喪失
杉林の縁を抜けてからも、足は止めなかった。
稜線の向こうの灰色の岩肌が、走るたびにわずかずつ大きくなっていった。距離を時間に換算する作業が、まだ続いていた。残りの距離は、もう長くはなかった。
採石場跡地への入り口は、崩れかけた林道の終端にあった。かつて重機が出入りしていた幅の道が、二十年ぶんの下草に侵されて、いまは人ひとりの幅まで細っていた。路面の砂利は、長く踏まれていない、浮いた砂利だった。
その細道を、俺は駆け上がった。
足の裏に傾斜がまっすぐ伝わってきて、息は、とうに走るための息に切り替わっていた。それでも胸の内側で、息とは別の速さで鳴っている何かがあった。倉庫を出てからずっと、それは止まらずに鳴っていた。
川沿いから、ここまでの距離を足は覚えていた。覚えているのに、俺はその距離をもう一度、時間に直すことをやめなかった。倉庫の毛布に残っていた、わずかな体温。湯飲みの底の、乾ききらない水の輪郭。あの温度差から読んだ「ごく最近」が、いま何分の幅を持っているのか。走りながら、その幅だけを繰り返し測り直していた。
測り直すたびに、幅はわずかずつ、こちらに不利な側へ寄っていった。間に合うか、間に合わないか。そのぎりぎりの線の、間に合わない側へ寄っていった。
最初に届いたのは、音だった。
乾いた、岩と岩のぶつかる音。ひとつ。続いて、砂利が斜面を滑り落ちていく、長い崩れの音。それきり、音は途切れた。
音は、稜線の陰の向こう側から来た。
まだ、何も見えていなかった。
何が起きて、その音が立ったのか。視界の側が、音に追いついていなかった。耳が、先にその場所に届いており、拾った断片を、俺はまだ像に組み立てられずにいた。
組み立てられないまま、不吉さが、薄く広がった。
耳は、もうその場所に届いている。目は、まだ届いていない。あと一度、稜線を越えれば、そのずれは埋まる。埋まったときに何が見えるのか。
俺は、その先を組み立てることを、自分から避けていた。
俺は、走る速度を、もう一段上げた。
林道の終端の、浮いた砂利を足の裏が蹴ると、蹴った砂利が、背後で小さく散る音が、自分の耳に届いた。さっき稜線の向こうで鳴った崩れの音と、いま自分の足が立てた砂利の音が、一瞬、重なりかけていた。
重なりかけて、すぐに離れた。
あの音は、俺の足が立てた音ではなかった。あれは、もっと向こうで、もっと前に、誰かが、あるいは何かが、立てた音だった。立てた主の像は、まだ空白のままだった。
◇◆◇
林道の終端を抜けると、採石場の敷地の際に出た。
切り立った岩肌に三方を囲まれた、すり鉢状の窪地の底は、二十年前に掘削が止まったままの、平らな岩盤が剥き出しになっていた。暮れ残りの薄い光は、窪地の上の方の岩肌のへりに痩せて乗り、底までは届ききっていなかった。
俺は、敷地の縁の高みで、足を止めた。
止めるつもりはなかった。けれども、窪地の底が一望に入った瞬間、足の方が勝手に止まった。
すり鉢の底は、二十年、人の手が入っていない場所のはずだった。立ち入りを禁じる古い看板が、敷地の縁の杭に、文字の半分を錆に食われたまま、傾いて立っていた。それより先には、足跡を残す柔らかい土はなく、ただ、硬い岩盤の広がりがあるだけだった。
視界が、ようやく耳に追いついた。
追いついた視界が、最初に捉えたのは、底の中央からやや外れた位置に倒れている人だった。
倒れている、という見え方ではなかった。
地の上に、置かれている。動かない。応えない。そういう見え方だった。
まゆりだった。
遠目にも、それがまゆりであることは、わかってしまった。髪の長さ。服の輪郭。地に伏せた身体の、細い線。何日も探し続けてきた像が、いま、岩盤の上に、動かないまま横たわっていた。
探していた像と、いま見ている像が重なった瞬間、俺の足は、縁から底へ下りる動作を忘れた。
倒れた身体の片腕が、不自然な角度で岩盤の上に投げ出され、指先は、何も握っていなかった。何かに抗った跡も、逃げようとした跡も、岩盤の上には残されていなかった。ただ、置かれた、という見え方だけがそこにあった。
その傍に、人が立っていた。
フードは下りたまま、立っている方は、まゆりの方を見下ろし、動かなかった。覆いの取れた顔が、暮れ方の薄い光の中に見えた。
透――。
首の左側面、耳の下の決まった位置。見覚えのあるその一点に、影のように薄いものが重なった。タクシー運転手と米屋の主人が、二度にわたって口にした、その痣に、見えた。倉庫で拾った、黒い布の質感。並べてきた事実の側面が、最後にひとつ、像を結んだ。
透が、そこにいた。
透の手に、何かがあった。
暮れ残りの薄い光を受けて鈍く光ったそれの形は、はっきりとは見えなかった。ただ、長さの見当だけはついた。刃物か、と読みかけたところで、俺はそれ以上、形を確かめることを自分に許さなかった。
許す前に、視線が、その下へ落ちた。
透の足元に、まゆりが倒れていた。
岩盤の、まゆりの倒れた身体の周りに広がっていた色は、薄い光の下で、鮮やかな赤だった。乾ききっていない広がりの端が、まだ濡れて照っていた。照りの幅は、時間がそれほど経っていないことを示していた。
俺は、その照りの幅から、時間を読みかけた。
読みかけて、やめた。
読んでしまえば、何がわかってしまうのか。それだけは、わかっていた。
岩肌の影にも、岩盤の上にも、ほかの人影はなく、透と、まゆりの二人だけが、底にいた。
◇◆◇
俺は、敷地の縁に立ったまま動けなかった。
動けない、というより、視覚の情報が、ひとつずつ、勝手に並び始めていた。
まゆりが、倒れている。
身体は、動かない。
赤が、広がっている。
その傍らに、透が立っている。
透の手に、鈍く光る何かがあった。
情報は、感情よりも先に、整理された。
ふだん、観察と分析にあてている回路は、止めようとしても、いまも動き続けていた。むしろ、こういうときに限って、父に仕込まれ、養成機関の数年で研いできたその回路は、いつもより速く回り、目に映ったものを、ただ順番に結びつけていった。
俺の意志とは、関わりなく。
透が、ここにいる。
まゆりが、倒れている。
透の手に、刃物のようなものがある。
まゆりの周りに、血がある。
ほかには、誰もいない。
結びついた。
結びつけるのに理屈は要らないほど、ひとつずつの事実はもう、ひとつの方向にしか向いていなかった。事実と事実のあいだに別の解釈が入り込む隙間も、否定の余地も、どこにも残っていなかった。
回路は、結論を弾き出した。
透が、まゆりを殺した。
その一行が、静かに据わった。
据わったあとで、俺はその一行をもう一度、自分の目で確かめ、崩せる場所がないか探した。
探したが、どこにもなかった。
倉庫の温度差から、まゆりは生きていると読んだ。間に合うかもしれないと走ってきたすべてが、いま、この一行の手前で止まっていた。
間に合っていなかった。
据わってから、ようやく、感情の側が追いついてきた。
追いついてきた感情は、まだ形がなく、怒りとも悲しみともまだ分かれていなかった。ただ、名前のない何かが、胸の奥からゆっくりとせり上がってきた。
その速さに、俺はもう何の役にも立っていなかった。並べることも、抑えることも、距離を測ることもできなかった。
俺の中でいちばん長く、いちばん頼りにしてきた回路が、結論をひとつ置いたきり、急に静かになった。
静かになった場所に、せり上がってきたものが、満ちた。
◇◆◇
俺は、敷地の縁から窪地の底へ向かって、足を踏み出した。
踏み出した足が、斜面の浮いた砂利を崩した。
砂利が、長く、底へ向かって滑り落ちていった。
その音に、透が、顔を上げた。
こちらを、見た。
透は、俺の姿を視界に入れたまま、動かなかった。手の中の、鈍く光るものも下げないまま、だった。
俺は、もう透の顔を、読んでいなかった。
読むための回路は、とうに止まっていた。透がいま、どんな顔をしてこちらを見ているのか。それを受け取るための余白は、もう残っていなかった。
残っていたのは、ただ、ひとつだけだった。
透が、まゆりを殺した。
その一行が、すべてを占めたまま、ほかの何も入る余地を与えなかった。
俺の身体は、もう、考えていなかった。
観察も、距離の見積もりも、間に合っておらず、間に合わせる気も、もうなかった。
足の裏が、斜面の砂利を、再び噛んだ。膝が、底へ向かって沈んだ。身体の重心が、前へ傾いた。
息を、一度だけ深く、呑んだ。
呑んだきり――止めた。




