まゆりの違和感
透が消えてから、二週間あまりが過ぎた。
まゆりと夜の連絡を取り決めたのは、その数日後のことだった。それからの日々が、淡々と数えられていった。透の自室の扉は、初日と変わらぬ場所に、変わらぬ角度で閉じたままだった。同じ監視員が、同じ立ち位置で、判で押した事務応答を返してきた。図書館の貸出記録は、そのあいだに何度か締め切りを跨ぎ、そのたびに同じ理由で止められた――三班の朝の鍛錬だけが、一人ぶん抜けたままの編成で、変わらぬ速度で回り続けていた。
季節は、桜の名残を片づけ終え、若葉の影を芝生の縁から張り出させていた。中庭の灯籠型の街灯は、夜にはまだ低い光しか落とせなかったが、昼の桜の代わりに、青みの濃い葉影を芝生に落とすようになっていた。
俺とまゆりの夜の連絡は、取り決めを交わした夜から、毎晩、欠かさず続いていた。
「いま、戻った」
短い文字列が、俺の端末に届く。
「了解。何もないか?」
「ない。統真くんは?」
「こっちもない」
それで一度、用件は終わる。何かあれば、もう一回。それだけの取り決めが、二週間、毎晩、同じ間合いで俺たちの端末を行き来した。
二週間のあいだに、俺もまゆりも、目に見えて疲れていた。手がかりがどこにも増えていかない時間が、毎日同じだけ積み重なっていくのは、思っていたよりも俺の胸を削った。
〈ゲート〉のカリキュラムは、透が消える前と同じ密度で回り続けていた。講義の出席も、訓練も、業務も、俺の胸の内とは関わりなく、ふだんの位置に並んでいた。まゆりがどれだけの段差を踏んでいるのか、俺にはおおよそ見当がついた。
俺はその疲れをまゆりに口にせず、まゆりも、自分の様子について口にしなかった。お互いに気づいているのは分かっていたが、それを言葉にしてしまえば、二週間の夜の連絡の、あの短い間合いの均衡が、俺の方から先に崩れそうだった。
◇◆◇
その夜、中庭のベンチに、俺はまゆりと並んで座っていた。
二週間の通例で、寮に戻る前のひととき、二人で芝生を見るために、ここで会うことが増えていた。長く話す日もあれば、ほとんど黙って若葉の影を見ているだけの日もあり、その夜は、後者に近かった。
「統真くん」
まゆりが、低い声で名前を呼んだ。並木道のあの夜と、宣告文の前のあの午後と、同じ温度の声だった。
「ん」
「なんか、よくわからないんだけど」
まゆりは、芝生の方を見たまま続けた。
「ここしばらく、ずっと、誰かに見られてる感じがするの」
俺は、すぐには返事をしなかった。気のせいだ、と返すには、まゆりの声の輪郭がはっきりしすぎていた。曖昧な不安の口ぶりではなく、二週間、ひとりで確かめ続けた末の、一回きりの報告だった。
「気のせいかもしれないけど」
付け加えるように、まゆりが小さく言うと、声の質は、最初の一文より、低くなっていた。
俺はようやく返した。返答というよりは、形をなぞる確認だった。
「そういう感じが、急に増えた、のか?」
「うん。透くんが、いなくなってから、少しずつ」
俺は、いくつかの可能性を並べて検討した。
「能力の方の話か?」
鎮静系の使い手は、周囲の状態を感じ取りやすい性質があると、〈ゲート〉の教材で読み返した覚えがあった。その延長で、誰かの視線を拾ってしまう現象が、能力的に説明できないでもなかった。
「うーん」
まゆりは、芝生の方に視線を落としたまま、しばらく考えていた。
「そうなのかも、しれないし、そうじゃないのかも、しれない」
「うん」
「能力を使ったあと、っていうわけでもないし、誰かの調子が荒れてる気配を拾った、っていう感じでも、ない」
「そうか」
まゆりの返答は、俺が提示した能力の枠の中に、そのまま収まろうとはしなかった。それでも、まゆりはそれ以上、はっきりとした言葉を自分で紡ごうとはしなかった。
「ただ、なんていうか」
まゆりが、ゆっくりと続けた。
「普段の、街中で誰かとすれ違ったときの目線、みたいなのとも、ちょっと違うんだよね」
俺は、隣のまゆりの指先を軽く握った。指は、ほんの少し冷たかった。
能力で説明しきれない違和感を、二週間、まゆりが一人で抱え続けていた。その重さは、俺の胸の真ん中に、静かに沈んだままだった。
透が去り際に投げた「まゆりのこと、ちゃんと守れよ」を、俺は軽口の皮ごと受け流していたが、あの一言に透が何かを預けようとしていた可能性に、いまの俺は、ようやく気づきはじめていた。
「今夜、もう一度、整理してみる」
俺はそれだけ言って、まゆりの指を、もう少しだけ強く握った。
◇◆◇
まゆりを送ったあと、俺は自室の机で手帳を開いた。
まゆりの違和感を、自分なりに分解しようと試みた。能力の使用後の敏感さ、夜の冷えの累積、講義中の集中の落ち方、寮の通路で目が合った相手の数――項目を立て、そのあいだを線で結ぼうとした。結ぼうとするほど、線同士はうまく繋がらず、能力の話に寄せようとしても、そこから一歩、はみ出るものばかりが残った。
その夜のまゆりからの連絡は、いつもと同じ間合いで届いた。
「いま、戻った」
「了解。何もないか?」
「ない。統真くんは?」
「こっちもない」
それで終わった。文字の並びは、二週間繰り返してきたものと、寸分違わない位置に置かれていた。指先が違和感を訴えるような気配は、その夜の文面のどこにもなかった。
俺は最後にもう一行、その夜の項目を手帳に書き足した――インクの線は、ふだんの夜と変わらぬ濃さで、紙の上に乗っていた。
その夜、寝つきは浅かった。
窓の外を、風が一度、抜けていった気配があった。確かめるほどの音ではなく、俺はそのまま寝返りを打ち、風の音だ、と片づけた――片づけたつもりだった。
◇◆◇
翌朝の点呼の整列に、まゆりの姿はなかった。
〈ゲート〉の中庭に面した広場が、いつものとおり、日々の点呼の場として使われていた。最終学年の生徒は、入口寄りの一段高い列に並んだ。俺はふだんと変わらず左から二番目、右隣のはずの場所に、まゆりがいなかった。
その隙間は、二週間前と同じ半歩ぶんの幅で、きちんと並んだ列の中に開いていた。
そのさらに右には、二週間前のままの、透の抜けた席があった。二つの空席が、最終学年第三班の列の中央に並んでいた。
点呼を取る教官は、二週間前と変わらぬ抑揚で、出席簿に目を落としたまま名前を読み上げていった。生徒の応答も、同じ間合いで返っていった。
「鳴瀬」
「はい」
俺は短く返した。声は自分でも思っていたよりふだんと変わらなかった――変えてはならない、とそう判断していた。
「月城」
応答はなかった。
「月城まゆり」
もう一度、教官が同じ名前を読んだ。同じ抑揚、同じ声量で。応答は返らなかった。空けられた半歩分の隙間に、声は吸い込まれて――消えた。
教官は出席簿に何かを書き込み、次の名前を読み始めた。整列の流れは、止まらなかった。
止まる手順が、もともと用意されていなかった。
俺の足元には、二週間前と同じ感触の地面が広がっていた。隣に立っていたはずの人が、もう一人分減っていた――それだけが、違いのすべてだった。
◇◆◇
講義棟の中央廊下に機関の宣告文が貼られたのは、その日の午後のことだった。
紙一枚の事務文書には、学年・所属・処理日時が、四角い枠の中に収まっていた。中央の欄に、本文が三行ほど印字されていた。機関長名の隣には、判子の朱が、輪郭をぼかしたまま押されていた。
本文は、おおよそ次のような内容だった。
『最終学年第三班所属、月城まゆり生徒については、私的休暇として処理する。生徒各位は本件について個別に取り上げる必要はなく、また、本件について独自に行動することを慎まれたい。通常の修学に専念されたい。』
俺は、文面を二度、目で追った。
二週間前の透の宣告文の最初の一行が、いまの一行と並んで思い出された。あちらは「自宅事情等による私的休暇として、当機関は本件を処理する」だった。こちらは「私的休暇として処理する」で、言い回しの細部は違っていた。それでも、私的休暇として片づけるという扱いそのものは同じだった。文面の残りも、捜索、という単語が一つも入っていない点も、変わらなかった。
同期生が二週間のうちに、二人立て続けに消えたのに、機関の処理は、二度とも同じだった。同じ温度で、同じ抑揚で、同じ厚みの紙一枚に収まっていた。それが何を意味するのかは、その場の俺には、まだ言葉にならなかった。透の宣告文に対して感じたのと同じ違和感が、いまはもう一段、低い場所に降りて積まれていた。同じ扱いに見えること自体が、踏み込む手がかりを、どこにも与えてこなかった。
通りすがりの同期が文面の前で立ち止まり、ちらりと見て、肩をすくめて去っていった。三班の中で、二週間のうちに二人目だ、という顔だった。立ち止まる時間は、二週間前より短かった。
俺は、廊下の端に視線を流した。事務方の窓口は、二週間前と同じ蛍光灯の下で、同じように開いていた。追加の説明をしようとする者は、誰もいなかった。
まゆりの自室は、女子寮の上階だった。男子の俺には、寮の入口から先には踏み入れられない。午後の早い時間、俺は寮の手前の通路で、三班の同期の女子の一人を、雑談の続きを装って捕まえた――ふだんからまゆりと言葉を交わす仲の相手だった。
「ちょっと、まゆりの部屋の前まで、通りすがりに、見てきてくれないか?」
頼みの口ぶりは、相手の負担にならない位置まで下げた。同期は何も訊かずに軽く頷いて、女子寮の奥へ消えていった。
しばらくして戻ってきた同期の口から聞いた話は、薄かった。扉の前には、二週間前と同じ服装の、別の監視員が立っていたという。同期は監視員の手前で足を止めるしかなく、それ以上は近づけなかった。扉そのものの様子や、室内から漏れる音の有無までは、近くで確かめられずじまいだった。聞き取れたのは、廊下に立ち会った人間の数と、扉が閉じられていること、その二点ぐらいだった。
ただ、二週間前に俺自身が透の自室の前に立ったときと、伝聞で聞いたいまの話は、足元の感触が、わずかに違った。違いの正体は、その場では言葉にならなかった。
◇◆◇
その夜、俺は自室の机の前に、長く座っていた。
手帳を開いた。昨夜まで、まゆりの違和感を分解するために立てていた項目の、最後の一行のあとには、もう、書き足すべき行が残っていなかった。
ページの上を、視線が滑った。二週間前のあの夜から、今夜のいままでに、空けられた席が二つになっていた。二人とも、もう戻ってこないかもしれない、という感触が、重く俺にのしかかった。あとに残ったのは、まだ形の決まらない予感だけだった。
代わりに、俺は新しいページを開いて、そこに別のことを書き並べ始めた。〈ゲート〉の正規の外出許可の申請ルート。寮監・実技課長・本部長の決裁経路。建前として通る理由。月命日、家族関連の事務、健康上の事由。〈ゲート〉の規範のかたちを、俺は逆向きに紙の上に並べていった。
規範を破ろう、と最初から考えていたわけではなかった。
俺はただ、〈ゲート〉という機関の理性的な枠の中で、まゆりを探す道筋が、どれだけ細く整えられているかを、自分の手で確かめていた。たどり着いた末に残る道は、貼り紙の側に立つ機関にとっては「正規」と呼ばれるかたちをしていた。けれども、その正規のかたちで動く俺の動機は、もうその枠の中には収まっていなかった。
動揺は、たしかにあった。二週間前の透の不在の上にいま、まゆりの不在が重なっていた。三人ぶんの生活の音が、二人ぶんに落ち、二人ぶんが、今夜から一人ぶんになっていた。落ち方の角度は、明らかに鋭かった。
動揺の中から、しかし、別の確かさが、はっきりと立ち上がってきていた。
守る、という意志が、いまは対象を強く絞り込んで、俺の中央に居座っていた。その相手はまゆりで、その重さは、二週間前まで俺が抱えていたものとは、別のものに変わっていた。優先順位が組み変わったのが、自分でも分かった。
手帳を閉じた。
明日、俺は〈ゲート〉の規則を踏み越える。
踏み越える、という言葉の意味を、俺は自分の中で、もう一度確かめた。無断で門を抜けることではなかった。門は、正規の手続きを使って抜けるつもりだった。建前として通る理由は、すでに紙の上に並べてあった。踏み越えるのは、機関の規範の表面ではなかった。機関が生徒に許す、理性の枠の方だった。
〈ゲート〉が想定する、捜査の動機を持たずに門を出る生徒。その想定の外側に、明日からの俺は立つ。
踏み越えて、まゆりをさがしに行く。
机のそばの、街灯に近い窓を、俺は一度だけ見た。窓の外には、二週間前と同じ夜の並木が、街灯の淡い光の際で、低く枝を広げていた。違うのは、梢の若葉の影が、二週間で濃さを増していることだった。
俺は、机の手帳を引き出しの奥に戻し、椅子から立ち上がった。




