採石場へ
〈ゲート〉の正門を、俺は通過した。
歩幅は同じでも、足を踏み出すたびに頭の中の段取りは、敷地内移動のそれとは別の重さで動いていた。
〈ゲート〉は、街から離れた丘陵の連なりの中に建てられている。最寄りの街道へ出るまでに、敷地外の長い坂道をしばらく下る必要があった。坂道の縁の杉の幹を無意識に数えながら歩き、意識を一段、外に置いておくための、子どもの頃からのくせだった。
昨夜、机の前で組み立てた段取りは、二段構え。
一段目は、書面に乗せた建前としての、亡父の墓参りだった。二段目は、その内側でまゆりの消えた経路を辿ることだった。
順番は、墓参りが先だった。書面に乗る建前を、自分の足で先に消化しておかなければ、内側で踏み越える歩幅が形から崩れる。それが、昨夜の机の上で固めた決意の順番だった。
◇◆◇
街の南の縁の霊園に、俺は午前のうちに着いた。
寮を出る前に持ってきていた線香の一束を、父の墓石の前で焚くと、煙は朝の風に薄く流れた。
父の墓石の文字は、六年前と同じ角度で、朝の光を受けていた。
俺は短く、ふだんの命日の半分ほどの時間だけ手を合わせた。短さを父に詫びる気持ちは頭の片隅にありながら、いまここで時間を伸ばす余裕は、俺になかった。
墓石の前で、線香の煙が薄く立ち上がるのをしばらく見ていた。
立ち上がった煙の輪郭が散ったところで、俺は手を下ろし、霊園の門の方へ歩き出した。
歩きながら、昨日の朝、〈ゲート〉敷地の北の塀の内側で組んだ線を、なぞり直した。女子寮の裏口、植え込みの折れ、芝生のピン、北の塀の根元に、二本の線があった。線は塀の外側の街路へ向かって外に開いており、塀の外で誰かが人を運び、街の方へ動いた、というところまでを、昨日のうちに整理していた。
ここから先は、街の話だった。
俺は、まず駅前へ向かうと判断した。早朝の人通りの少ない時間帯に、人を支えて歩く者が街の中で人目を避けて動ける動線は、いくつかに限られる。その動線が交わる位置に、駅前があった。
◇◆◇
駅前に出るまでに、俺は街路の防犯カメラの位置を確認していった。生徒の身分で正面から請求をかけても市街の防犯記録は降りないため、カメラの位置だけを地図に置き、その死角を歩いた。運び手も、同じ死角を歩いた可能性が高い。
駅前のロータリーは、朝の時間帯としては人の出が中途半端な刻限だった。
上着の内ポケットから、俺はまゆりの写真を一枚だけ取り出した。寮の自室から持ち出してきた、夏の終わりに三人で撮った中の一枚で、まゆりが正面を向き、判別に十分な自然な笑顔を見せていた。
まずは駅の改札脇の駅員室に立ち寄り、窓越しに写真を差し出して、声を整えながら、三日前の夜遅くから二日前の朝までの間に、この女性が駅の周辺を通らなかったかと尋ねた。年配の駅員は、写真にゆっくりと目を落として、首を傾げ、思い当たらない、と短く返した。
「乗降のお客様の顔は、いちいち記憶する立場にないんでね」
短い断りの声には、問われ慣れた疲労の色が混じっており、俺は短く頭を下げて駅員室を離れた。
次に、駅前のキオスクの店主と、ロータリーの角の朝から開いている喫茶店のマスターにも写真を見せた。どちらも思い当たらない、早朝の常連の顔しか覚えていない、と短く返っただけだった。
その隣の花屋の主人は、写真に目を落とす前に、こちらの問いかけ自体を警戒の目で受けた。短く断られて、俺は離れた。
駅から少し離れた郵便局の前のベンチに、長く座っているらしい年配の男が一人いた。写真を見せると、しばらく考えてから、二日前の朝早く、この女の人を、男の人と一緒に歩いているのを見たような気がする、と曖昧に返した。男の方の特徴は、覚えていない、とも。
薄い線が一本だけ引かれた。まゆりが、男と一緒に歩いていた、というところまで。まだ、男の像は空白だった。
午前のうちに、俺は十人以上に声をかけたが、半分以上は何も得られなかった。
午後の早い時間、駅前から少し離れたコンビニの前で、配達トラックを停めて休んでいた中年の運転手が、写真をしばらく見たうえで、頷いた。
「ああ、この女の人なら、見たかもしれない。二日前の朝早く、駅の方から、男と一緒に歩いていた」
「男のほうの様子は?」
「フードを目深に被って、マスクをしてた。色は黒だったか。男のほうが、女の人の腕を片手で軽く支えるみたいにしてた。女の人は自分の足では歩いてたが、足取りはやや覚束なかったかな」
俺は、駅前・徒歩・フード・黒マスクと並べたあとで、別の枠に補助でもう一行書いた。男の身体的特徴:未確定、と。
午後の遅い時間、俺はもう一度駅前のロータリーに戻った。客待ちのタクシーが三台、駅舎に背を向けて並ぶ中、長く同じ場所で停めている運転手は、人の出入りを記憶していることが多い。最後に残しておいた相手が、この運転手だった。
窓越しに、列の端の年嵩の運転手に軽く頭を下げ、まゆりの写真を見せた。運転手は新聞から目を上げて、こちらの差し出した写真を、しばらく見た。
「ああ、この女の人なら、見覚えがあるよ」
運転手の声には、覚束ない記憶を辿るような揺らぎではなく、確かに見た、という手応えがあった。
「二日前の朝早くだろうな。あの角に立ってたとき、ちょうど駅から出てきた。男と一緒だった。男は、こっちの背格好より、わずかに低いくらい。フードを目深に被って、マスクをしてた。色は黒だったね」
顎の動きで、運転手はロータリーの向こう側の角を指した。
俺は、声を一段低く落として、続けた。
「男の歩き方や見た目で、なにか他に気づいた点は?」
「歩き方は、ふつうだった。早足ではあったが、足音は立てないようにしていた。それと――」
運転手は、自分の首のあたりに、軽く指を当てた。
「フードとマスクの間、ちょうど首の側面に、ちらっと痣のようなものが見えた。形は思い出せないが、マスクのゴム紐の下の、ちょうど見える位置だ。気にしていなかったら、見落としていたかもしれない」
俺は、薄く引かれていた男の像に、ひとつだけ、はっきりとした輪郭を加えた。
首の側面の、痣。
〈ゲート〉の同期で、首の側面に、決まった位置の痣を持つ男は、一人だけだった。透の首の左側、耳の下から鎖骨に向かう途中の、二センチほどの楕円の痣。普段は襟の影に隠れていて、本人も気にしていない。けれども、フードと黒マスクで顔の大部分が覆われた状態では、その痣がちょうど、いちばん目につく位置に残る。
動かす根拠は揃いつつあったが、それでも、まだ最終の線は引きたくなかった。その輪郭を、俺はすぐには動かさなかった。
「助かりました」
「いや、いいよ」
運転手は新聞を膝から戻し、視線を駅舎の方へ戻した。
俺はタクシーの列を離れながら、もうひとつ別の線も引いていた。透が、俺とまゆりに、まともな理由も説明も残さず、私的休暇という形で消えるはずはなかった。親友としての三年と少しの時間が、その一点については、迷う余地を残していなかった。
それでも、機関は捜索の言葉を使わず、書類だけを淡々と回している。なぜ動かないのか、いまの俺はまだ言い当てる手がかりを持たず、その違和感をひとまず保留した。
◇◆◇
一日目に拾えたのは、その運転手の証言までだった。
駅前を離れて、街の中央通り沿いの古い宿に一夜を借り、狭い和室の畳の上で、積み上げた情報を一度、整理し直した。手持ちの線は、駅前で見られた人物の像と、〈ゲート〉敷地の北の塀の根元の二本の線。塀の外で人を運んだ動線が、駅前に届くまでの動線と、その先がまだ、繋がっていなかった。
◇◆◇
翌朝、二日目の俺は、宿を出てから街の動線を辿り直すことに充てていた。
駅前から先、まゆりと男が次にどこへ向かったか。手元の写真を頼りに、聞き込みの相手は、駅前を離れ、街の中の人通りの薄い動線に沿って、商店主・配達員・公園の常連の老人にまで広げた。十人を超えて声をかけたが、半分以上は何も得られず、何人かはこちらを訝しんで離れた。
午後の遅い時間、橋向こうの古い米屋の主人から、ようやく一片の情報を得られた。写真を見せた瞬間、米屋の主人は、ああ、と短く声を漏らした。
「三日前の朝だったかな。この女の人が、男と一緒に歩いてたのを見たよ。橋を渡って、川沿いの方角だ。男は女の人の腕を片手で支えるみたいにして、早足だったが、足音は立たないように歩いてた」
「男のほうで、覚えていることは?」
「フードに黒マスク。背は、あんたよりわずかに低い。それと、首の側面に、痣みたいなものがちらっと見えた。マスクの紐の下のあたりだ」
俺は、米屋の主人の指した方角を地図に落とした。橋向こう、川沿い、北の方角。線は、駅前から北西へ、市街の外れを抜けて、川沿いに収束した。男の像には、駅前の運転手と同じ特徴が、もう一段重なった。
川沿いには、古い倉庫が並んでいる。市街の北の縁を緩く蛇行している川で、物流が郊外の高速沿いに移ってから半数以上は使われていない。
俺は、川沿いに沿って倉庫の列を遠目に見ながら、ひと通り歩いた。立ち止まらず、明日の動線を組んだ。倉庫の数は二十棟ほど。一棟ずつ人目を避けて確かめるなら、明日は朝から一日がかりになる。
日が落ちる前に俺は宿に戻り、地図を畳み直した。
二日目を、ここで畳んだ。
◇◆◇
三日目の朝、俺は宿を出る前に外出許可証の朱印を上着の内側で確認した。許可の上限は、今日と明日の朝までだった。
川沿いに着いたのは、空が薄く明るくなってきた頃だった。
川沿いの倉庫の列には、人の気配が薄かった。
俺は、列の北の端から一棟ずつ、扉の様子を確かめながら歩いた。半数以上の扉は、長く開いていないことが錠の錆と埃で外見だけで分かった。残りは、その日にだけ動いた様子のあるものと、定期的に動かされているものと、おおよそ二種類だった。
人の気配があるたびに手を止め、川べりの物陰で間合いをやり過ごしてから、次の一棟へ移った。一棟ごとに錠と埃と扉の建て付けを外から検分する作業は、思っていた以上に時間を食った。北の端から順に潰していくうちに、薄明はとうに引き、日は頭の上を過ぎていた。
北から五棟目の倉庫の前で、俺は足を止めた。
扉の錠が、新しかった。
倉庫そのものは古かった。外壁のトタンは長く錆び、軒下の埃はふだんから誰も払っていない埃の積もり方だった。けれども、扉の錠だけが、ほとんど傷のない新しいものに最近、付け替えられていた。錠の鍵穴の周りの金属の光り方は、屋外で一ヶ月以上は経っていない光り方だった。
違和感の解釈は、二つあった。
一つは、定期的に使う側の関係者が、保安のために錠だけ更新した、というもの。これは、倉庫の他の様子と整合しなかった。倉庫そのものに、保安への投資の気配がなかった。
もう一つは、最近誰かがここを使い始めた、というもので、こちらの方が、はるかに整合した。
俺は、扉の周りをゆっくり歩いて回った。
倉庫の建物の側面、地面と外壁の境目あたりに何かが落ちていた。
俺は屈み込んだ。
黒い布の、スカーフの一片だった。素材は、ふだんの倉庫の作業着には混じらない、滑らかで薄い織りだった。指で持ち上げて、光に透かした。
指先が、そこで止まった。
透が、私服のときに肩に巻いていたスカーフの質感に、色も、編みの密度も、幅も、近かった。
俺は、布を地面に戻した。
戻しながら、その形を、動かさないように努めた。動かしてしまえば、断定が早すぎる。けれども、形は消えなかった。タクシー運転手と米屋の主人が、二度にわたって指さした首の側面の痣、フードと黒マスク、そしていま、この布。並んだ事実のひとつひとつが、透の方向に振れていた。
俺は、息を深く吸って、止めた。
止めたまま、扉に近づき、錠に手をかけた。錠そのものは新しかった。けれども、鍵は、かかっていなかった。
錠が新しいということは、内側に、保管しておきたい何かがある。それでいて鍵をかけずに離れたということは、急いでここを出たのかもしれない。
その頃には、日は西の傾きにさしかかって倉庫の列の影が長く川べりへ伸び、一棟ずつを慎重に潰してきた三日目は、あらかた暮れかけていた。
◇◆◇
俺は扉の取っ手に静かに手をかけ、ゆっくりと押し開けた。
扉が開いた瞬間、空気の温度が外との差を、はっきりと伝えてきた。中の空気は、外の日暮れの冷えよりも高く、誰かがつい先ほどまでここで体温を発していた、という温度だった。
俺は、息を整えた。
倉庫の内部は、思っていたよりも生活の温度を残していた。
壁際に、簡易の寝具が二つ、互いの距離を取った間隔で並んでいた。寝具のうちの片方の毛布を、俺は手の甲で軽く触れた。
毛布の表面に、わずかに体温が残っていた。
体温は、人が離れてから数時間で抜ける。それでもまだ、抜けていなかった。つい先ほどまで、ここに人がいた。
俺は寝具の周りに目を移した。
床の上に、湯飲みが二つ伏せて置かれていた。底の方にうっすらと残る水の跡は、まだ蒸発しきっていなかった。染みの縁の濡れ具合は、数時間と経たない跡だった。
壁際の棚の上には、簡素な食料の包装がいくつか畳んで重ねられていた。包装の内側に残る油分の硬さから判断すると、ここ数日のうちのものだった。
俺は部屋の隅の卓の上に視線を移した。
卓の上には、湯飲みとは別に薄手の陶器のコップが二つ置かれていた。一方は底をきちんと座らせて立っていたが、もう一方は、卓の縁ぎりぎりの位置で横倒しになっていた。
倒れた向きは、扉の方を指していた。
そばを抜けるときに、急いだ腕か、衣服の端が触れたか、と読める倒れ方だった。
俺は、ここまでに置いた事実を、もう一度並べた。施錠されていなかった新しい錠、寝具の温もりの残り、湯飲みの水の跡、食料の包装の油分、そして倒れたコップ。
数日間、ここで二人が暮らしていた。ごく最近、数時間と経たないうちに二人はここを離れ、そのとき片方が、卓の縁のコップを倒すほどの急ぎの動作で扉から出た。
二人。
うち一人が、まゆりであることは、もはや疑いの薄い情報になっていた。寝具の片方に残る、わずかな髪の長さ。湯飲みのうちの一つに、ほんのかすかに残った、まゆりの愛用する香りの残り。証拠としては薄い。それでも、複数の側面の積み上げが、ひとつの判断を支えていた。
もう一人。
タクシー運転手の話、黒い布、そして卓上のコップを倒した急ぎの動きは、いま、ひとつの名前の方へ、揃いはじめていた。
俺は、その重なりを押し止めたまま、別の判断だけを引き出した。
まゆりは、まだ生きている。
ごく最近、ここを離れている。徒歩で、ここから移動できる範囲にしか、まだ届いていない。間に合うかもしれない。
俺の中で、観察と分析に置かれている回路が、初めて希望という形のない言葉に触れ、その瞬間、別の回路が同じ強さで不吉な予感に触れた。
ふいに、今日一日の自分の足取りが、時間の軸の上に並んだ。
朝から、この川沿いの倉庫の列を、北の端から一棟ずつ潰してきた。気配を感じるたびに手を止め、川べりの物陰で間合いをやり過ごしては、次の一棟へ移った。その一日の、どこかの数時間の中で、二人はこの倉庫を出ている。
同じ川沿いの、そう遠くもない帯を、俺と二人は、時間をわずかにずらして通り過ぎていた。俺がどこかの錠に屈み込んでいた、ちょうどその頃。物陰でやり過ごした気配の一つが、あるいは――
俺は、その先を組み立てるのを、途中でやめた。
組み立ててしまえば、いちばん近づいた一瞬に、それと知らずまゆりを見送っていた、という一行が残る。残せば、走り出す前に、足がすくむ。
ここに二人がいた、ということは、まゆりの傍に、もう一人がずっといた、ということだった。
もう一人が誰なのか、押し止めようとしても、その像は、もう、消えなかった。
◇◆◇
倉庫を出た俺は、扉の前の地面に、屈んだ。
地面には、二人ぶんの足跡が、外向きに残っていた。片方は歩幅が乱れ、たびたび内へ流れかける。そのつど、もう片方の側へ引き戻されていた。足跡は、倉庫の前の小道を抜け、川沿いの方ではなく、北の山の方へ延びていた。
北の山の方には、採石場の跡地があった。
二十年前に閉鎖された、市街から外れた採石場は、閉鎖以後ずっと立ち入り禁止のまま、誰も近づかない場所として、市街の人間の記憶からも徐々に薄れていた。
俺は、その並びの意味を、短く整理した。
走った乱れは、どこにもない。片方は自分の足で立ってはいるが、その足取りは覚束なく、もう片方が、絶えず腕のあたりを取って、行く先へ向かせていた。
倉庫のコップは、急いだ手の向きに倒れていた。急いで出た。それでも、この足では走れない。走らせることも、できなかったのだろう。
もう一人は、まゆりを離さないまま、山へ向かっていた。
不吉な予感が、はっきりとした形を取った。
俺は立ち上がった。
上着の前を整え、靴底の砂利を払い落とした。
走り出すまえに、息を深く吸って、止めた。
そのまま、走り出した。
◇◆◇
日はすでに稜線の向こうへ落ち、空はいよいよ暮れ色を深めていた。川沿いから市街の北の外れを抜けるまで、俺は走った。止まらなかった。
息は、走り始めて十分の間に、走るための息に切り替わった。あとは距離を時間に換算する作業だった。
時間は、冷たかった。倉庫を離れた二人の足取りを、まゆりの体力を控えめに見積もって、頭の隅で測った。追って走り抜ける俺と、先を行く二人との差を、感覚が、そのまま告げてきた。
差は、決して近くなかった。
別の回路の側で、抑えきれない感情が、ゆっくりと浮き上がっていた。
まゆりが、まだ生きている。
その判断が、いちばん先に走りを動かしていた。
次に、いっしょにいるもう一人の形が、無視できない太さで立ち上がっていた。タクシー運転手の指が示した、首の側面の痣。米屋の主人が同じ位置を口にしていた、二度の重なり。倉庫の側で拾った黒い布の質感。卓上のコップが端へ倒された、急いだ手の動き。形は、それらすべてに、わずかな差で整合してしまっていた。
俺は、走りながら、その形の名を、口の中で言わなかった。
言ってしまえば、走りの強度がひとつ変わる。間に合うかもしれない、という方の願いに、最悪の予感が混ざる――それだけは、混ぜたくなかった。
まゆりが、まだ生きている、その一行の上だけで、走り続けていたかった。
走りの中で、別の薄い線がゆっくり浮かんできた。透のときも、まゆりのときも、機関は捜索の言葉を使わず、同じ宣告文の書類だけを淡々と回した。本格的に動こうとしなかった。
その不自然な静けさには、本気で止める気がないのだ、という読み筋が薄くあり、あるいは、何か知っているのではないか、というもう一段別の筋もあった。どちらも仮説の段階のまま、一旦、そこに置いた。
舗装路から砂利道に変わり、砂利道はやがて山の縁の傾斜にかかり、右手に薄い杉の林が広がる中、息が一段、上がっていた。それでも、足は止めなかった。
◇◆◇
杉林の縁を抜けて、視界が一度、開けた。
開けた視界の先、低い稜線の向こう側に、採石場跡地の輪郭が、まだ遠く、灰色の岩肌の切れ目として、見え始めた。
二十年前に閉ざされた、その跡地の北側の壁の名残りだった。
俺は、走るのを、止めなかった。




