失踪
朝の点呼の整列に、透の姿はなかった。
〈ゲート〉の中庭に面した広場が、日々の点呼の場として使われている。最終学年の生徒は、入口寄りの一段高い列に並ぶ。俺はいつものように左から二番目、右隣にはまゆり、その右隣のはずの場所に、透がいなかった。
空けられた半歩分の隙間が、列の整斉の中ではっきりと目立っていた。
点呼を取る教官は、いつものとおり出席簿に目を落としたまま名前を読み上げていく。声は淡々として、ふだんと同じ調子だった。生徒の応答も、同じ間合いで返っていく。
俺の番が回ってきた。
「鳴瀬」
「はい」
俺は短く返した。隣のまゆりも一拍おいて、
「月城」
「はい」
返事の声は、少し低い。気づいたのは、俺だけだったかもしれない。
次が透の番だった。
「影山」
応答はなかった。
「影山透」
教官が同じ名前を繰り返した。同じ抑揚、同じ声量で。応答は返らなかった。空けられた半歩分の隙間に、声は吸い込まれて消えた。
教官は出席簿に何かを書き込み、次の名前を読み始めた。整列の流れは、止まらなかった。
止まる手順が、もともと用意されていなかった。
俺は、隣のまゆりの手を見た。腰の後ろで両手を重ねた「休め」の姿勢のまま、その指先が、白く握られていた。視線は前を向いていて、こちらには向けられなかった。
点呼が終わるまで、教官の口から、影山透という名前は二度と呼ばれなかった。整列が解かれたあとも、整理を促す指示の中に、その名前はなかった。
昨夜、並木道で透の歩幅が一拍ずれた、あのときの引っかかりが、急にはっきりとした形を取って浮き上がってきた。
◇◆◇
その日の午後、講義棟の中央廊下に、機関の宣告文が貼り出された。
学年・所属・処理日時の枠で四角く囲まれた、紙一枚の事務文書だった。中央の欄に、本文が三行ほど印字されている。隣には機関長名と、判子の朱の輪郭が薄く乗せてあった。
貼り出されたという連絡は、寮監からの一斉通知で全員に届いていた。三限の終わりを告げる鐘が鳴ってから、廊下にはちらほらと、生徒たちが立ち止まる姿が増えた。俺とまゆりも、講義の合間に、その前に立った。
本文は、おおよそ次のような内容だった。
『最終学年第三班所属、影山透生徒については、自宅事情等による私的休暇として、当機関は本件を処理する。生徒各位は本件について個別に取り上げる必要はなく、また、本件について独自に行動することを慎まれたい。通常の修学に専念されたい。』
俺は、文面を二度、目で追った。
そこには、捜索、という単語はなかった。
隣で、まゆりが息を吐いた。文面のどこを見ているのかは、こちらには見えなかった。それでも、息の吐き方で、まゆりが俺と同じところを読んでいるのが分かった。
「これ、なんか」
まゆりがぼそりと言った。
「ん」
「探す気、ないみたいに見えない?」
俺は、すぐには答えなかった。文面の単語を、頭の中で並べ直していた。「私的休暇」、「処理する」、「通常の修学」。並べ直しても、出てくる結論は同じだった。
そもそも、「私的休暇」という処理が、〈ゲート〉という機関で軽々に下りるものではないことを、俺たち生徒は知っていた。外への出入りそのものが原則として制限される閉鎖機関だ。家族の都合や健康上の事由といった、ふつうに考えれば誰もが認める理由でも、申請から決裁までは何段にも積まれ、半日や一日で通ることはまずない。よほど無理のない事情でなければ、棚に上げて折られる。それが、この機関の通例だった。
その〈ゲート〉が、透については「私的休暇として処理する」と、ためらう様子もなく貼り紙の中央に置いている。本人の申請の手続きをきちんと踏んだとしても、ここまで滑らかに通る事案ではないはずだった。何かが、生徒には見えない場所で動いていた。
あいつは、俺たちに何も言わずに姿を消すような奴ではなかった。本当に私的な休暇なら、透なら、どんなに短くても理由を寄越してくる。それをしないということは、寄越せない事情があるか、寄越す前に何かが起きたか、どちらかしかない。どちらにせよ、機関がこの貼り紙のとおりに事を運んでいる時点で、生徒からたどれる線は、最初から細く整えられている。
「あいつは、こんな扱いで姿を消すような奴じゃない」
俺は低くそう返した。声は、自分でも思っていたより硬くなった。
まゆりは、それには応えなかった。応えなくていい言葉だ、ということが、隣に立つこちらにも分かった。
通りすがりの同期が宣告文の前で立ち止まり、ちらりと文面を見て、肩をすくめて去っていった。表情に、目立った動きはなかった。三班には、影山という生徒がいて、私的休暇に入った、それで一段落、そういう顔だった。
少し離れた壁の前で、別の班の二人組が、低い声で何かを言い交わしているのが聞こえた。
「捜索って、書いてないよな」
「『独自に行動することを慎まれたい』、ってあるんだから、書く気もないってことだろ」
二人はそれだけのやり取りで、肩を並べたまま廊下の奥へと歩き去った。違和感を覚えた口ぶりだったが、それを口にしてよいのは文面の許す範囲までだ、と弁えている声色だった。
俺は、廊下の端に視線を流した。教官の影は、どこにもなかった。事務方の窓口はいつものとおり淡い蛍光灯の下で開いていて、この貼り紙について追加の説明をしようとする者は、誰もいなかった。
まゆりが、俺の袖の端を軽く引いた。
「次、講義」
「ああ」
二人で、宣告文の前を離れた。
◇◆◇
その日から、俺とまゆりは、二人で透の足取りをたどり始めた。
貼り紙が出ている以上、生徒が自前で動くこと自体が機関の規範からは外れている。気付かれた瞬間、こちらは厳重注意の対象になる。それを承知のうえで、俺たちは、機関の目に映らない動き方だけを選ぶことになった。問い合わせは雑談の形を借り、足を運ぶ場所は通常の動線の中に紛れさせる。それでも踏み出すのは、透が、俺たち二人にとって、そういう線引きの内側にいる人間だったからだ。
最初に向かったのは、透の自室の前だった。寮の同階の通路に立つと、扉の前にはすでに監視員が一人立っていた。私服に近い略装で、肩には機関の徽章が小さく刺繍されている。出入りを記録する形式上の監視員だが、生徒の質問にも答える役目を兼ねている。
「中、見せてもらえないか?」
俺はできるだけ平静な声で頼んだ。返ってきたのは、慣れた口調の事務応答だった。
「私的休暇中の自室は、本人帰還まで施錠管理です。立ち入りは原則認められません」
「同期だ。あいつに貸した本を、回収したい」
「具体的な書名と、貸出記録があれば、事務窓口にお渡しください。本人帰還後に処理されます」
返ってくる言葉は、どれも文面どおりで、隙間がなかった。隙間の作り方を、訓練で知っている口ぶりだった。
扉の足元には、随時各室へ差し込まれる学内便が一枚、拾われないまま置かれていた。本人帰還後、と監視員が口にした言葉を額面どおりに取るなら、これは透が戻ってきてから処理される手筈らしい。透の自室の戸口は、外からの届けものを受け止める姿勢のままで、規則正しく止まっていた。
扉の表面に、こじ開けようとした傷はなかった。鍵の周辺に、押し合った擦れもなかった。室内側から漏れる物音もなかった。ただ、整って止まっている、その感触だけが残った。
俺は短く礼を言って、扉の前を離れた。まゆりも何も言わずに、ついてきた。
次に向かったのは、図書館の貸出記録だった。透が消える前の数週間に何を借りていたかが分かれば、関心の向き先や行動の予兆を、わずかでもたどれるかもしれない、と踏んだ。窓口に申請を出してみると、こちらも同じような言い方で、断られた。
「個別生徒の貸出履歴の参照は、教官の許可申請が必要です。今月分はすでに締まっています」
締まっています、という言い回しが、奇妙に丁寧だった。
その夕方、俺は透と仲のよかった同期の何人かに、廊下と食堂の通り道で、軽く声をかけた。話しかけ方には注意した。「探している」と言ってしまえば、機関の側に立つ生徒であれば、それ自体が告げ口の対象になりうる。
「最近、影山と何か話したか?」
俺はそう尋ねた。同期は、軽く首を振り、宣告文を見ただろう、という顔で返してきた。
「私的休暇って書いてあったぞ」
「そうだな」
「気にする気持ちはわかるけどな。宣告文が出てる以上、独自に動けば命令違反だぞ、鳴瀬」
悪意はなく、むしろ、こちらを気遣う声色だった。それでも、「独自に動けば命令違反」という言葉の置き方は、機関の宣告文の文面と、寸分違わない位置に置かれていた。
別の日、別の同期に当たった。三班の中でも、透と並んで朝の鍛錬に出ていた一人だった。
「あいつ、最後の朝、ふだんより早く食堂に来てたぞ」
その同期は、思い出すような目で言った。
「いつもなら、ぎりぎりまで寝てるくせに、その朝はやけに早かった。少なめに食って、いつもより早く出てった。たいしたことじゃないと思うけどな」
たいしたことじゃない、と本人は言いながら、わざわざ口に出して伝えてくる程度には、その朝の透の挙動は、同期の記憶に引っかかっていたようだった。
数日が、同じように過ぎていった。
寮の通路、食堂、講義棟、訓練場。動ける場所のすべてを、俺とまゆりは交互に回った。透の自室の前には、毎日同じ監視員が立っていた。図書館の貸出記録は、毎日同じ理由で締まっていた。透の親しい同期たちも、毎日同じ言葉で、優しく俺たちを止めた。
まゆりは、俺の通れない場所を、雑談の形を借りて当たっていた。女子寮の同期との茶話の続き、寮監への日常的な世間話、医務棟への形だけの相談、講義の合間に女性教官と並んだ短い立ち話。捜索の語をひと言も口にせず、相手の口の端から自然に零れ落ちるものだけを拾っていた。夜の中庭でまゆりが短く報告してくる答えは、毎晩、同じ意味の沈黙に行き着いていた。手の届く範囲が違うだけで、行き止まりだけが、いつも同じ位置にあった。
手がかりは、増えなかった。
〈ゲート〉という機関は、生徒同士の通信記録、面会記録、貸出記録、すべての糸口を、生徒からは届かない場所に置いていた。それは意地悪ではなく、最初から、そういう形に作られていた。
最後の日、俺は一人で並木道の途中の脇道を歩いた。
あの夜、透が「自販機の方」と言って逸れていった、あの脇道だった。並木の間を抜けて、自販機が三台並んでいる小さな広場に出る。広場の隅には、朽ちかけた木のベンチが一つ。それだけの場所だった。
俺は、しばらく広場を見回した。並んだ自販機にも、朽ちかけたベンチにも、透の足跡を示すようなものは何も見つからなかった。
俺は、何も買わずに脇道を引き返した。
歩きながら、これまでに集まらなかったものたちを、並べ直していた。
機関の宣告文には捜索の語がなく、最後の朝の同期の話も、今日歩いた脇道も、これといった手がかりにはならなかった。
拉致なら、争った跡が残るはずだった。襲撃なら、機関の側にも、もう少しはっきりした動揺が走るはずだった。そのどちらの跡も、俺の目の前には積まれていなかった。
あいつは、自分の足で、どこかへ向かったのかもしれない。
その推測が、ようやく落ちてきた。けれど、その先の意味はまだ、整理がついていなかった。
◇◆◇
その夜、俺はまゆりを、いつもの中庭のベンチに呼び出した。
春の夜気はまだ冷たかった。中庭の灯籠型の街灯が低い光を芝生に落とし、桜の名残の花弁は、もう地面の隅にもほとんど残っていなかった。代わりに、芝生の縁に新しい若葉の影が伸びていた。
まゆりは、講義の終わりに俺から短い連絡を受けて、十分ほどして中庭にやってきた。並んでベンチに座った。一日、特別なことを話していたわけでもないのに、二人とも、少しだけ疲れた顔をしていた。
「今日も、なかったか」
まゆりがかすかに訊いた。
「ああ」
俺はそれだけ返した。
「私のほうも、なかった」
「そうか」
短い会話だった。それで、お互いに、今日一日の結論が共有された。何度か繰り返してきた手順だった。
「統真くん」
しばらくしてから、まゆりが俺の名前を呼んだ。
「ん」
「もう、しばらくは、出てこないと思う?」
声は、責めるものでも、答えを求めるものでもなかった。並木道のあの夜と、同じ温度の声だった。
「わからない」
俺は短く答えた。
まゆりが言う「出てこない」とは、透自身のことでもあり、透の足跡のことでもあった。どちらの意味でも、今日の答えは同じだった。
「ただ、今日のところは、出てこないみたいだ」
「うん」
まゆりは、それきり、ベンチの背に身を預けた。俺は、隣のまゆりのほうを、ちらりと見た。
頬の輪郭が、わずかに細く見えた。気のせいかと最初は思ったが、気のせいで済ますには、その線が残りすぎていた。あの夜、並木道で透の歩幅が一拍ずれたとき、俺に残った引っかかりと、似た残り方だった。
「まゆり」
「ん」
「これまでは、夜にこの中庭で会って話すだけだった。明日からは、夜の連絡も、毎日入れさせてくれ」
「うん」
「お前が部屋に戻ったら、一回。何かあれば、もう一回。それだけでいい」
まゆりは、少しだけ俺のほうに顔を向けた。
「うん。わかった」
頷きの仕方は、いつもと同じ静かさだった。違っていたのは、頷きが返ってくるまでの間が、いつもより短かったところだった。
夜の中庭の街灯の光が二人の足元に低く落ち、寮の方角からは生活の音が、遠く聞こえていた。違うのは、その音が三人ぶんではなく、二人ぶんだったことだけだった。
ベンチに並んで座っているこの距離が、昨夜までと同じものとは思えなかった。距離そのものは、十センチも変わっていなかった。それでも、二人で座っているという事実の重さが、昨夜までとは明らかに違った。
あの夜、透が脇道へ逸れる前に、軽口の調子で投げてきた一言が、いまになって低い場所から浮いてきていた。あれは軽口だったのか、それとも、こちらに何かを寄越そうとしていたのか。まだ、答えは出ない。
俺は、隣のまゆりの指先を、軽く握った。
冷たかった。冷たいまま、握り返されてきた。




