あの日
止めた息を、吐かなかった。
吐く代わりに、身体が前へ落ちた。
敷地の縁の浮いた砂利が、足の裏でいっせいに崩れ、その上を、俺は窪地の底へ向かって滑り下りた。落ちていく、それに近い。膝も、腰も、何ひとつ使わないまま、身体の重さが、俺を底へ運んでいた。
底の、剥き出しの岩盤に、足の裏が着いた。
その足が止まらずに、透のいる方へ地を蹴った。
右手は、もう脇差の柄を握っていた。いつ手をかけたのか、覚えていない。気づいたときには、抜いていた。鞘走りの音さえ聞いておらず、抜き身の刃の、その白さだけが、目の端をよぎった。
抜く、と決めた覚えはなかった。
決めるより先に、手が抜いており、脇差を抜く判断は、頭のどこも通らずに、腕の中だけで済まされていた。透を斬る。それが考えになる前に、もう動きへ変わっていた。
胸の奥から、せり上がってきたものがあった。
採石場の縁で、名前のないまま満ちた、あれだった。怒りなのか悲しみなのか、まだ理解できないまま、それは俺の腕へ降りてきて、刃の重さと混じり、ひとつの動きになった。
俺は、透との間合いを、一息で潰した。
透は、こちらを見ていた。
何をするでもなく、透はただそこにいた。手の中の鈍く光るものを下げたまま、透は動かなかった。俺が底へ下り、刃を抜き、踏み込む。その間に、透には、構える時間も、退く時間もあったはずだった。透は、そのどちらも選ばなかった。
俺の刃が、透の肩口へ走った。
届かなかった。
透が、半歩だけ退いていた。退いたというより、刃の通り道から身体の要る部分だけを外していた、最小の動きだった。俺の刃は、透のいた場所の空気を裂いて、止まった。
止まった刃を、俺はすぐに返した。
二度目は横へ薙ぎ、三度目は下から斬り上げた。どれも養成機関の数年のあいだに、透が幾度も受けてきた俺の太刀筋だった。透はそれを、知っているぶんだけ正確に外していった。
外されていることにすら、俺は気づいていなかった。
ふだんの俺なら、最初の一太刀で相手の重心を測る。二太刀目で癖を読む。三太刀目までに死角を見つけて、そこへ抜ける。幾度もの稽古で叩き込んだ手順が、俺の身体には、骨の深さでしみ込んでいた。
その手順はこのとき、ひとつも動いていなかった。
いつも俺を、いちばん底のところで支えてきたものが、まるごと静かになっていた。静かになったその場所に、重さだけが満ちていた。
だから俺は、ただ刃を振っていた。
透がそこにいて、まゆりが倒れていて、その二つをつなぐ線を、俺の身体は刃で断とうとしていた。理屈はいらない。透が、まゆりを殺した。その一行だけが、俺の中に残っていた。
透は、退き続けた。
応じては、こなかった。手の中のものを、振り上げもしなかった。俺の刃を捌き、間合いを外し、また捌く。透はそれを、繰り返していた。
岩盤の上を、俺たちは少しずつ移っていった。俺が踏み込むぶん、透が退く。透が退くぶん、俺が踏み込む。斬っているのは俺だけで、透は、斬られない場所へ動き続けているだけだ。
刃を振るたびに、胸のものがひと回りずつ重くなり、届かないことが、それをさらに重くした。透の身体に刃が触れず、空だけを切る。そのたびに、行き場をなくした重さが、次の一太刀へと積もっていった。
息が上がっていた。ここまで走ってきた息とは、違っていた。喉の奥に熱いものがあって、それが息に混じり、出入りを繰り返していた。
何度刃を振ったのか、数えてはいなかった。
そんな余裕自体、どこにもなかった。
◇◆◇
透が、足を止めた。
俺の次の一太刀が来るよりわずかに早く、透はその場へ踏みとどまった。退くのをやめ、まっすぐにこちらへ向き直った。
俺の刃が、宙で止まった。
止めたつもりはない。透が退かなくなった、ただそれだけのことに、振り下ろしかけた腕が、勝手につかえた。
透が、俺を見ていた。
見ている、というより、見ようとしていた。俺の目の奥に何かを探すように、透の視線が動いていた。斬りかかってからずっと、透の顔は退く動きの裏側にあったが、それが初めて、こちらへ、正面から向いた。
透の口が、開いた。
「ま――」
それだけだった。
ひと息ぶんの、声の頭。続きは出てこなかった。透は開きかけた口を、そのまま閉じた。言いかけた何かを、喉の奥へ呑み込んだ。
呑み込んだあとに、透の顔へ何かが残った。
言いたげな、としか呼べない表情だった。伝えそびれた言葉が行き場をなくして、そこにだけ取り残されている。そう見える顔だった。透は、しばらく動かなかった。
透の眉のあたりに、力がこもっていたが、それが何を抱えた力なのか、俺は読もうとも思わなかった。
俺は、それを見ていた。
見ていたのに、受け取らなかった。受け取るための余白は、もう一片も残っていない。透がどんな顔をしていたかではなく、透がそこにいる、という事実だけが俺の目に映っていた。
「ま」が、何の音だったのか。
言葉の頭だったのか、ただの息のかたまりだったのか。それを考える隙間は、どこにもなく、俺に届いたのは、透が口を開き、何も言わずに閉じた、その動きだけだった。動きだけが届いて、意味はひとつも届かなかった。
透が、背を向けた。
背を向けて、岩肌の切れ目の方へ駆け出した。逃げる、という動きだ。俺の刃を最後まで受け返さなかった男が、終いに選んだのはそれだった。
俺は、追った。
岩盤を数歩ぶん蹴った。透の背は、岩肌の影の方へ遠ざかっていく。距離は開く一方だったが、それでも俺の足は、前へ、前へと出ようとした。
四歩目で、止まった。
止めたのは、足ではなかった。
俺がいま背を向けている方角、そのうしろに、倒れたままのまゆりがいて、その事実が、走り出した身体を、うしろから引いた。透を追う前と、まゆりのいるうしろと、俺の身体は二つに引き裂かれた。
引き裂かれて――うしろが勝った。
まゆりをひとりにはできなかった。理由はそれだけだった。透を取り逃がすことの意味も、いま追わなければ二度と届かなくなることも、このときの俺は、何ひとつ量っていなかった。
透の背は、もう岩肌の影に半分隠れていた。いま追えば、まだ届く。脚だけは、そう言っていた。
俺は、追わなかった。
脇差を握ったまま、振り返った。
◇◆◇
窪地の底の、中央からやや外れた位置に、まゆりは倒れていた。
敷地の縁から見下ろした、あのときの位置のままだった。透が逃げても、俺が刃を振り回しても、まゆりのいる場所だけは、ひとつも動いていない。動かないものが、ただ、そこにあった。
俺は、走った。
透を追ったときには出なかった速さが、このときに限って、出た。岩盤を蹴って、まゆりのところまで、ほとんど一息で着き、その勢いのまま、膝が岩の上へ落ちた。岩盤の硬さが、膝の骨まで突き上げてきた。痛みは、ひどく遠いところにあった。
膝をついたまま、俺はすぐには立てず、透を斬りに行ったときの速さは、もうどこにも残っていなかった。
跪いた俺の正面に、まゆりの顔があった。
目は、開いていた。
開いたその目は、もう何も映してはおらず、俺が顔を寄せても、まゆりの目は俺を映し返さなかった。何日も、町じゅうを探してきた目だった。探し当てたその目に応える色は、ひとつも残っていなかった。
脇差を、岩盤の上へ置いた。
俺は、まゆりの手を取った。
冷たかった。指の先から、手の甲、手首へと、その冷たさは上ってくる途中で、手首の内側に俺の指が触れたとき、そこにだけまだ温もりが残っていた。失われきってはいない、最後の温もりだった。
その温もりが、いちばんこたえた。
間に合わなかった時間の幅が、その温さの中に、そのまま畳まれていた。あと少し早く着いていれば、届いた。その「少し」が、手首の内側の温さになって、俺の手のひらへ移ってきて、薄れていった。
もう手遅れだと、頭で結論を出すより先に、俺の身体がそれを知っていた。
それでも俺は、握った手を放せなかった。放せば、その最後のぬくもりまで、どこかへ行ってしまう気がした。理屈に合わないと、わかってはいたが、指は、まゆりの手首から離れなかった。
まゆりの唇が、わずかに開いていた。
何か言いかけた形のまま、その唇は止まっていた。安らかとも、苦しげとも、どちらともつかない顔だった。最後にまゆりが誰を見て、何を言おうとしたのか。その答えだけが、開いた唇のあいだから抜け落ちていた。問いの形が、そこに残されていた。
俺は、その顔を見ていた。
見ていることしか、できなかった。
まゆりの髪が、岩盤の上に流れ、差しはじめた月の光が、その一筋ずつを、端から仄白く浮かせていった。ずっと追いかけてきた髪の長さが、いま手の届くところにあった。届いて、それきりだった。
声が、出そうになった。
喉の奥から、大きな何かがせり上がってきた。採石場の縁で胸にとどまっていた、あの名前のないものだった。胸の中で渦巻いていたそれが、いま喉まで上がってきていた。
俺は、それを声にしようとして、口を開いた。
開いた口から、声は出なかった。
言葉にも、叫びにもならなかった。喉まで来たものは、その途中でつかえて、音の形を最後まで取れず、出口を失ったものが、ただ膨らむだけだった。
俺は、まゆりの手を握ったまま動けなくなった。
握った手のひらの中で、指先の冷たさと、手首の最後の温もりとが、混じらないまま並んでいた。
月の光が、窪地の底まで、ようやく回ってきた。
回ってきた光は、剥き出しの岩盤を、まゆりの横たわる身体を、分け隔てなく明るくしていった。何が起きたのかなど知らない光は、ただ月がそこまで昇ったから、差してきただけだった。
俺は、声にならない何かを、口の中に抱えたまま、跪いていた。
その何かは――最後まで、ひとつの言葉にも、ならなかった。




