杜の下
深夜、車は高速を降りた。
料金所の明かりを抜けて数分も走らないうちに、透は暗い駐車場へ車を入れた。エンジンを切り、鍵を抜き、降りろ、とだけ言う。歩いた先には、終電の近い小さな駅があった。
ホームには、俺たちのほかに誰もいなかった。透と向かい合う位置に立った。運転席と助手席の並びが解けたのは、透の車に拾われてから、それが最初だった。
そこから先は、乗り換えの繰り返しだった。切符は透が買い、俺は渡された分を持って改札を通る。降りては乗り、乗っては降りた。区間ごとに席の並びが変わり、向かい合わせに座る車両もあれば、通路を挟んで隣り合う車両もあった。初めて顔の見える席に着いても、交わす言葉は増えなかった。
夜明け前、始発を待つ人のいないホームの端。透が口を開いた。
「遠回りしてんのは、追っ手と、行き先を洗う側の手間を増やすためだ」
説明はそれきりで、俺は頷く代わりに、白みはじめた線路の先へ視線を戻した。
手順として聞いて、それ以上の意味は拾わず、頭の残りも足りていなかった。
昼過ぎ、駅前の車寄せで待っていた別の車に移った。
運転席には知らない男がいた。透は名前を呼ばず、男も名乗らず、俺と透は二人とも後部座席に並んで座った。道を知っているのは、前席の男だった。透までもが、ここからは運ばれる側に回っていた。
窓の外を過ぎる標識の地名は、どれも読めるのに、一つも知らない土地の名だった。乗り場で耳にした人の話し声も、抑揚が、俺の知っているものと違っていた。
生活圏が、切れた。帰る道順を、俺はもう自分では辿れない。地図のどこにいるのかを知らないことより、そのことのほうが、はっきりと重かった。
夕刻、車は舗装の細くなった道の入り口で停まった。
ここからは歩きだと、透が顎で示す。透が前、俺が後ろの一列で、山の際へ延びる道を登った。市街の音は、とうに届かなくなっている。日は西の稜線に近かった。
◇◆◇
道の先に、鳥居が立っていた。
石の一の鳥居だった。傾いた日を受けて、笠木の影が長く道へ落ちている。その奥には常緑の森が盛り上がり、境内を三方から囲っていた。外の道からどれだけ目で辿っても、屋根の一つも見えてこない。社殿のある社だと知れるのは鳥居があるからで、それ以外の手掛かりが外側にはなかった。
鳥居の前に立つと、背中の側の気配が薄くなった。ここまで歩いてきた道の音も、もう聞こえない。冬の夕方の冷えが、森の匂いと一緒に降りてきていた。
鳥居をくぐると、砂利敷きの参道が奥へまっすぐ延びていた。
両側に杉の並木が続く。幹は太く、梢は高い。重なった枝の下は日のあるうちから薄暗かったはずで、夕刻の今は、砂利の白さで道筋を拾うほうが早かった。
参拝帰りの人影が二つ、俺たちとすれ違って鳥居へ戻っていった。透は脇目を振らず、砂利を踏む速さも変えずに進んでいく。歩き慣れた道の歩き方だった。
参道の右手、拝殿の手前に社務所があった。
軒下の明かりの中に、装束姿の男が立っていた――五十絡みで、手には竹箒を持っている。掃除の途中の立ち姿のまま、こちらへ顔を向けていた。
透が歩調を緩め、親指で俺を示した。
「須賀さん。急で悪いな。――連れだ。頼む」
「いえ。伺っておりましたので」
男は竹箒を軒へ立て掛け、俺へ向き直って、浅く頭を下げた。
「この社で禰宜をしております、須賀と申します」
名乗りに、続きはなかった。俺の名は訊かれず、透も、連れの素性を言い添えない。通す相手が今日来る。この場で扱われているのは、初めからその一点きりに見えた。
須賀が先に立ち、透が続き、俺が最後尾についた。ここから先は、三人の縦列だった。
「遠かったでしょう」
さっきまで箒を握っていた手を後ろで組み、歩きながら須賀が言う。
「……ええ。まあ」
「この時期は日の落ちるのが早くていけません。杉が育ちすぎたせいで、ただでさえ暗い道ですので。足元にお気をつけて」
世間話の口調だった。物見の緊張も、値踏みの間もない。砂利を踏む三人分の音の上にその声の軽さが乗って、張っていたものが少しほどけた。
参道の突き当たりが、拝殿だった。
屋根の反りの深い木造で、正面の階の前に白い紙垂の下がった注連縄が渡されている。須賀は正面へは寄らず、脇の砂利を踏んで建物の裏へ回った。拝殿の背後には、一回り小さい本殿が控えている。
その裏へ回り込んだところで、境内のひらけた側が視界から消えた。参拝者の立つ場所は、もうどこにも見えない。誰の目も届かない区画を、俺たちは列の順のまま歩いていた。砂利が途切れ、足の下が土に変わった。
本殿の裏手から森の奥へ続く一帯の入り口に、木柵があった。
柵には注連縄が渡され、木の札が掛かっている。『これより先 進入禁止・撮影禁止』。墨の文字は風雨に晒されて薄れ、柵の木肌も灰色に古びていた。
〈影環〉のために立てられた札ではない。社が、社の管理として人を止めてきた線だ。急ごしらえの気配がどこにもない。元からある禁を、そのまま借りている。この社に、隠すための細工は一つも要らなかった。
須賀が縄の端の掛かりを外した。
「どうぞ。この先は、御案内のある方だけということになっておりますので」
俺たちを通してから、須賀は縄を元通りに掛け直した。手際に、特別なことをしている気配はなく、日々の戸締まりと同じ扱いだった。
参拝の顔もせずに、禁の内側へ入ると、自分の踏む土の音が、さっきより大きく聞こえた。
森の中を、細い踏み分け道が奥へ続いていた。
行き着いた先に、石の祠があった。人の背丈に届かない古い祠で、供物はなく、注連縄も張られていない。掃き清められてはいるが、祀りの気配は、もうここには残っていなかった。
須賀が祠の前へ屈み、床の石板に両手を掛けた。石板は見た目より滑らかに動き、乾いた音を立てて横へ開いた。
下へ、石段が延びていた。
覗いても先は暗く、段数は読めない。冷えた空気が、開いた口から静かに昇ってくる。
「足元が急ですので、ゆっくりどうぞ」
◇◆◇
須賀、透の順に降り、俺が最後に段へ足を掛けた。
「済みませんが、蓋をお願いできますか」
下から須賀の声が届く。段の途中で振り返り、頭上の石板を引き戻した。
石と石の噛み合う鈍い音がして、外の光が切れた。
閉めたのは、俺の手だった。外側との継ぎ目を、自分で閉じて降りてきたことになる。
目が慣れるまで、壁に手を当てて降りた。空気は段を下るごとに冷たさの質を変え、土の匂いに石の乾きが混ざり、その奥に、地上にはなかった風の流れが細く通っていた。
降り切った先は、天井の低い部屋だった。
壁は岩盤を掘り広げた素掘りの肌と、コンクリートで打ち増した面との継ぎ接ぎで、天井には配線と換気の管が這っている。古い普請なのか、新しい普請なのか。年代を測る手掛かりが、見える範囲のどこにも揃っていなかった。
照明は白く、影が薄い。夕刻から降りてきた身体には、時刻のない明るさだった。
ここへ届くには、まず社の禁を越えなければならない。越えたところで、目に入るのは森に埋もれた古い祠が一つきりだ。立入の線が一重目、地の下が二重目。外からこの空間へ届く筋は、二段で断たれていた。
隠してある、というより、届かない場所に置いてある。そのほうが正しい言い方に思えた。
須賀は部屋の奥の通路口で足を止め、こちらへ振り返った。
「私はここまでですので」
透が短く頷き、須賀は俺へ会釈を残して、部屋の脇へ退いた。通し終えたら、そこで役目を仕舞う。地上の禰宜の顔と、地の下へ人を通す顔が、同じ淡さで一人の中に納まっていた。
透が先に立って、通路を抜けた。
その先が、広間だった。
天井が高い。太い石の柱が何本か立ち、端から端への見通しを途中で切っている。柱の奥に長い卓があり、数人が着いていた。紙の束を広げている者がいて、湯呑みを手にしている者がいる。
入ってきた俺たちへ、視線がいくつか上がった。透の顔を見ても、誰も驚かない。目はすぐ手元へ戻り、低い話し声が続いた。
誰も、俺の名を訊きに来なかった。客が来ることも、客が誰かも、この部屋では既に済んだ話に見えた。
〈影環〉は、透一人ではなく、分かっていたはずのことが、人数と卓と湯呑みを持って、目の前に据わっていた。
広間の中ほどで、透が足を止め、こちらへ向き直った。
立った場所から、三つの口が同時に見えた。右の壁に開いた通路と、左の壁に開いた通路。正面の奥、突き当たりには鉄の扉が嵌まっている。扉には錠が掛かっている。
「お前が使えるのは、この広間と、左の通路だ」
透は左を顎で示し、それから右の口と正面の扉へ、順に目を振った。
「右の先と、あの扉の向こうには入るな。以上」
理由は、付かなかった。
鉄の扉は、隠されてはいない。広間のどこからでも見える正面に据えられて、ただ、閉まっている。錠の掛かった扉が視界にあっても、卓の誰もそれを気にしていなかった。
入れない場所がある。それを、入るかどうかを選べた段階ではなく、入ってしまってから知らされた。引き返す道順は、もう俺の手の中にない。
なぜ、と訊く言葉は、喉の入り口まで来ていた。
使わなかった。訊けば答える男なら、透はとうに答えている。呑むと決めて、俺は頷いた。決めたのが自分であることを、確かめるための頷きだった。
「ああ」
透はそれ以上を足さず、左の通路へ歩き出した。卓の話し声は、そのあいだも途切れていない。俺たちのやりとりは、この部屋の日常の音量を何一つ変えていなかった。
通路に入ると、天井がまた低くなった。
壁沿いに扉がいくつか並んでいる。奥の一枚は半開きで、棚の影が覗いていた。透は通路に入ってすぐの扉の前で止まり、把手を引いた。
「ここがお前の部屋だ」
中は、狭かった。
寝台が一つ、右の壁に寄せてある。反対の壁に机と椅子、机の脇に蓋つきの物入れ。それで床の大半が埋まっていた。窓はない。壁はここも継ぎ接ぎで、寝台の上を細い換気の管が渡っている。
「寝起きはここでやってもらう。飯は広間、湯と便所は通路の奥だ。分からなくなったら誰かに訊け」
生活の場所が、告げられた。相談の形は取られていない。地上のどこかに部屋を借りるという道筋は、初めから言葉のどこにも置かれていなかった。俺も、そこへ言葉を伸ばさなかった。
敷居をまたいで、部屋の真ん中に立った。三歩で壁に届く。天井は、腕を伸ばせば管に触れる高さだった。扉に、鍵は付いていない。掛ける側にも、掛けられる側にも。
悪い部屋ではなかった。風の通り道から外れているのか、石段口の冷えはここまで届かず、寒くはない。寝台の毛布は新しく、机も拭き上げられている。ただ、それが逆に手触りとして残った。俺が着く前から誰かがここを整えて、俺の生活の置き場所を作り終えていた。
立ち止まると、足の重さが急に増した。地下の空気は温度が一定で、時間の経ちかたまで一定に思えた。ここまでの移動の長さは、時計ではなく、身体の疲れのほうに残っていた。
透は、敷居の外に立ったままだった。
「明日、戦略責任者に会ってもらう。段取りは通してある」
誰なのかは、言わなかった。何を決められる相手なのかも、言わなかった。
「……ああ」
「じゃあな」
透は部屋へは一歩も入らず、広間へ戻っていった。足音が石の床を遠ざかり、低い話し声に紛れて聞こえなくなった。
引き渡しは、それで終わりだった。透の車に乗せられてからここまでが一続きの段取りだったことが、終わり方の軽さで知れた。
扉を閉めると、部屋の外の音が消えた。
残ったのは、換気の管が立てる細い風の音と、自分の呼吸だった。寝台に腰を下ろすと、木枠が短く鳴った。
机の上には、何もない。
物入れの蓋を開けてみた。中は空だった。埃も入っていない、拭き上げられた空だった。
入れるものを、俺は持っていない――着ているものが、全部だ。庁舎を出た日の服で歩いて、乗って、また歩いて、ここに着いた。荷物をまとめる時間は、あの日からここまで、どこにもなかった。
空のまま、蓋を戻した。
ここが何なのかは、まだ測れない。宿とも違う。房とも違う。囲われているのは分かる。分かったうえで、それを退ける理由を、俺は一つも持ち合わせていなかった。
生活の場所は、ここに置かれた。俺が選んで据えたのではなく、置かれた。
電灯の白い光の下で、机の上の空きと、物入れの空きが並んでいる。
埋めるものは、明日になっても、まだない。




