三人の頃
食堂を出ると、外はもう、夕方の色をほとんど脱ぎ終えていた。
空の端にわずかな明るみが残るだけで、敷地内の地面のほうからは、夜の青さが立ちのぼっていた。〈ゲート〉の中央棟から寮へ向かう小径は、両脇に桜並木が連なっていて、昼の間はほどよい木陰の道になる。そこに、いまは白い街灯が一定の間隔で点りはじめていた。
「春なのに、夜はまだ寒いな」
透がそう言って、上着のポケットに両手を突っ込んだ。並びは、まゆりが俺の左、透が俺の右。ほぼ毎日のとおりの順だった。
「明日は、もっと冷えるって」
まゆりが静かに言う。
「マジかよ。毛布、もう一枚出しとこうかな」
透が上着の襟を立てる。
「桜、もう散りはじめてるのにね」
まゆりはそう言って、小さく笑った。それから、しばらくは黙って歩いた。並木の根元から、夜の気配と一緒に土の匂いがあがっていた。
俺たちは、特別なことを話してはいなかった。今日の演習のこと、来月の編成のこと、寮の食堂の味噌汁のこと。話の継ぎ目があったかどうかも、もうはっきりとは思い出せない。誰かが何かを言って、誰かが軽く返して、誰かが息だけで笑う。それで一日の終わりが、ゆっくりと閉じていく。
ただ、食堂で一瞬、こいつの視線が窓の外へ流れた。あの時の感じが、まだ俺の中に残っている。何でもない、とは片付けきれなかった。
桜並木の半ばを過ぎた、その辺りだった。
透の歩幅が、ふと、ずれた。
歩みが止まったわけではない。次の一歩は、ちゃんと続いた。それでも、半歩ぶんの間が、こいつの歩調の中に挟まっていた。視線の先は、並木の合間の暗がりの方へ向いていた。
俺は、声をかけなかった。
まゆりも、何も言わなかった。隣で同じ方向に、ほんの少しだけ顔を向けて、それから視線を落として歩き続ける。気づいていないふりではない。気づいていることを、わざわざ口にしないだけだった。
それから三十歩ほど歩いて、寮の灯りが見える分岐の手前まで来たとき、まゆりが俺の袖を軽く引いた。
「統真くん」
「ん」
「透くん、なんか、ちょっとね」
声は、並木の根元の暗がりに紛れるくらいの音量だった。前を歩く透には、届いていない。
「うん」
俺はそれだけ返した。
返しながら、自分の中で、何が止まったのかを確かめていた。引っかかりは、食堂のときと同じ場所にあった。透の手が止まったときの、あの感触。
「ちょっとね」
まゆりが、同じ言葉を繰り返した。続きの言葉は、出てこない。出さない、と決めたみたいでもあった。俺もそれを追わなかった。
追えば、何かが、軽い言葉では受け止められなくなる――そんな予感があった。
前を歩いていた透が、こちらを振り返らずに片手を挙げた。
「俺、ちょっと、購買のとこ寄ってく」
「もう閉まってる時間だろ」
「いや、自販機の方」
透の声は、いつもの軽さに戻っていた。さっきの一拍など、なかったかのようだった。
「いってらっしゃい」
まゆりがそう言うと、透は半身だけこちらを振り返って、片手をひらりと振った。それから、軽口を挟むような調子で、もう一言だけ、こちらに投げてきた。
「統真。まゆりのこと、ちゃんと守れよ」
俺は、軽く笑い返した。
「お前に言われるまでもないって」
透はそれには応えなかった。背中が並木の影に呑まれて、灯りの隙間に消えていく。それを見送ってから、俺とまゆりは、寮への分岐の方へと足を向けた。
いまの一言は、軽口の調子で投げられていた。だから、こちらも軽口で受け流した。返した「言われるまでもない」は、まゆりを大事にしているという、ふだんの自分の在り方の確認に過ぎない。透が透なりの何かを、言葉の皮に包んで投げた――その可能性まで、こちらは届けようとしなかった。語尾の、ほんの細い硬さだけが、灯りの隙間に残っていた。
◇◆◇
寮の手前には、小さな中庭があった。
四角い芝生の囲いの中に、低い灯籠型の街灯がいくつか置かれていて、奥には学年混合のベンチがひとつ据えてある。男子寮と女子寮への分岐は、この中庭を挟んだ反対側だった。だから、ここで別れるのが、俺とまゆりの普段の段取りだった。
「ちょっとだけ、座ろうか」
まゆりが先にそう言って、ベンチに腰を下ろした。俺もそれに倣って、隣に座った。
春の夜気の中で、桜の名残の花弁が、芝生の上に薄く散っていた。盛りはとっくに過ぎているのに、いつまでも、花弁だけが地面の隅に残っている。誰かが片付けるでもなく、風で散らばるでもない。ただそこに、置かれている。
まゆりは、しばらく黙って芝生の上の花弁を見ていた。それから、俺の肩に頭を寄せてきた。寄りかかっている、というには軽すぎる重さだった。それでも、確かにそこに、まゆりの存在があった。
「統真くん」
「ん」
「明日も、たぶん、冷えるよ」
「また冷えるって話か」
「ちがう」
まゆりは、俺の肩に寄せた頭を少しだけ上げた。
「明日も、こうしてくれる、って意味」
俺は短く息を吐いた。
「するよ」
「うん」
それきり、しばらくは何も話さなかった。中庭の街灯の、低くて柔らかい光だけが、俺たちの足元に落ちている。寮の方角からは、どこか遠くで誰かが笑っている声が聞こえた。生活の音だった。
「統真くん」
しばらくしてから、まゆりがもう一度、俺の名前を呼んだ。
「さっきの、透くんの」
「うん」
「あれ、統真くんも、気づいてたよね」
声の温度は、責めるものではなかった。確認するための問いでもない。ただ、ふたりの間にあるものを、ふたりで一度、口に出しておくための声――それだけだった。
「気づいてた」
俺はそう答えた。
「踏み込んだ方が、いいのかな」
まゆりが言葉を選びながら言った。
「わからない」
俺は正直にそう返した。
まゆりは、それ以上は何も言わなかった。返事を求めて言ったのではないことが、隣に座っているこちらにも、伝わっていた。
「戻ろうか」
まゆりがそう言って、ベンチから腰を上げた。中庭の灯りの下で、まゆりは俺に向かって小さく頷いて、女子寮の方角へと歩き出した。俺はその背中を、分岐のところまで見送って、それから自分の寮へと戻った。
◇◆◇
自室の扉を開けると、内側の空気が、少しだけ冷えていた。
〈ゲート〉の男子寮は、各人に小さな個室が割り当てられている。ベッド、机、本棚、洗面台、それだけでほぼ満たされてしまう広さだった。窓は北向きで、開ければ並木の上の方が見える。
俺は鍵をかけて上着を脱ぎ、椅子の背にかけた。机の上には、ぺんぎんの置物。相変わらず深い青のまま、そこにあった。
俺はそれを、軽く指でつついた。倒れることなく、すぐに姿勢を戻した。
壁にかかった時計の音が、規則的に鳴っていた。
椅子に腰を下ろして、机の縁に肘をつく。透のことを考えていた。考えながら、考えるのをやめようとも、半分は思っていた。
あいつは、大丈夫だ。
たぶん、そう考えればいい。演習の後の疲れが残っているだけかもしれない。最終学年に上がった直後で、いろいろな雑事に追われているだけ、なのだろう。気がかりがあるなら、こいつのことだ。いずれ軽い口調で、当たり前の顔をして、こちらに話してくる。
話してくるはずだ。
それで、いいはずだ。
俺は、机の上のぺんぎんを、また指でつついた。
いま、こちらから踏み込んで、「お前、何かあるのか」と聞くこともできた。桜並木で、まゆりが「ちょっとね」と言ったあの瞬間に、もう一歩踏み込めば、透は何かを答えたかもしれない。
きかなかった。
きけば、三人で築き上げた当たり前の日々が、少しだけ形を変える。いまの夜に、自分から手を伸ばす理由が、見つけられなかった。
明日も、明後日も、きくべきタイミングは選べる。そう言い聞かせていたが、踏み込まなかったことを、いつか後悔するかもしれない――その小さな予感だけは、消えなかった。
短く息を吐いて、机の電気を落とした。窓の外、男子寮の北側に連なる並木が、街灯の光に縁取られて、夜の深い藍色の中で、いまも揺れている。透が脇道へ逸れていった桜並木は、それとは別に、この窓からは見えない寮の向こう側で、同じ夜に沈んでいるはずだった。あの道のどこかで、あいつはまだ同じ道を歩いているのだろうか。それとも、もう寮に戻って、自室の机の前で似たような形で座っているのか。それも、俺にはわからなかった。
机の上のぺんぎんを、もう一度だけ見た。深い青の体は、夜の窓の暗さに溶けかけていた。それでも、目だけはしっかりと、こちらを見返してきていた。
平穏な日だった。
ただ、明日もあいつらと並んで歩けますように、とだけ、短く願った。




