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最強の非才 ―アノマリー―  作者: プリケツ星人
プロローグ

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5/29

単独追跡

 夜が明けて、寮の窓に薄い灰色の光が落ちていた。


 まゆりがいなくなった、翌朝。


 天井の角を一度だけ見てから、布団を畳む手を、俺は慎重に動かした。


 昨夜、机の手帳に〈ゲート〉の正規の外出許可の申請経路を並べた末に、紙の上に出てきた道筋を、俺はそのまま引き出しの奥に戻していた。


 〈ゲート〉の外に向かう前に、まず確かめておきたいのは、まゆりが消えた経路だった。


 俺は、机の上の上着に手を伸ばしながら、段取りを別の角度から組み直した。〈ゲート〉の規則の中で動く生徒としていま踏まえるべきは、まゆりが、どこからどう消えたかだった。それを自分の足で確かめてから、〈ゲート〉の外に向かう。いまの俺には、ぎりぎりの順番だった。


 昨夜、自分の中で固めた「踏み越える」決意を、形式から崩されないために、規範は逆手に取るしかなかった。規則の表面に喧嘩を売っても、機関の網の中に絡め取られて終わる。規則をこちらが先に整えてから、踏み越えの中身をその内側に乗せる。その並べ方こそが、今朝の段取りの土台だった。


 朝食を取らずに、俺は寮を出た。点呼までには、まだ時間があった。


◇◆◇


 女子寮は、男子寮の北側、〈ゲート〉敷地の中で灯籠型の街灯の列をひとつ挟んだ位置にあった。男子の俺は、寮の建物の中には踏み入れない。代わりに、俺は寮を囲む外回りの通路から、裏口の方へまず歩いて回った。


 女子寮の裏口は、ふだん出入りの少ない位置にある物資搬入用の通用口で、生徒用の正面入口とは反対側に開いていた。鉄製の扉は、いつも閉じられている。


 俺は、扉の手前の地面をしばらく見ていた。心拍は、ふだんの朝より速かった。点呼までの残り時間を、一度、数え直していた。


 地面は、夜のうちの露でわずかに湿っていた。歩道のタイルから植え込みの土へ移る境目に、ふだんの通行量では生まれにくい引きずられたような筋が薄く一本残っており、その長さは人ひとりを支える長さよりも短かった。誰かが支えられていたか、足を引きずっていたか。判別はつかなかった。


 植え込みのほうに目を移すと、低木の枝のいくつかが、根元に近い高さで外側へ折れていた。折れ口の角度は、内側から強引に押し出されたものだった。


 写真も、手帳のメモも、俺はその場では取らなかった。〈ゲート〉の敷地内で、生徒が物理的記録を取ることは、それ自体が独自捜査の証拠になりかねなかった。代わりに、見たものを一段ずつ、順に記憶へ積んでいった。


 裏口から少し離れた、芝生の縁の街灯の足元のあたりにもうひとつ、目に留まったものがあった。


 まゆりがふだん使っていた、髪を留める銀色のピンの片割れだった。芝生の上に、半分埋まる位置に落ちている。雨で土がついていたが、銀の光り方は、俺が何度も見ていたそれと同じだった。


 俺は、ピンを拾わなかった。拾わずに位置を、記憶の中に刻んだ。


◇◆◇


 女子寮の外回りを離れて、俺は中庭の縁を、〈ゲート〉敷地の北の塀に沿って歩いた。


 北の塀は、敷地でもっとも人通りの少ない一辺だった。塀の内側に植えられた低木の列と、外側の街路の高低差――生徒が立ち寄る理由はなかった。監視員の巡回経路からも、外れていた。


 点呼までの残り時間を数えながら、俺は塀の内側をゆっくりとしゃがみ込みながら、目で追った。呼吸は一段、浅く止めていた。


 低木の根元の土が二箇所、ふだんとは違う方向に踏み締められていた。踏み締められた跡は、敷地の内側から外側へ向かって長く伸びていた。塀の上、向こう側の街路を、俺は短く見上げた。塀の高さは、男子生徒の身長の倍をわずかに超える程度だった。


 俺は、その根元を、位置を変えて見直した。


 足元のコンクリートに、浅い線が二本、近い角度で並んでいた。靴底の縁で削られたような幅。位置は、女子寮の裏口と、ほぼ一直線で結ばれていた。


 俺は線の幅と、植え込みの折れの角度と、芝生の縁のピンの位置を、繋いで考えた。


 道筋は、女子寮の裏口を出発点として、北のこの一点に収束していた。


 ここで〈ゲート〉の外に出された、とひとつの見立てが薄く固まった。断定には届かなかったが、向きだけは、ぶれていなかった。


 実際にその場面を見たわけではないが、それでも、ここからまゆりが運び出された可能性がいちばん高い。外の誰かの手が、まゆりをここから連れ去った。街での足取りを辿るなら、出発点はこの塀の外側に取るしかない。


 低く一度、点呼の鐘が、敷地の中央のほうから鳴った。


 俺は塀の根元から立ち上がり、衣服についた土を払って、点呼の場へ歩き出した。歩きながら、今朝の観察を、順に並べ直した。


◇◆◇


 点呼が終わって、午前の講義の時間が始まる頃、俺は廊下で実技課長の指名を受けた。


 名前を呼びにきたのは、実技課の若い助手だった。声の温度はわずかに違った。質問の余地のない声だった。


 実技課長の部屋は、中央棟の二階にある。


 扉の前で、俺は短く息を整えた。整えなければならないと、自分でも分かっていた。


「入れ」


 部屋に入ると、実技課長は、机の向こうで書面を一枚、手元に置いていた。その書面の右の枠には、女子寮の朝の巡回記録らしい、判の朱の輪郭が薄く乗っていた。


「鳴瀬」


「はい」


「今朝、女子寮の裏口と、敷地の北の塀の根元を見て回っていたな」


 俺は、すぐには返事をしなかった。否定するための言葉は、口の内側で形にならなかった。


「はい」


 それだけだった。


「月城まゆりの失踪に関する、個人捜査だな」


「捜査、とは、まだ呼べる段階ではありません。ただ、消えた経路を確かめておきたかった、というのが近いです」


 実技課長は、書面の上に、手のひらを軽く置いた。


「言葉の選び方は、お前の言うとおりとしてやる。だが、〈ゲート〉の生徒に、個人捜査の動機は一切認められていない。これは規則だ。お前の事情は関係ない」


「はい」


「厳重注意とする。本日の処分は、ここまでだ」


 実技課長は、書面を脇に寄せた。寄せる手の動きはゆっくりだった。


「鳴瀬」


「はい」


「月城まゆりの失踪は、『私的休暇』として、処理される。生徒個人が踏み込む領域ではない。それは、頭に入れておけ」


「分かりました」


 俺は短く頭を下げたまま、口を開いた。


「課長」


「なんだ?」


「外出許可を、申請したく思います」


 実技課長は、書面の上に置いた手のひらを、一度だけ軽く持ち上げた。


「理由は?」


「亡父の命日にあたります。墓参を含めて、四日、機関を出ます」


 実技課長は、しばらく俺の方を見た。


「お前の父御の命日が今週であることは、機関の記録にある。機関は、申請されたものを、申請されたとおりに処理する」


 父が死んだのは六年前だ。命日は実際に成立する日付だった。建前としては、今週の墓参は書面上、嘘ではなかった。だが、中身――まゆりを探すという動機――は、その建前の外にあった。


「はい」


「正式な手続きを踏め。所定の書面で、寮監に上げろ。先ほどの厳重注意とは、別の処理だ」


「ありがとうございます」


 俺はもう一度、深く頭を下げた。


 実技課長の声に、規則を念押しする硬さがあった。もう一枚、別の質感が混じっていた。機関側もある程度は、まゆりとの関係を把握しているはずだった。規範の内側で、その事情に、声の一部が、そっと傾いていた。


◇◆◇


 部屋を出てから、寮に戻る廊下の途中で、俺は申請書を仕上げた。


 書面の記入欄を、ふだん書類を書くときの倍の速さで埋め、寮監の部屋に上げた。寮監の老教官は、書面に目を落として、判を押した。


「実技課長から話は聞いている」


 寮監は短く言った。


「機関の規則の中で、行ってきなさい」


 寮監の声は、いつもより緩んでいた。


 実技課長の部屋へ、書面はもう一度戻った。実技課長は、二つ目の押印欄に判を押した。書面に添えて、助手づてで俺にひとこと、伝えてきた。


「上に話を通す。本部長の判が下りたら、お前のもとにこちらから渡す」


 短い告知だった。実技課長は、その日のうちに書面を本部長まで上げた。本部長の朱印は、その日の午後、実技課長経由で俺の手元に下りてきた。申請どおりの四日間で、判は下りていた。


 〈ゲート〉の規範の中で動く生徒の申請が、半日のうちに三段を通る速度は通常ありえなかった。


 まゆりの失踪を、機関は透のときと同じ「私的休暇」の分類で処理する方針だった。その方針からすれば、墓参の建前で外を歩く生徒を認めないほうが、本来は筋に合うはずだった。


 それでも、書面の判は半日で三段を通った。


 機関全体の方針と、書面に判を押した現場の手は、必ずしも同じ方向を向いているとは限らない。寮監の声のかすかな緩み、実技課長の声に混じった別の質感。それらはおそらく、規範の内側で、現場が俺の事情に半歩、踏み込んでくれたしるしだった。


◇◆◇


 翌朝、俺は〈ゲート〉の正門の前に立っていた。


 昨日の朝、女子寮の裏口の地面を見ていた時間と、ほぼ同じ位置に朝の光が落ちていた。違っていたのは俺の足の向きと、段取りだった。


 門には監視員が二人、立っていた。許可証の写しを差し出すと、年嵩の監視員が紙の四隅を二度確認した。二度目は、少し長かった。それ以上の追及は、なかった。


「気をつけて」


 監視員は短く言った。


「行ってきます」


 俺はそれだけ返した。


 門を一歩、踏み越えた。


 〈ゲート〉の塀の内側と外側の、その一歩ぶんの差を俺は、靴底で確かめた。差そのものは、見た目にはほとんど無かった。けれども、踏み越えた向こう側の路の上で、俺の身を守るのはもう、〈ゲート〉の規範ではなかった。


 規則の中で動く生徒として申請を出し、規則の中で承認を受けて、規則の中で門の外へ出てきた。形のうえではすべてが、〈ゲート〉の規範の内側に収まっていた。


 昨夜、机の前で決めたのは、その規範を踏み越えることだった。中身は、〈ゲート〉の規範が生徒に許す範囲の外側にあった。


 俺は塀の角を曲がり、街へ歩き出した。


 歩幅は、敷地内を歩くときと変わらなかった。足元の砂利の感触は、硬かった。呼吸が一段、深い位置で止まっていた。歩幅が同じであることが、いまの俺にとってはひとつの決意の形だった。


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