ったのかは思い出せない。透の軽口はいつも中身がなくて、中身がないからこそ、三人のあいだを軽く転がっていった。食堂の隅の席。まゆりが箸を止めて笑い、俺もつられて口の端をゆるめた、何でもない昼。
並木道で、透の歩幅が一拍だけずれたことがあった。
桜の散りはじめた道の途中で、透の視線だけが、誰もいないほうへ向いていた。それでも歩みは止まらず、次の一歩はそのまま続いた。あのとき俺は声をかけず、三人の穏やかさを、自分の問いで崩したくなかった。
その透と、まゆりを岩盤の上に置き去りにした透とが、俺のなかでどうしても重ならないまま。
それでも、どちらの透もそこにあった。俺はその重ならなさを答えにしようとしなかった。考えればほどけてしまいそうな何か。それを、ほどく気になれないまま。
ほどいたところで、まゆりは戻らない。透が、まゆりを殺した。葬儀の白い花の下、俺のなかに残るのは、その一行だけ。
◇◆◇
葬儀が終わってからのことを、俺はよく覚えていない。
誰かに礼を言われ、誰かに肩を叩かれた気がする。〈ゲート〉へ戻る車に乗せられ、窓の外を景色が流れていった。その景色のことも、覚えていない。
覚えているのは、別のものだった。
採石場の窪地。剥き出しの岩盤。その上に倒れていた、まゆりの姿。敷地の縁から見下ろした、あのときが甦る。前触れもなく、勝手に甦る。
まゆりの手を取ったときの、指の冷たさ。手首の内側にだけ残っていた、薄い温み。それの消えていく速さ。応えなかった目。何か言いかけた形のまま止まっていた、唇。順番もなく、ばらばらに浮かんでは、消えた。
葬儀のあいだ、一度も流れなかった涙。
涙の出てこない場所が、胸のどこかにあった。採石場で口の中に抱えた、声にならない何か。あれは葬儀の白い花の下でも、ほどけなかった。形にならないまま、ずっと俺のなかにあった。泣けていれば、まだ楽だったのかもしれない。その楽さも、俺には来なかった。
いちばん多く甦ったのは、最初の場面だった。
窪地を見下ろしたあのとき。倒れているのがまゆりだと、目が理解するより先に、身体のどこかが理解していた。あのとき俺は声を上げただろうか。上げなかった気がする。足の下で砂利の崩れた音だけが、いまも耳の奥に残っていた。
俺は、何を見ていたのか。
あの数日、町じゅうを歩いて、何を探していたのか。探し当てた先で、何ができたのか。問いは形になりかけて、すぐに崩れた。崩れて、また別の断片に変わる。岩盤の硬さ。膝に来た痛み。月の光が窪地の底まで回ってきたこと。
透の顔も、断片のひとつだった。
戦いの途中で足を止め、こちらへ向き直った透が、「ま」とだけ言って、その先を呑み込んだ。言いたげな、としか呼べない表情。あれも、ほかの断片と変わらず勝手に浮かんできて、そのたびに俺は脇へ押しやっていた。透がどんな顔をしていたかなど、いまの俺には関わりがなかった。あいつが、まゆりを殺した。読むべきものは、その顔のなかにはない。
間に合わなかった、という言葉も、何度も込み上げた。
込み上げるたびに、それは俺を責める形をしていた。あと少し早ければ、聞き込みのどこかで半日でも詰められていれば、川沿いの倉庫をもう一棟早く開けていれば、「たられば」はいくらでも続いたが、どこにも着かなかった。
まゆりは、もういない。
どの「たられば」も、最後にはその一行へ行き着いて、そこで止まった。
◇◆◇
葬儀のあと、〈ゲート〉の窓から見える景色が、何度か色を変えた。
並木の葉が落ち、枝だけの季節が来て、また芽のふくらむころになった。そのあいだのことを、俺はあまり覚えていない。授業に出て、演習に出て、課程の修了に要るものを、ひとつずつ片づけていった。そのはずだった。身体は動いていた。動いている自分を、少し離れたところから眺めているような、そんな日々。
三人でいた場所を、俺はできるだけ通らなかった。
食堂の隅の席も、中庭のベンチも、まゆりと別れぎわに立ち止まった並木道の途中も、目に入れば、そこに二人ぶんの不在があった。透の不在と、まゆりの不在――同じ場所に、種類のちがう空白が、二つ重なっていた。
部屋の棚は、卒業のためにまとめてきた荷物の分だけ、いつのまにか半分ほど空になっていた。
残っているのは、最後に箱へ入れるものだけだ。そのなかには、三人で写った写真も何枚か交じっていて、まともに見られないまま、俺はそれを箱の底へ伏せて入れた。写真があってもなくても、三人でいられる時間は続く。あのころは、それを疑う理由がどこにもなかった。
卒業を間近に控えた、ある夜のことだった。
自室の灯りを消したあと、俺はベッドに入らず、窓のそばに立っていた。
〈ゲート〉の敷地は、夜のあいだほとんど音を立てない。並木道も中庭も、暗がりのなかに沈んでいた。三人でこの道を歩いた夜が、ずいぶん遠く感じられ、実際にどれだけの時間が過ぎたのか、数える気にもならなかった。
窓の外を見ているうちに、俺のなかで、ひとつのことがはっきりとしてきた。
はっきりした、というよりずっとそこにあったものの形が、夜の静けさのなかで、ようやく見えてきた。葬儀のあいだも、そのあとの日々も、それは俺のなかにあり続け、悲しみと混じり合って、形を取れずにいた。
まゆりは、戻らない。
それは、もう動かない事実だった。動かないのなら、俺にできることはひとつしかない。
絶対に、あいつを見つけ出す。
逃げていく背中を、俺は覚えている。岩肌の影に半分隠れて、それきり遠ざかっていった、透の背中。あれを追う。何年かかっても、どこへ流れ着いても、必ず見つけ出す。
透が、最後に口にしかけた音があった。
「ま」と、それだけ言って、透は続きを呑み込んだ。あれが何の言葉だったのか、俺にはわからない。わからないままにしておく気もなかった。透を見つけ出して、あの続きを最後まで言わせる。
まゆりの唇も、何か言いかけた形のまま止まっていた。
あれが誰に向けられていたのか、何を言おうとしたのか。まゆりはもう答えられない。答えられないのなら、俺がその続きを引き受けるしかない。透に、続きを言わせること。まゆりに、応えること。その二つが、これから先、俺の生きる理由になる。
復讐。
その言葉を、俺はこの夜、初めて自分のものとして手に取った。きれいな言葉ではないとわかっていたが、それでも、ほかに名前はなかった。まゆりのいない時間を、それでも生きていくための名前が、俺にはそれしか見つからなかった。
窓の外は、暗いままだった。
俺は、それを声に出さなかった。言葉にして外へ出してしまえば、その軽さで決意のほうが薄まる気がして、だから、俺のなかにだけ置いた。息を止めるように、深く、静かに。
絶対に、あいつを見つけ出す。
もう一度、胸のなかで繰り返した。二度目は、最初より静かで、最初より固かった。
その誓いだけを残して、俺は養成機関の課程を修了し、〈ゲート〉を出た。




